スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

鳥になって&考察理由

2013-07-02 18:55:37 | 歌・小説
 悪化した精神状態を回復させるために,僕は中島みゆきを利用します。どの曲を利用するかは,精神状態がどのように悪化しているかと関係します。自殺の衝動のような場合でいえば,まず思い浮かぶのが「鳥になって」です。
                         

     眠り薬をください 私にも
     子供の国へ 帰れるくらい
     私は早く ここを去りたい
     できるなら 鳥になって


 これがこの歌の題名として採られている部分。鳥になりたいという願望を有する人間というのはわりと多いのではないでしょうか。ただ,僕にはそういう情念はありません。歌詞としていえば,むしろこちらの方が好きです。

     眠り薬をください 私にも
     子供の国へ 帰れるくらい
     あなたのことも 私のことも
     思い出せなくなりたい


 だれかのことを忘れてしまいたい,思い出せなくなりたいというのは,あり得る願望だと僕には思えます。ただ,自分自身のことも忘れたい,思い出せなくなりたいというのは,願望としては自分の中にもあると思うのですが,それはこのようにことばにされることによって,初めて気付くことができた願望であったような気がします。
 この歌は自分が消えてしまいたいということ,つまり自殺の衝動そのものを率直に歌詞にしてあるのであって,それに対する慰めとか励ましとかではありません。でもその率直な衝動を聴き,また自分でも口にすることで,なぜか回復の効果が発生するのです。

 これでなぜ僕がres particularisとres singularisに個物という同一の訳を与えて構わないと考えているのかということについてはご理解いただけたのではないかと思います。そこで最後に,なぜ長々とこれに関する考察を続けてきたのかということの理由を説明しておきましょう。というのも,今回の考察のテーマである,『エチカ』ないしはスピノザの哲学において,積極的であるということがどのような意味であるのかという観点にだけ注目するのであれば,この部分の考察はそれとは直接的には関係しませんから,なぜそのような無関係の考察を延々と継続するのかということに関しては,疑問が生じた方がいらっしゃったであろうと推測するからです。
 実は岩波文庫版の訳者である畠中尚志がそうしているように,res particularisとres singularisを両方とも個物と訳すことについて,僕はつい最近まで何の疑念も抱いていませんでした。もっとも,僕が疑念を有していないということはこの場合には大した問題とはなりません。なぜなら,仮に僕自身がスピノザの哲学に関係するある事柄の理解に何の疑念を有してはいないのだとしても,現にそれに疑念を抱く識者というのが存在する,あるいは存在したのだとすれば,それに対して僕は疑念を抱かないことの理由というのを説明する必要があるといえるからです。たとえば,第一部定理五に関していえば,僕はそれに少しの疑問も抱いたことはありません。しかしこの定理Propositioに対してはライプニッツの疑問というのがあって,それに対する僕の解答として,かつてはこの定理をテーマとして設定して考察しました。つまりいい換えれば,考察の必要性がない,あるいはないといえないまでも希薄であるという場合というのは,単に僕がその事柄に一切の疑問を抱いていないという点に存するのではなく,むしろその事柄の疑念のなさ,つまりそれは真理性のことですが,それが共有されているという点に存するのです。そして僕はつい最近まで,res particularisとres singularisに同一の訳を与えるということ,もちろんこれは日本語に特有の課題で,正しくはres particularisとres singularisが同一の概念notioであることについてというべきでしょうが,それは共有事項なのだと理解していたのです。
コメント
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