スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザと演劇&消去法

2013-07-26 18:39:32 | 哲学
 スピノザの助言によって,本人いわく精神病の一歩手前から回復することができたファン・ローンは,その後もスピノザと会っていました。「レンブラントの生涯と時代」によると,スピノザとファン・ローンを含めた何人かでヨットに乗っていたとき,突風が起こったためにヨットが壊れてしまい,訪れたことがない寒村に,修理のために3日間ほど滞在しなければならなくなってしまうという出来事があったそうです。
                         
 このアクシデントの最後の晩,遭難したメンバーで演劇をしたとファン・ローンは書いています。現在のように多くの娯楽がある時代ではなく,おそらく当時は演劇というのは大衆娯楽のひとつであったのでしょう。演じられたのはアリストファネスによる喜劇,『蛙』であったことも明らかにされています。
 演劇が大衆娯楽であったとはいえ,実際にどのくらいの人が演じるという行為を日常的な趣味ないしは娯楽としてたしなんでいたのかは僕には分かりません。ただ,スピノザに演劇の経験があったということは確かです。
 スピノザと言語の関係で触れたように,スピノザはファン・デン・エンデンという教師にラテン語を習いました。エンデンのラテン語学校では,ラテン語の抑揚などを正しく習得するという目的から,ラテン語による演劇というのが授業の内容に含まれていたそうです。いずれ書評を出しますが,これはスティーヴン・ナドラーの『ある哲学者の人生』に書いてあります。
                         
 授業を受けていたのですから,少なくともこのときにスピノザが実際に演じたことがあったということは間違いないといっていいでしょう。ですから,ヨットの修理の待機中にスピノザが演劇に興じたことは,そんなに驚くべきことではないかもしれません。
 ただ,僕が知る限り,実際にスピノザが演じたことについて書かれているのはこれだけなのです。そしてそれが『蛙』であったというのが,僕には驚きでした。

 問題は,僕がres singularisを作用に決定する原因を導き出すときの,論証過程に存在します。簡単にいいますと,僕の手法は消去法に依拠しているといえるでしょう。しかしスピノザによる第一部定理二六証明においては,明らかにこうした手法が採用されてはいません。むしろスピノザは,原因および結果に関する決定と限定対義語的関係を構成すると理解する限り,決定するといわれるような原因は神でしかあり得ないということが,それだけで帰結すると主張しているように思われます。そして第一部定理二六証明への疑問の最後のものは,このことが消去法ではなくいわば直接的に導かれることの妥当性に関して,疑問を呈しているのです。したがって,物を作用に決定する原因が神であるという結論に関しては僕もスピノザも同じなのであって,したがって僕はスピノザがこの定理で主張している内容に関しては,それが正しいということに完全に同意するのですが,疑問の方は何も解消されていないということになっているのです。
 そこで疑問の方を解消するために,スピノザはこの主張のために何に訴えているのかということを検討します。
 スピノザがここで示しているのはただひとつ,神は物の存在の起成原因であり,かつ物の本性の起成原因であるということです。スピノザはここでは第一部定理二五第一部定理一六を援用しているのですが,第一部定理二五の方は神が物の本性の起成原因であることを訴求するために援用され,第一部定理一六の方は神が物の存在の起成原因であるということを訴求するために援用されているといえるでしょう。
 僕が思うに,もしもこれでスピノザの目的が達成されていると考えるならば,そこには一種の論理的な飛躍を導入しなければなりません。なぜならば,もしも物を存在に決定する原因について探求するのであれば,確かにスピノザが行っている論証によって,そのことは証明されているといえます。いい換えれば,物を存在に決定する原因というのは,とくに消去法に依拠せずとも,神であるということになるでしょう。しかし第一部定理二六が示そうとしていることは,そのこととは異なっていると理解できると思うのです。
コメント
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