武雄記念の決勝。並びは郡司‐岩本の南関東に佐藤,清水‐松浦-小倉-室井の中四国,山田庸平‐山田英明の佐賀。
松浦がスタートを取って清水の前受け。5番手に山田庸平,7番手に郡司で周回。残り2周のホームの入口から郡司が上昇開始。ホームで清水を叩いて誘導が退避。直後のコーナーで山田庸平が上昇して郡司を叩きました。引いた清水がバックから発進。郡司が合わせて出ようとしましたが,清水が乗り越えました。山田庸平は突っ張ったので打鐘から山田庸平と清水の先行争い。ホームで清水が前に出て,山田庸平は飛びつくことができませんでした。バックから郡司が発進。岩本が離れて山田英明がスイッチする形になりましたが,松浦の牽制を受けた郡司は失速。郡司を止めた松浦がそのまま踏み込んで優勝。マークの小倉が4分の3車輪差の2着に続いて中四国のワンツー。岩本の後ろから直線で松浦の内を突いた佐藤が4分の3車輪差で3着。自力で大外から捲り追い込んできた岩本が微差で4着。
優勝した広島の松浦悠士選手は3月の玉野記念以来の優勝で記念競輪10勝目。武雄記念は昨年も優勝していて連覇で2勝目。ここは中四国ラインと郡司の対決。清水が山田庸平を捻じ伏せるように先行し,脚を無理に使わずに番手を回った松浦に有利になりました。郡司は打鐘前のバックではじっとしておいた方が脚力を温存するためにはよかったかもしれません。
長方形の観念ideaが現実的に存在することによってほかの長方形の観念と区別されるということは,このことによらなければ長方形の観念は区別されないと解することができます。つまり一般的に個物res singularisの観念は,現実的に存在するようになってはじめてほかのものと区別されるようになるのであって,個物の観念が神Deusの無限な観念に含まれている限りでは区別されないと解することができるのです。そして柏葉はそのように解するべきだと主張しています。僕はこの点に同意するのです。ただ,柏葉は標準的解釈,第二部定理八系の神の無限な観念と無限知性intellectus infinitusを同一視する解釈を批判する観点からこのことを主張していて,さらにその先の部分には僕には同意しかねる点も含まれています。そこでまず,この区別distinguereの規準についていくつか僕の方からつけ加えておきます。
僕が柏葉のこの部分の主張に同意する理由は,ここまでの論考からある程度は理解してもらえると思います。ここではふたつの観点を繰り返しておきます。ひとつは,僕は事物の本性essentiaは現実的本性actualis essentiaと形相的本性essentia formalisしかないと考えている点です。現実的に存在する個々の人間は,個々の人間の現実的本性が異なるがゆえに区別することが可能になりますが,すべての人間に共通する人間の形相的本性によっては区別され得ません。この意味において,人間の観念は現実的に存在することによってほかの人間の観念と区別されるのであり,人間一般の形相的本性によってはどの人間の観念も区別されることはありません。そしてもうひとつは,第二部定理九を論証するにあたって,スピノザがその冒頭で,現実的に存在する個物の観念が思惟の属性Cogitationis attributumの特定の様態modiであって,ほかの様態と区別されるものであるといっている点です。現実的に存在する個物の観念に言及するときにスピノザが区別について言及しているということは,スピノザが個物の観念は現実的に存在することによって区別され得ると考えているためだと思われます。このことは定理の配置,すなわち第二部定理八備考の直後に第二部定理九があるということから,スピノザに明確な意図があったという観点からも補強されるでしょうし,論証Demonstratioでスピノザが第二部定理八備考に訴求していることからも補強できます。
松浦がスタートを取って清水の前受け。5番手に山田庸平,7番手に郡司で周回。残り2周のホームの入口から郡司が上昇開始。ホームで清水を叩いて誘導が退避。直後のコーナーで山田庸平が上昇して郡司を叩きました。引いた清水がバックから発進。郡司が合わせて出ようとしましたが,清水が乗り越えました。山田庸平は突っ張ったので打鐘から山田庸平と清水の先行争い。ホームで清水が前に出て,山田庸平は飛びつくことができませんでした。バックから郡司が発進。岩本が離れて山田英明がスイッチする形になりましたが,松浦の牽制を受けた郡司は失速。郡司を止めた松浦がそのまま踏み込んで優勝。マークの小倉が4分の3車輪差の2着に続いて中四国のワンツー。岩本の後ろから直線で松浦の内を突いた佐藤が4分の3車輪差で3着。自力で大外から捲り追い込んできた岩本が微差で4着。
優勝した広島の松浦悠士選手は3月の玉野記念以来の優勝で記念競輪10勝目。武雄記念は昨年も優勝していて連覇で2勝目。ここは中四国ラインと郡司の対決。清水が山田庸平を捻じ伏せるように先行し,脚を無理に使わずに番手を回った松浦に有利になりました。郡司は打鐘前のバックではじっとしておいた方が脚力を温存するためにはよかったかもしれません。
長方形の観念ideaが現実的に存在することによってほかの長方形の観念と区別されるということは,このことによらなければ長方形の観念は区別されないと解することができます。つまり一般的に個物res singularisの観念は,現実的に存在するようになってはじめてほかのものと区別されるようになるのであって,個物の観念が神Deusの無限な観念に含まれている限りでは区別されないと解することができるのです。そして柏葉はそのように解するべきだと主張しています。僕はこの点に同意するのです。ただ,柏葉は標準的解釈,第二部定理八系の神の無限な観念と無限知性intellectus infinitusを同一視する解釈を批判する観点からこのことを主張していて,さらにその先の部分には僕には同意しかねる点も含まれています。そこでまず,この区別distinguereの規準についていくつか僕の方からつけ加えておきます。
僕が柏葉のこの部分の主張に同意する理由は,ここまでの論考からある程度は理解してもらえると思います。ここではふたつの観点を繰り返しておきます。ひとつは,僕は事物の本性essentiaは現実的本性actualis essentiaと形相的本性essentia formalisしかないと考えている点です。現実的に存在する個々の人間は,個々の人間の現実的本性が異なるがゆえに区別することが可能になりますが,すべての人間に共通する人間の形相的本性によっては区別され得ません。この意味において,人間の観念は現実的に存在することによってほかの人間の観念と区別されるのであり,人間一般の形相的本性によってはどの人間の観念も区別されることはありません。そしてもうひとつは,第二部定理九を論証するにあたって,スピノザがその冒頭で,現実的に存在する個物の観念が思惟の属性Cogitationis attributumの特定の様態modiであって,ほかの様態と区別されるものであるといっている点です。現実的に存在する個物の観念に言及するときにスピノザが区別について言及しているということは,スピノザが個物の観念は現実的に存在することによって区別され得ると考えているためだと思われます。このことは定理の配置,すなわち第二部定理八備考の直後に第二部定理九があるということから,スピノザに明確な意図があったという観点からも補強されるでしょうし,論証Demonstratioでスピノザが第二部定理八備考に訴求していることからも補強できます。