スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

『悪霊』の構造&再分類

2016-07-25 19:04:54 | 歌・小説
 『悪霊』という小説の構造は,作品内作者が出来事を語るという形式になっています。しかしこの手法は明らかに失敗しています。作品内作者である記者は,自身が明らかに知り得なかったと推定できることまで記述してしまっているからです。なぜこのような大きな破綻が生じてしまったのか,他面からいえば作者であるドストエフスキーは,ここまで大きな破綻を出してしまいながらなぜこういう手法を採用したのでしょうか。
                                     
 はっきりとした理由はまったく分からないのですが,考えられ得る点があるとすれば,『悪霊』という小説は,検閲を受けていたドストエフスキーによるプロパガンダ的作品であったということです。本来ならばこの小説は,作品内作者などは登場させず,ドストエフスキー自身が作者として書いたということにすれば,何らの破綻も起こさずに済むことでした。作品の作者がいわば神的な視点に立って,登場人物の行動および思想について説明するというのは,小説では基本的な手法であり,いい換えれば作者がそういう立場から登場人物たちを動かすということは,小説においては許されているものだからです。なのにそういう手法を選択せず,あえて作品内作者を登場させたということは,ドストエフスキー自身はこの作品における政治的プロパガンダについて,作者である自身からは語りたくなかったのだという推測は成立することになります。自分で語るのは嫌だったので,作品内作者である記者を通じてそれを言わせたのだという推測です。
 この推測がさほど誤りではないと仮定すると,ふたつのパターンがあり得るように僕は思います。ひとつはドストエフスキーは小説を通じても自身が何らかの政治的発言の主体と解されることに抵抗があったという場合です。だから主体を記者に置き換えたのです。もうひとつはここで展開されているプロパガンダの内容にドストエフスキーは心底から共鳴していたわけではないという場合です。なのでドストエフスキーは作者自身ではなく,記者にプロパガンダを代行させたのです。この場合,ドストエフスキーの転向は表向きのものであったということになるでしょう。

 もう一度,書簡九のスピノザの分類を振り返りましょう。スピノザはそこで,それ自身が吟味されるためにのみ立てられる定義と,定義されるものの本性が求められているときにそれを説明するための定義とに分けていたのでした。僕は『エチカ』の定義は記述上はすべてが前者であると判断します。ですが記述は前者でも後者が同時に求められなければならない定義もあると解します。第二部定義五第二部定義五説明の内容から僕は定義であることについて是認しますが,それは前者だけではあり得ず,後者も同時に求められるのです。つまり僕は前者だけで適当なものを純粋種,後者も必要なら亜種と規定したわけです。
 これをまとめるために,スピノザの分類を別の観点から解釈し直すことにします。スピノザはAをBと解する,他面からいえばBであるものをAであるというというのはよい定義としています。これは分類上は前者です。しかしこれを,Aが吟味されるために立てられる定理とは解さないことにします。ここではスピノザは定義されるものAだけに注目して,ある立場を表明しているのだと解するのです。したがって,定義されるものの本性が求められる定義というのを,それがたとえAをBと解するという形式で記述されているのだとしても,AよりもBの方に着目して,定義における何らかのルールについてスピノザは言及しているというように解します。つまり,定義されるものに注目した場合と,定義される内容に注目した場合とに分類を変更するということです。僕が純粋種というのは当然ながら定義されるものに注目した定義であり,亜種といったのは定義される内容に注目した定義ということになりますが,このような分類に変更したなら,もはやそれらを純粋種といったり亜種といったりすることは不適当だということになるでしょう。同様にスピノザ自身の分類も,定義のあり方の分類としては正確さを欠いているということになります。もちろんここでいう正確さを欠くというのは,僕の考察の上では役に立たない,あるいは混乱を齎すだけの分類だという意味です。
 では先に,定義されるものAに注目した場合を探求していきます。
コメント
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