28日と29日に金沢市で指された第72期王将戦七番勝負第三局。
藤井聡太王将の先手。後手の羽生善治九段は4手目に角道を止めました。居飛車も振飛車も作戦のうちに入っていたと思われますが,おそらく9筋を突き合ったことが理由で居飛車を選択。雁木になりました。先手は早繰り銀で対抗。早い段階で角と銀が交換になり,後手は交換した銀を打って上部を手厚くし,先手の飛車を押さえ込みにいく作戦を選択。後手がその網を食い破れるのかが焦点に。
2日目の午前中に先手は後手陣に角を打ち込んで馬を作りました。これ自体はすぐに後手玉を寄せるのに役立つというわけではなかったのですが,後手が先手玉を攻めていく手段に乏しかったため,局面をリードするという観点からはかなり有効でした。結局そのまま先手がリードを広げていって快勝という内容でした。
後手の雁木に対して先手が早繰り銀からこの将棋のような形で玉を構えると,後手は対応が難しいのかもしれません。そうであれば,その形に対する対応策そのものが後手には必要だという結論になりそうです。
藤井王将が勝って2勝1敗。第四局は来月9日と10日に指される予定です。
現実的に存在する個物res singularisの観念ideaそのものを神Deusが認識するcognoscere様式は,アポステリオリな仕方ですが,第二部定理九で示されています。この定理Propositioは,現実的に存在する個物の観念の原因causaが何かを示しているものですが,第一部公理四により,結果effectusの認識cognitioは原因の認識に依存するので,何らかの知性intellectusがある個物の原因を認識しているなら,その結果である個物を認識することになります。第二部定理七系により,そうした原因の十全な観念idea adaequataは神の中にあるといわなければなりませんから,結果である個物の十全な観念も神の中にあることになります。ある知性のうちに何らかの観念があるということは,その知性がそれを認識するということと同じ意味なので,神はその個物の観念を十全に認識します。要するに,個物Aの観念が原因となって個物Xの観念が生じるなら,神はAの観念を有する限りで,第二部定理九のいい方に倣えば,神はAの観念に変状したとみられる限りで,神のうちにXの十全な観念があることになります。
次に,Xの中に何事かが生じる場合,僕の見解opinioでいえば,Xの本性essentiaならびに形相formaに変化を齎すことが生じる場合は,その中に起こることの観念は,第二部定理九系により,Xの観念を有する限りで神のうちにあるということになります。このとき,もしXの中に起こることに対して,Xが十全な原因causa adaequataである場合は,Xの観念を有する限りでXの中に起こることの十全な観念が神のうちにあることになります。しかしもしXが部分的原因causa partialisとなってXの中に何事かが起こるという場合には,Xの観念と共にほかのものの観念を有する限りにおいて,Xの中に起こることの観念は神のうちで十全であるということになります。
このようにして,個物であるXの観念そのものについても,またXの中に起こることについても,神のうちにはその認識,十全な認識というのはあるのです。ただそれは上述のような様式で神の中にあるといわれるのであって,無限知性intellectus infinitusがそれらを認識するというわけではありません。いい換えれば神が無限知性に変状した限りで,あるいは同じことですが,無限知性という様態的変状modificatioに様態化した神のうちにそれらの観念があるのではないのです。
藤井聡太王将の先手。後手の羽生善治九段は4手目に角道を止めました。居飛車も振飛車も作戦のうちに入っていたと思われますが,おそらく9筋を突き合ったことが理由で居飛車を選択。雁木になりました。先手は早繰り銀で対抗。早い段階で角と銀が交換になり,後手は交換した銀を打って上部を手厚くし,先手の飛車を押さえ込みにいく作戦を選択。後手がその網を食い破れるのかが焦点に。
2日目の午前中に先手は後手陣に角を打ち込んで馬を作りました。これ自体はすぐに後手玉を寄せるのに役立つというわけではなかったのですが,後手が先手玉を攻めていく手段に乏しかったため,局面をリードするという観点からはかなり有効でした。結局そのまま先手がリードを広げていって快勝という内容でした。
後手の雁木に対して先手が早繰り銀からこの将棋のような形で玉を構えると,後手は対応が難しいのかもしれません。そうであれば,その形に対する対応策そのものが後手には必要だという結論になりそうです。
藤井王将が勝って2勝1敗。第四局は来月9日と10日に指される予定です。
現実的に存在する個物res singularisの観念ideaそのものを神Deusが認識するcognoscere様式は,アポステリオリな仕方ですが,第二部定理九で示されています。この定理Propositioは,現実的に存在する個物の観念の原因causaが何かを示しているものですが,第一部公理四により,結果effectusの認識cognitioは原因の認識に依存するので,何らかの知性intellectusがある個物の原因を認識しているなら,その結果である個物を認識することになります。第二部定理七系により,そうした原因の十全な観念idea adaequataは神の中にあるといわなければなりませんから,結果である個物の十全な観念も神の中にあることになります。ある知性のうちに何らかの観念があるということは,その知性がそれを認識するということと同じ意味なので,神はその個物の観念を十全に認識します。要するに,個物Aの観念が原因となって個物Xの観念が生じるなら,神はAの観念を有する限りで,第二部定理九のいい方に倣えば,神はAの観念に変状したとみられる限りで,神のうちにXの十全な観念があることになります。
次に,Xの中に何事かが生じる場合,僕の見解opinioでいえば,Xの本性essentiaならびに形相formaに変化を齎すことが生じる場合は,その中に起こることの観念は,第二部定理九系により,Xの観念を有する限りで神のうちにあるということになります。このとき,もしXの中に起こることに対して,Xが十全な原因causa adaequataである場合は,Xの観念を有する限りでXの中に起こることの十全な観念が神のうちにあることになります。しかしもしXが部分的原因causa partialisとなってXの中に何事かが起こるという場合には,Xの観念と共にほかのものの観念を有する限りにおいて,Xの中に起こることの観念は神のうちで十全であるということになります。
このようにして,個物であるXの観念そのものについても,またXの中に起こることについても,神のうちにはその認識,十全な認識というのはあるのです。ただそれは上述のような様式で神の中にあるといわれるのであって,無限知性intellectus infinitusがそれらを認識するというわけではありません。いい換えれば神が無限知性に変状した限りで,あるいは同じことですが,無限知性という様態的変状modificatioに様態化した神のうちにそれらの観念があるのではないのです。