15日に岡田美術館で指された第49期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は伊藤沙恵女流名人が3勝,西山朋佳女王・女流王将が10勝。
岡田美術館の館長による振駒で伊藤女流名人の先手。西山女王・女流王将のノーマル三間飛車。先手の玉頭位取りのような戦型になりました。
第1図から後手は☖4六飛と切り,☗同金に☖6六歩☗5六銀☖6七歩成☗同銀と6筋の歩を消してから☖9九角成と,二枚換えの手順に進めました。
この後の手順からすると歩はあった方がよかったように思えるので,その点は一歩をもらった先手の方が得をしているかもしれませんが,二枚換えで馬を作った局面は先手に手の施しようがなく,後手が必勝となっていました。
したがって第1図は後手が優勢です。先手は押さえ込みを狙いに指していましたので,その網が食い破られた時点ですでに厳しかったようです。押さえ込みにいく前にやや動き過ぎたのではないでしょうか。
西山女王・女流王将が先勝。第二局は22日に指される予定です。
持続duratioのうちに存在するあらゆる個物res singularisは存在することをやめます。他面からいえば,ある個物が持続するdurareといわれる場合は,その個物の存在existentiaには開始があって終焉があるのです。これは賢者が現実的に存在するといわれる場合,すなわち個物が持続するといわれる様式で存在する場合にも妥当します。だから第五部定理四二備考で賢者は存在することをやめないといわれるとき,賢者が現実的に存在するとみられる限りでは,それを文字通りに賢者には現実的存在の終焉がないというように解釈することはできません。そしてこの備考Scholiumでいわれている賢者は,現実的に存在する人間としてのあり方のひとつを示すので,この部分を字義通りに解釈することはできないのです。
しかしこれを賢者としてではなく,賢者の精神mensのうちにある十全な観念idea adaequataとしてみるなら,僕はそれを字義通りに近い形で解釈することができると考えます。つまり十全な観念が存在することをやめないというなら,それを字義通りに解釈することができないこともないと僕は考えるのです。字義通りに近い形ということで僕がいおうとしているのはこのことです。
第二部定理七系の意味は,神Deusのうちにある観念はすべて十全な観念であるということです。したがって,現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに,いい換えれば現実的に存在する賢者の精神のうちに何らかの,たとえばXの十全な観念があるなら,このXの十全な観念の本性essentiaも形相formaも,神のうちにあるXの十全な観念と同一です。ただこれは後付けの説明,いうなれば帰納法的な説明なので,スピノザの哲学に即して演繹的にも説明しておきます。
第一部定理一五により,あるといわれるものは神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのです。したがって現実的に存在する人間の精神あるいは現実的に存在する賢者のうちにXの十全な観念があるというときにも,それは神のうちにあるとみられなければなりません。それを示しているのが第二部定理一一系なのであって,ある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにXの十全な観念があるというのが,Xの十全な観念が現実的に存在するある人間の精神のうちにあるという場合の,スピノザの哲学での正しい説明です。
岡田美術館の館長による振駒で伊藤女流名人の先手。西山女王・女流王将のノーマル三間飛車。先手の玉頭位取りのような戦型になりました。
第1図から後手は☖4六飛と切り,☗同金に☖6六歩☗5六銀☖6七歩成☗同銀と6筋の歩を消してから☖9九角成と,二枚換えの手順に進めました。
この後の手順からすると歩はあった方がよかったように思えるので,その点は一歩をもらった先手の方が得をしているかもしれませんが,二枚換えで馬を作った局面は先手に手の施しようがなく,後手が必勝となっていました。
したがって第1図は後手が優勢です。先手は押さえ込みを狙いに指していましたので,その網が食い破られた時点ですでに厳しかったようです。押さえ込みにいく前にやや動き過ぎたのではないでしょうか。
西山女王・女流王将が先勝。第二局は22日に指される予定です。
持続duratioのうちに存在するあらゆる個物res singularisは存在することをやめます。他面からいえば,ある個物が持続するdurareといわれる場合は,その個物の存在existentiaには開始があって終焉があるのです。これは賢者が現実的に存在するといわれる場合,すなわち個物が持続するといわれる様式で存在する場合にも妥当します。だから第五部定理四二備考で賢者は存在することをやめないといわれるとき,賢者が現実的に存在するとみられる限りでは,それを文字通りに賢者には現実的存在の終焉がないというように解釈することはできません。そしてこの備考Scholiumでいわれている賢者は,現実的に存在する人間としてのあり方のひとつを示すので,この部分を字義通りに解釈することはできないのです。
しかしこれを賢者としてではなく,賢者の精神mensのうちにある十全な観念idea adaequataとしてみるなら,僕はそれを字義通りに近い形で解釈することができると考えます。つまり十全な観念が存在することをやめないというなら,それを字義通りに解釈することができないこともないと僕は考えるのです。字義通りに近い形ということで僕がいおうとしているのはこのことです。
第二部定理七系の意味は,神Deusのうちにある観念はすべて十全な観念であるということです。したがって,現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちに,いい換えれば現実的に存在する賢者の精神のうちに何らかの,たとえばXの十全な観念があるなら,このXの十全な観念の本性essentiaも形相formaも,神のうちにあるXの十全な観念と同一です。ただこれは後付けの説明,いうなれば帰納法的な説明なので,スピノザの哲学に即して演繹的にも説明しておきます。
第一部定理一五により,あるといわれるものは神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのです。したがって現実的に存在する人間の精神あるいは現実的に存在する賢者のうちにXの十全な観念があるというときにも,それは神のうちにあるとみられなければなりません。それを示しているのが第二部定理一一系なのであって,ある人間の精神の本性を構成する限りで神のうちにXの十全な観念があるというのが,Xの十全な観念が現実的に存在するある人間の精神のうちにあるという場合の,スピノザの哲学での正しい説明です。