おそらく仲間割れの事情は本人たちの意志とは別のところにあったと思うのですが,アラビアの怪人と黒い呪術師が遺恨決着戦を行ったように,ブロディとスヌーカもリング上で決着をつける必要が生じました。スヌーカの本心がどこにあったか僕には分かりませんが,次のスーパーフライの来日は秋のジャイアントシリーズ。このときには超獣も日本にいましたので,試合が組まれました。
この試合はまだ本格的なレスリングに至る前に鶴田が乱入。このために没収試合に終っています。この当時の全日本プロレスは,両者リングアウトとか両者反則,あるいはレフェリーがひっくり返って試合の収拾がつかなくなって終了など,不透明な決着が多く,ファンとしては消化不良の思いだけが残るような試合がかなり多くありました。当時の全日本は新日本に差をつけられていたといっていいと思いますが,おそらくこのことが大きく影響していたのだろうと思います。全日本のリングからこうした不透明性が排除されたのは,早く見積もっても1987年のピンチが過ぎた後で,それが完全な形になったのは,最良の時代の到来が近付いてきてからであったと思います。
この時代の全日本プロレスの試合としても,この一戦はとくに消化不良に終った感があります。そしてそれはおそらく,ブロディとスヌーカはリング上で仲間割れをしただけであって,実際には心が通じ合う仲だったので,本人たちの間では試合などはしたくなかったからだろうと思います。ブッチャーとシークの試合の真相が明らかにされているのに対し,この試合は何も判明していませんが,鶴田の乱入は試合を終わらせるための手段として用意されたものだったのだろうと推測します。
乱入した鶴田は観客から大きな非難を受けました。ずいぶんと損な役回りを引き受けたものだと思いますが,全日本プロレス所属のレスラーとして,引き受けなければならない仕事のひとつというように考えていたのではないかと僕は思っています。
このことから次のことが帰結します。
決定の原因というのが何であるのかということを探求する場合に,たとえばある直接無限様態に対してそれを考える場合には,単にその直接無限様態にだけ着目すれば事足ります。同じことは間接無限様態の場合にも該当します。これらは同一の本性を有するほかのものは自然のうちには存在しないということが明らかだからです。
ところが,res singularisの場合にはそうではありません。同一の本性を有する複数のres singularisは自然のうちに存在するからです。よって,一般的な意味においてres singularisに対する決定の原因であるものを探求するというのは,探求の姿勢として不十分であるといわざるを得ません。そしてただそればかりではなく,たとえば人間に対して決定の原因であり得るものが何かということを探求しようとする場合にも,やはり姿勢としては不十分であるといわざるを得ないのです。むしろ具体的に人間Aが存在する場合に,このAに対する決定の原因であるものが何であるのかということを考えていかなければなりません。抽象性と具体性に関して注意しなければならないことのうち,最大のポイントはここの部分にあると僕は考えるのです。
さて,第一部定理二一と第一部定理二二のうちには,直接無限様態に対して決定をなすのは神,ないしは神の属性であるということ,また,間接無限様態に対して決定をなすのは,その間接無限様態と同じ属性の直接無限様態であるということが含まれているのだと僕は理解します。厳密にいうと,この場合に決定というのは,作用に対する決定というよりは,存在に対する決定であるというべきかもしれません。しかし,少なくともXを存在に決定するものはXを作用に決定することも可能であると僕は思います。さらにいえば,直接無限様態であれ間接無限様態であれ,無限様態というのは必然的に,いい換えれば永遠から永遠にわたって存在するといわれなければならない様態なのですから,持続のうちに存在する有限様態すなわち個物res singularisが作用に決定されるという場合と,無限様態が作用に決定されるという場合とは,相違があると考えておくべきでしょう。
この試合はまだ本格的なレスリングに至る前に鶴田が乱入。このために没収試合に終っています。この当時の全日本プロレスは,両者リングアウトとか両者反則,あるいはレフェリーがひっくり返って試合の収拾がつかなくなって終了など,不透明な決着が多く,ファンとしては消化不良の思いだけが残るような試合がかなり多くありました。当時の全日本は新日本に差をつけられていたといっていいと思いますが,おそらくこのことが大きく影響していたのだろうと思います。全日本のリングからこうした不透明性が排除されたのは,早く見積もっても1987年のピンチが過ぎた後で,それが完全な形になったのは,最良の時代の到来が近付いてきてからであったと思います。
この時代の全日本プロレスの試合としても,この一戦はとくに消化不良に終った感があります。そしてそれはおそらく,ブロディとスヌーカはリング上で仲間割れをしただけであって,実際には心が通じ合う仲だったので,本人たちの間では試合などはしたくなかったからだろうと思います。ブッチャーとシークの試合の真相が明らかにされているのに対し,この試合は何も判明していませんが,鶴田の乱入は試合を終わらせるための手段として用意されたものだったのだろうと推測します。
乱入した鶴田は観客から大きな非難を受けました。ずいぶんと損な役回りを引き受けたものだと思いますが,全日本プロレス所属のレスラーとして,引き受けなければならない仕事のひとつというように考えていたのではないかと僕は思っています。
このことから次のことが帰結します。
決定の原因というのが何であるのかということを探求する場合に,たとえばある直接無限様態に対してそれを考える場合には,単にその直接無限様態にだけ着目すれば事足ります。同じことは間接無限様態の場合にも該当します。これらは同一の本性を有するほかのものは自然のうちには存在しないということが明らかだからです。
ところが,res singularisの場合にはそうではありません。同一の本性を有する複数のres singularisは自然のうちに存在するからです。よって,一般的な意味においてres singularisに対する決定の原因であるものを探求するというのは,探求の姿勢として不十分であるといわざるを得ません。そしてただそればかりではなく,たとえば人間に対して決定の原因であり得るものが何かということを探求しようとする場合にも,やはり姿勢としては不十分であるといわざるを得ないのです。むしろ具体的に人間Aが存在する場合に,このAに対する決定の原因であるものが何であるのかということを考えていかなければなりません。抽象性と具体性に関して注意しなければならないことのうち,最大のポイントはここの部分にあると僕は考えるのです。
さて,第一部定理二一と第一部定理二二のうちには,直接無限様態に対して決定をなすのは神,ないしは神の属性であるということ,また,間接無限様態に対して決定をなすのは,その間接無限様態と同じ属性の直接無限様態であるということが含まれているのだと僕は理解します。厳密にいうと,この場合に決定というのは,作用に対する決定というよりは,存在に対する決定であるというべきかもしれません。しかし,少なくともXを存在に決定するものはXを作用に決定することも可能であると僕は思います。さらにいえば,直接無限様態であれ間接無限様態であれ,無限様態というのは必然的に,いい換えれば永遠から永遠にわたって存在するといわれなければならない様態なのですから,持続のうちに存在する有限様態すなわち個物res singularisが作用に決定されるという場合と,無限様態が作用に決定されるという場合とは,相違があると考えておくべきでしょう。