スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&神の決定

2013-05-30 19:28:23 | 将棋
 それぞれのリーグを全勝で駆け抜けた両者での対戦となった昨日の第54期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は佐藤康光九段が10勝,行方尚史八段が7勝。
 振駒で行方八段の先手。佐藤九段の一手損角換り4からのダイレクト向飛車。角を打ち合って取り合う形から,後手が早々に端に角打ち。構想力が問われる将棋になりましたが,後手の指し方がまずかったようで,一直線の攻め合いに入ったところでは先手が優位に立っていたように感じられます。ただ,実際に進んでみるとかなり難しかったです。
                         
 先手が王手と歩を成ったところ。△5一王と逃げていますが,△5二王だと自信がなかったという先手の感想があります。▲6三とと取ることができました。対して△6二歩と受けていますが,これは終盤の手としては迫力不足の感じ。▲5二銀△同飛▲同と△同王で清算。▲3四角と王手しました。そこで△4三銀と受けたのが決定的な敗着だったようです。先手は▲7一飛と打ちました。
                         
 このとき,4三に打ってあるのが金だと後手の駒台に銀があり,△8六金▲同歩△8七銀と角にヒモを付けながら攻め込む順があったとのこと。これを逃したので第2図からは△3四銀▲7六飛成。これは一時的にであれ先手玉がかなり安全となり,勝負の帰趨が見えたようです。一手違いになったのは個人的には驚きだったのですが,先手がそのまま勝っています。
 行方八段が勝って挑戦者に。タイトル戦初出場。第一局は7月10日と11日です。

 このように帰納的に考えるなら,第一部定理二六第一部定理二七で神の決定といわれている事柄を,実はそんなにも重大な事柄とは考えなくてもよいように思えてこないでしょうか。実際,神による決定の質的な意味での重さというのは,それがどんな決定であったとしても均一なものとして考えられなければならないのです。そしてそうであるならば,各々の具体的な決定というのをみるとき,それは一つひとつが重大な決定であると考えることも可能ですが,逆に,決定などとは意識しなくてもよいような決定なのだと考えることもできる筈だからです。
 これらの定理でいわれている物の作用に関していうならば,もはやそれを神による決定という要素を捨象してしまっても,考えることが可能です。すなわち,物は神の本性の必然性に適合するような作用であれば,その作用をすべてなすでしょう。逆に神の本性の必然性に反するような作用があるとしたら,そんな作用をなすことは絶対にないでしょう。また,物が現に作用をするとして,その作用の側からこれをみる場合には,すでに示したように,物はそれが神の本性の必然性に適合するからその作用をするのであり,それ以外の,その物がなさない作用に関しては,それが神の本性の必然性には合致しないからなさないということになります。
 したがってこれをまとめれば,物は神の本性の必然性に十全に従って,従うということばが何か強制的な要素をイメージさせてしまうのであれば,神の本性の必然性に則して,ある作用をなしたりなさなかったりするということになります。しかるに神の本性の必然性というのは,神自身のうちから生じます。というか,神の本性の必然性とは,力という観点から把握される神の本性そのもののことだと考えられるべきでしょうから,第一部定理三四により,それは神の本性そのものなのです。したがってこれは第一部定義七でいわれている自由であるものにほかなりません。よって,物が神の本性の必然性に則して作用したり作用しなかったりすることは,何らその物にとって否定的なことではありませんし,限定的なことでもないということになります。
コメント
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