スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

時代&第二部自然学①補助定理一の意味

2016-07-15 18:55:51 | 歌・小説
 「波の上」という歌は,歌い手が貨物船に乗船していると解することもできるし,桟橋で出港する貨物船を見送っているというようにも解することができます。歌詞というのは決まった数のことばで語られるので,この場合のように意味が両様に解釈できるケースというのが意外に多くあります。とても有名な歌の中でいうと,「時代」はそういう解釈が可能な歌詞になっています。
                               
 この曲の場合は同じ旋律のふたつの部分がどちらも両様に解せるようになっています。両方を紹介するまでもありませんから,後から出てくるフレーズの方を例示します。

     まわるまわるよ時代は回る
     別れと出逢いをくり返し
     今日は倒れた旅人たちも
     生まれ変わって歩きだすよ


 この部分でいうと,旅人が倒れるのはいつなのか,あるいは歩き出すのがいつなのかということについて,ふたつの解釈が可能になっています。
 ひとつは,今日は倒れてしまった旅人も,いつか生まれ変わって歩き出すというものです。この場合には旅人が倒れるのは現在で,歩き出すのは未来ということになります。
 もうひとつは,かつて倒れてしまった旅人が,今日は生まれ変わって歩き出すというものです。この場合だと旅人が倒れるのは過去で,歩き出すのが現在ということになります。
 僕はこの曲を聴く場合には,第二の意味の方で解釈している場合が多いように思います。しかし「今日は」が冒頭にある語順からすると,第一の意味に解する人の方が多いのかもしれないとも思うのです。

 ある特定の運動と静止の割合を有する物体が,同一の記号で表現されるという見解は,岩波文庫版の111ページの第二部自然学①補助定理一から確かめられると僕は考えています。この補助定理では,物体は運動と静止に関して相互に区別されるということがまず述べられています。このとき,物体Aと物体Bが運動と静止に関して区別され得るためには,物体Aの運動と静止が,物体Bの運動と静止と異なっているからだといわなければなりません。もちろんその直後の第二部自然学①補助定理二の論証でいわれているように,物体Aも物体Bもあるときは運動しまたあるときは静止するという点では一致します。ですがこれは物体Aも物体Bも第二部定義一でいわれている意味において,神の本性を一定の仕方で表現するからにほかなりません。物体Aと物体Bが異なる物体として区別され得るためには,各々の現実的本性actualis essentiaには相違がなければなりません。その現実的本性の部分が,運動と静止の割合の相違を意味すると僕は考えるのです。
 この補助定理は同時に,速さと遅さでも区別されるということを主張しています。僕はこの部分が何を意味するか分かりません。それでもあえて現時点での解釈を示しておけば,ある物体は運動と静止の割合が同一であっても,その速さに相違があるなら,異なった記号で表現されることがあるというほどの意味ではないかと思います。たとえば水と氷というのは,運動と静止の割合でいえばそれは同一でなければなりません。これは同一の本性を有するものが,液体であるか固体であるかの相違だけを示しているといえるからです。したがって運動と静止の割合が同一であっても,その運動がある規定された速度よりも速い場合には水と表現され,それよりも遅い場合には氷と表現されるということがあるというような意味がここには含まれているのではないかと思います。
 いずれにしても,ある特定の運動と静止の割合を有して現実的に存在する物体は,同一の現実的本性を有するということでないと,第二部自然学①補助定理一は成立しないと僕はみます。この『エチカ』の観点から硝石の本性についての論争を検討します。
コメント
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