スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

リング外の要求&条件外の定義

2016-07-31 19:14:24 | NOAH
 仮面貴族ナルシストであったのは間違いなく,しかし客を呼ぶことができるレスラーであったということも確かなので,ナルシズムの理由もそれ自体では不条理なものではなかったと僕は考えています。ただ,マスカラスのナルシストぶりというのは,リング内で自分本位のプロレスをするということだけに留まっていたわけではなく,リングを降りてからの扱いにも及んでいました、
                                     
 馬場は『馬場伝説』のインタビューではマスカラスが強い選手ではなかったと言っていますが,それ以外の要求については語っていません。ですが『全日本プロレス超人伝説』の中で門馬忠雄は,馬場の日本プロレスでの最後の巡業で,鹿児島の島々を船で回ったときのエピソードとして,船室やシャワーに関して文句ばかり言っているのを目撃したと書いています。門馬はマスカラスが人気に驕って天狗になっていると感じたそうです。この一件でマスカラスはほかの選手と比べて我儘すぎると思い,これ以降はマスカラスのことを嫌いになったと告白しています。
 門馬はそのとき,日本プロレスの外国人係であったジョー・樋口の堪忍袋の緒が切れて,ものすごい見幕でマスカラスのことを怒鳴りつけていたと書いています。樋口は『心に残るプロレス名勝負』の中でそれを書いています。このとき台風の影響で飛行機が欠航になったので,漁船を借りての移動だったそうなのです。ですがマスカラスは飛行機でなければ嫌だと言い張ったので大喧嘩になったとしています。マスカラスはメキシコでもほかの選手とは別待遇を受けていて,それを日本でも要求したので,だいぶてこずったと樋口は書いていますから,これ以外にもさまざまな要求があったのでしょう。
 超獣エゴイズムというのも,チェーンのようなリング内のことだけを要求したのではなく,リング外での扱いについての要求もたぶんあったのではないかと僕は想像します。ですがそういうことは語られていません。マスカラスについては語られているということは,よほど常識を逸脱した要求をしていたということなのではないかと思います。

 第二部定義二をみると,ある事物とその事物の本性は一対一で対応し合うということは明白です。一方,僕は定義されるものAと定義される内容Bが,一対一で対応し合わなければならないと考えました。これでみると第一部定理八備考二でいわれているように,定義された内容Bが定義される事物Aの本性を含むことは,定義の条件を満たしているとみなせます。そして僕はこのことが,『エチカ』のすべての定義,すなわちA群の定義にもB群の定義にも妥当しなければならないと結論しています。ですが実際に『エチカ』のすべての定義がそのようになっているということを,僕は認めることはできません。
 第二部定義六が,実在性realitasあるいは完全性perfectioの本性を説明しているとは僕には思えません。ここでいわれているのは実在性と完全性は一対一で対応し合うということだけであって,一方が他方の本性であるという意味に解することはできないと思います。
 第四部定義八は,徳virtusの本性を説明しているとみなせないこともないと思いますが,僕はそう認めません。ここでは人間のpotentiaとは人間の能動actioであるという意味で人間の力の本性が説明されているのであり,それが人間の徳であるといわれていると僕は解します。一般に徳と力が一対一で対応し合うということについては僕は認めますが,この意味で徳の本性が一般的に説明されているとは僕はみなしません。
 ただし,どういう表現が適切であるか定かではありませんが,この定義というのはきわめて人間的な定義ではあります。あるいは第五部定理四二で,至福beatitudoが徳の報酬ではなく徳それ自体であるということ,つまり人間の至福とは彼岸的なものではなく現世的なものであるということを結論するための戦略的な定義です。戦略的というのは,人間の至福というのを彼岸的なものとみなす神学的な意見に反駁することを意図しているという意味です。かような意味においてこの定義は『エチカ』のほかの定義とは質的に一線を画していると考えられます。この定義がほかの定義と異質である理由は,むしろそちらの点に依拠しているのかもしれません。ですから定義論の範疇には相応しくない可能性はあります。
コメント
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