スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

絶対的権限&第一のパターン

2016-07-21 19:13:46 | 哲学
 スピノザは自身の政治論ないしは国家論に関するホッブズとの相違を,イエレスJarig Jellesに宛てた書簡五十の冒頭部分で簡潔に説明していました。それによれば,ホッブズの国家論では市民が国家に対して自然権jus naturaleを全面的に譲渡している,他面からいえば市民の自然権の行使に対して国家が絶対的な権限を有しているけれども,スピノザの国家論においてはそれはなく,ホッブズが自然状態と規定しているような状態において個人が保持しているとみなされている自然権を,そっくりそのまま国家状態の市民も保持しているというものでした。少し別の面からもこれを検討してみます。
                                       
 これがホッブズとスピノザの,自然状態と国家状態の概念についての相違から生じているのは間違いありません。ホッブズにとって国家とは,万人の万人に対する戦いと表現される自然状態を,人間が克服した結果として得られる状態のことです。ホッブズが実際に国家がそのようにして成立したと考えていたのか,それとも現にある国家状態を上手に説明するための思考装置としてのみそう考えていたのかは僕には分かりません。ただ,その点に関してホッブズがどう考えていたのかとは関係なく,これでみれば自然状態と国家状態,すなわち自然と国家とが対立的な関係に置かれていることは一目瞭然といえるでしょう。哲学的にいえばこの考え方は,理性によって感情を統御することが可能であり,それが人間にとっての倫理であると規定したデカルトの考え方と近似性があるのではないかと僕には思えます。
 それに対してスピノザは,ホッブズのようには自然と国家を対立するものとは考えません。むしろ国家もまた自然の一部であると考えます。ですから自然状態であろうと国家状態であろうと,個人が自然権を同じように有するということは,きわめて当然の帰結でした。
 スピノザはこの部分の末尾に,自然状態においてはこれが常道だと書いています。これはホッブズのような考え方をする人には意味不明かもしれません。国家も自然の一部なので,市民に対して絶対的権限を有することは現実的に不可能であるとスピノザはいいたいのです。

 シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesに宛てた書簡九の中で,第一のタイプの定義についてスピノザが示している事例は以下のようなものです。
 もしも公理系の製作者が,実体はただひとつの属性のみを有するといったとします。スピノザによればこれは単なる主張です。したがって証明する必要があります。つまりこのテーゼは公理系の内部では定理として記述されなければならず,定義としては不適当であることになります。
 しかしもしも,実体はただひとつの属性からなるものと解するというなら,これは定義として成立するとスピノザはいっています。ただこの場合には,公理系の内部に複数の属性からなる有が出現したときに,それを実体とは記述できなくなります。いい換えればその条件が守られる限りにおいて,これは定義として成立するテーゼであることになります。
 実際にはスピノザは後者の命題について,それはよい定義であり得るといっているのであり,定義として適当であるか不適当であるか,あるいは定義として成立するか成立しないかということを明確に言及しているわけではありません。ここでは便宜的にスピノザの説明をそのように解するということです。
 また,スピノザが実例としてこのテーゼを出したのは,書簡八でフリースが出した別の質問と関連付けるためです。実際にはスピノザは実体がただひとつの属性から成ると考えているわけではありません。第一部定理一一が無限に多くの属性から成る実体が必然的に存在すると主張していることからそれは明らかでしょう。そしてこの場合に実体とは第一部定義三でいわれている実体のことにほかなりません。
 スピノザの最初の分類に則していうならば,たぶん『エチカ』の定義というのはそのすべてがこのタイプの命題であるのです。この形に最も適合して記述されているのは,第三部定義一第三部定義二です。ここでは私はAをBと解するという形式になっているからです。しかし第一部定義一とか先述の第一部定義三のように,だれがという主語がなく単にAをBと解するという形式で記述されていても,これはこのパターンに分類されるというのが,現時点での僕の見解です。
コメント
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