スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

五稜郭杯争奪戦&A群とB群

2016-07-27 19:00:49 | 競輪
 被災地支援として行われた昨日の函館記念の決勝。並びは新山‐菊地の北日本,木暮‐山下の関東,近藤‐成清の千葉,川村‐三谷の近畿で竹内は単騎。
 新山がスタートを取ってそのまま前受け。3番手に川村,5番手に近藤,7番手に木暮,最後尾に竹内の周回。残り3周のバックから木暮が上昇。コーナーの入口で菊地の横に。ですが前を叩くつもりはなかったようです。川村が引いてしまったので木暮が3番手,川村が5番手,7番手で内の近藤と外の竹内が併走という隊列でホームを通過。バックに入ってから近藤が内を上昇。打鐘でもまだペースはさほど上がらず,ホーム入口手前から新山が発進。展開上は成り行き先行ですが,新山はたぶん逃げる気満々だったと思いますから,絶好のマイペース先行といえるでしょう。近藤は5番手を確保し川村が6番手と後ろの隊列は乱れましたが,この時点で4番手の山下と5番手の近藤の車間が開いてしまい,近藤以下は不発。前の選手で直線の踏み合いになりましたが,最後まで順番は変わらず,逃げ切った新山の優勝。マークの菊地が1車輪差の2着で北日本のワンツー。3番手の木暮も半車身差で流れ込んで3着。
 優勝した青森の新山響平選手は記念競輪初優勝。この開催は有力と思われた選手が続々と脱落し,記念の決勝レベルとしてはやや手薄のメンバーに。新山はFⅠなら優勝候補ですので,チャンスもあるだろうと思っていました。ただこのレースは楽な展開になったのが大きかったです。木暮や近藤は先行するというタイプの選手ではありませんが,先行する可能性が最も大きそうな選手が前受けしているのに,だれも叩かずマイペースでの先行を許すというのは,ちょっとほかの選手に策がなさ過ぎたようには思います。まだデビューして1年の22歳の選手ですから,新山の将来は有望でしょう。

 ここからは唯名論的定義を,定義されるものAについて言及しているものという意味で,A群の定義Definitioと命名します。これに対して定義された内容Bに関して言及されている定義についてはB群の定義と命名しましょう。これ自体が一種の定義であって,それはA群の定義であるということになります。
                                     
 第一部定義六をA群の定義と分類できるのなら,絶対に無限absolute infinitumという本性essentiaを十全に認識するcognoscereことによって帰結する特性のうち,絶対に無限な実体substantiaに固有に適合するものの定義に関しては,いずれもA群の定義に分類できると僕は考えます。したがって第一部定義七自由libertasとか,第一部定義八の永遠性aeternitasの定義というのを,A群に属する定義であると僕は解します。実際には第一部定義七の方は,自由だけではなく強制も定義していて,それは神Deusの特性には該当しません。ですがこれは自由ではないものは強制といわれるという意味における自由の反対概念なので,自由の定義がA群の定義である以上,強制の定義もA群の定義としてよいと僕は考えます。
 スピノザがこのような定義をした意図と絡めていえば,これらの定義をA群と考えるのは誤りかもしれません。永遠性についてはともかく,スピノザは同時代の哲学および神学において認識されていた神や自由の定義を誤謬errorとみなし,それを正そうとする意図を有していたと考えられなくもないからです。そうであるならばスピノザは神とはこのような存在者でなければならず,また自由とはこういうことでなければならないと考えていたというべきなのであって,この場合にはどちらの定義もB群に属する必要があるでしょう。ですが僕はそのような思想的闘争を挑んでいるわけではありません。また,信仰される神だけを神とみなすのであれば,神は存在しないと主張することも辞しません。少なくともそのような態度で臨むのであれば,やはりこれらの定義はA群の定義であると解しておくのが安全であると思います。絶対に無限な実体が存在するということは第一部定理一一第三の証明から明白であり,しかしそういう存在者のことを神とみなすことができない人が,現代でも数多く存在するのではないかと考えているからです。
コメント
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