スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岡田美術館杯女流名人戦&賢者的なもの

2023-01-26 19:18:16 | 将棋
 22日に出雲文化伝承館で指された第49期女流名人戦五番勝負第二局。
 西山朋佳女王・女流王将の先手でノーマル三間飛車。後手の伊藤沙恵女流名人の居飛車穴熊に対して先手が下段飛車から2筋に飛車を回ったので,先手は右玉のような将棋になりました。激しい攻め合いから形勢が揺れ動く終盤が長く続くことに。そのために分岐が多くありましたが,最も大きかったのは第1図の局面であったように思います。
                                        
 この局面で後手は☖8七龍と引きました。先手は後に龍を追い払いにいくために☗6八金。後手はそこで☖4五桂と跳ねました。これは6二の銀が浮くので思い切った一手。先手は☗3六金と逃げて☖2七歩成に☗7七金と上がりました。
 ここで☖3七ととできなければおかしいのですが,それは桂馬を渡すことになるので☗3三桂と☗2三桂が成立してしまい,後手が不利になります。なので龍取りと銀取りを受けて☖8二龍と引きました。
                                        
 第2図のように進むのであれば,第1図ですぐに☖8二龍と引いておく方が優りました。この部分の判断ミスが後手にとって最も痛かったのではないでしょうか。
 西山女王・女流王将の連勝。第三局は来月5日に指される予定です。

 第五部定理二二でスピノザがいっていることは,現実的に存在する個々の人間のコナトゥスを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが,神Deusの中にはあるということです。現実的に存在する人間は,その観念自体を十全に認識するcognoscereことができるわけではありません。このことは,たとえばスピノザが第三部諸感情の定義一で,受動状態における人間の現実的本性actualis essentiaについて,それを欲望cupiditasであるといっていることからも明白です。僕たちは受動passioによって何かを十全に認識するということはないのであって,受動によって何かを認識したならそれは必ず混乱した観念idea inadaequataであるからです。ただ,僕たちが混乱してしか認識することができないような観念が,神の中では永遠の相の下に,いい換えれば永遠から永遠にわたって存在するような観念として表現されるexprimunturということは理解するのです。
 このことを理解したのなら,その理解は第五部定理二三へと進むことができます。僕たちの精神mensのうちには,存在することをやめないようなあるものaliquid,僕たちには十全に認識することができないがゆえにそれが何であるのかは特定することができないようなあるものがあるのです。そしてそれは存在することをやめないのですから,そのあるものというのは,第五部定理四二備考のいい方に倣えば,賢者そのものであるということになるでしょうし,あるいはそうしたものについてそれを賢者ということは不適切であるとしても,賢者的なあるものであることは間違いありません。よって僕たちは,このようなことを認識していく限りにおいては賢者なのであって,存在することをやめないというような解釈ができないわけではありません。こうした解釈もまた,第五部定理四二備考の賢者は賢者としてみられる限りでは存在することをやめないといわれていることの実質的な意味として,成立する余地があると思います。
 僕はここでは第二種の認識cognitio secundi generisと第三種の認識cognitio tertii generisとをほとんど分けずに考察してきました。ただ,第五部定理二三を,現実的に存在する人間が賢者であるという場合と関連させて考えるなら,自由の人homo liberと賢者との間には実際には差異がないわけではないということとも関係させる必要があるでしょう。
コメント
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