東京2歳優駿牝馬を勝ったメイドイットマムの4代母はリンデンリリーです。5代母がシュリリー。
デビューは2歳の12月。ダート1400mの新馬を勝ちました。年明けに芝1200mのオープンに出走するも大敗。ここから休養に入ります。
復帰したのは7月。ダート1700mの特別競走で4着。同じ条件の一般競争を2着になった後,芝2000mの特別戦で2勝目をあげました。そのまま当時は10月に行われていたローズステークスに出走するとこれを優勝して重賞の勝ち馬に。このレースは当時は3歳の限定戦だったエリザベス女王杯のトライアルだったのでそのまま出走。するとこのレースも勝って大レースの勝ち馬となりました。
この後,重度の故障を発症してしまったためこのまま現役を引退。実質的には最後の3連勝のレースしか適した条件に出走しなかったという馬で,その中で大レースまで制したのですから,かなり素質が高かったのだろうと思います。
競走馬としては致命的な重傷を負ってしまいましたが,幸いなことに繁殖牝馬になることはできました。産駒の1頭であるヤマカツリリーは2003年にフィリーズレビューを勝ちました。牝系は広がっていますので,またどこかで活躍馬が出るということがあるかもしれません。
十全な観念idea adaequataであれ混乱した観念idea inadaequataであれ,人間の精神mens humanaがある特定の単一の観念にとどまるということは現実的に生じません。したがって,第五部定理四二備考で賢者が存在することをやめないといわれるとき,その賢者がある特定の十全な観念にとどまり,その他の観念に移行することはないといわれていると解することはできません。
では十全な観念から十全な観念へ移行するという意味でそのようにいわれているのかといえば,その解釈にも無理があるように僕には思えます。これもすでに説明しましたが,人間は精神の能動actio Mentisにあるとみられる状況のときにも,第四部定理四系は適用されるのであり,いくらかの受動passioに隷属しているからです。したがって,確かに第二部定理四〇にあるように,人間の精神のうちにある十全な観念があるとき,その観念を原因causaとして何らかの観念が生じるなら,その生じた観念もまた十全な観念です。しかしこのことは,だから人間の精神は十全な観念からは十全な観念へのみ移行するということを意味しているわけではありません。集中力の何たるかを説明したときにもいったように,人間の精神のうちに十全な観念があるのだとしても,その人間はその十全な観念を原因とはしないような表象像imagoに移行するということがあるのであって,それは第三部定理七にいわれている人間の現実的本性actualem essentiamにほかならないからです。いい換えれば人間の現実的本性は,十全な観念から別の原因によって混乱した観念へ移行するようになっているのです。第四部定理一は,混乱した観念の積極性は十全な観念によって排除されないという意味のことをいっていますが,これは人間の精神のうちに混乱した観念が発生するということは,人間の精神のうちに十全な観念があるというだけでは妨げられないといっているのと同じです。虚偽の積極性というのはあらゆる混乱した観念に含まれている要素なのであり,混乱した観念に含まれている積極的なものが除去されないというのは,混乱した観念が排除されないといっているのと同じだからです。もしもそれが同じではないとしたら,混乱した観念がなくてもその積極性はあるといわなければならず,不条理だからです。
デビューは2歳の12月。ダート1400mの新馬を勝ちました。年明けに芝1200mのオープンに出走するも大敗。ここから休養に入ります。
復帰したのは7月。ダート1700mの特別競走で4着。同じ条件の一般競争を2着になった後,芝2000mの特別戦で2勝目をあげました。そのまま当時は10月に行われていたローズステークスに出走するとこれを優勝して重賞の勝ち馬に。このレースは当時は3歳の限定戦だったエリザベス女王杯のトライアルだったのでそのまま出走。するとこのレースも勝って大レースの勝ち馬となりました。
この後,重度の故障を発症してしまったためこのまま現役を引退。実質的には最後の3連勝のレースしか適した条件に出走しなかったという馬で,その中で大レースまで制したのですから,かなり素質が高かったのだろうと思います。
競走馬としては致命的な重傷を負ってしまいましたが,幸いなことに繁殖牝馬になることはできました。産駒の1頭であるヤマカツリリーは2003年にフィリーズレビューを勝ちました。牝系は広がっていますので,またどこかで活躍馬が出るということがあるかもしれません。
十全な観念idea adaequataであれ混乱した観念idea inadaequataであれ,人間の精神mens humanaがある特定の単一の観念にとどまるということは現実的に生じません。したがって,第五部定理四二備考で賢者が存在することをやめないといわれるとき,その賢者がある特定の十全な観念にとどまり,その他の観念に移行することはないといわれていると解することはできません。
では十全な観念から十全な観念へ移行するという意味でそのようにいわれているのかといえば,その解釈にも無理があるように僕には思えます。これもすでに説明しましたが,人間は精神の能動actio Mentisにあるとみられる状況のときにも,第四部定理四系は適用されるのであり,いくらかの受動passioに隷属しているからです。したがって,確かに第二部定理四〇にあるように,人間の精神のうちにある十全な観念があるとき,その観念を原因causaとして何らかの観念が生じるなら,その生じた観念もまた十全な観念です。しかしこのことは,だから人間の精神は十全な観念からは十全な観念へのみ移行するということを意味しているわけではありません。集中力の何たるかを説明したときにもいったように,人間の精神のうちに十全な観念があるのだとしても,その人間はその十全な観念を原因とはしないような表象像imagoに移行するということがあるのであって,それは第三部定理七にいわれている人間の現実的本性actualem essentiamにほかならないからです。いい換えれば人間の現実的本性は,十全な観念から別の原因によって混乱した観念へ移行するようになっているのです。第四部定理一は,混乱した観念の積極性は十全な観念によって排除されないという意味のことをいっていますが,これは人間の精神のうちに混乱した観念が発生するということは,人間の精神のうちに十全な観念があるというだけでは妨げられないといっているのと同じです。虚偽の積極性というのはあらゆる混乱した観念に含まれている要素なのであり,混乱した観念に含まれている積極的なものが除去されないというのは,混乱した観念が排除されないといっているのと同じだからです。もしもそれが同じではないとしたら,混乱した観念がなくてもその積極性はあるといわなければならず,不条理だからです。