3日に行われた防府記念の決勝。並びは坂井‐和田の東日本,宮本-清水-桑原-柏野の中国,市橋‐山田の九州で小倉は単騎。
山田がスタートを取って市橋の前受け。3番手に小倉,4番手に宮本,8番手に坂井で周回。残り4周のバックの入口から早くも坂井が上昇。宮本の外で併走。このまま残り2周を迎え,ホームから坂井が発進。しかし市橋が突っ張りました。バックに入って宮本が内から上昇。うまく市橋の後ろの入りました。清水は続いたものの桑原はマークを外し,市橋‐宮本‐清水の順で打鐘。市橋を叩けなかったもののそのまま踏み続けた外の坂井がホームから発進した宮本とうまくタイミングが合い,今度は宮本-坂井‐清水という順に。清水がバックから発進。前のふたりを捲ると,コーナーでインを突いた和田が宮本をどかして清水の後ろに。しかし直線では差が詰まらず,優勝は清水。1車身差の2着に和田。バックから自力で外を捲った山田が1車身差の3着。
優勝した山口の清水裕友選手は7月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝。記念競輪は6月の久留米記念以来の6勝目。防府記念は一昨年,昨年に続く三連覇で3勝目。このレースは清水の脚力が最上位。それに宮本という援軍を得ましたので,展開もかなり有利になるのではないかと思われました。ただ,宮本がトリッキーなレースをしたために,結果的に最終周回のホームではマークを外すことに。それでも落ち着いてバックから捲り,力量が上位であることを示しました。2着に和田,3着に山田と,別のラインで脚力上位の選手による決着になったのは,展開に乱れがあったためでしょう。
H伯母のときと読経の内容が同じだったわけですから,読経の時間もさほど変わらなかった筈です。しかしこのときは参列者が多く,読経が終っても参列者による焼香がまだ続いていました。僕は従妹がどのような日常を送っていたのかを詳しく知りません。ただ,彼女は僕よりふたつ下,つまり40代で死んでしまったわけですから,高齢になってから死ぬよりも友人たちの数というのが相対的に多くなるのは当然で,その分だけ参列者が多くなったということなのだと思います。
通夜の後は別室で精進落としが行われましたが,僕はそれには参加せずに帰りました。もちろん叔父は参加したわけですが,葬儀の施主というのは従妹の母親となっていて,この母親と叔父は離婚したために,従妹と叔父の仲はあまり良好な関係ではなくなったわけですし,僕と彼女の関係も疎遠となったわけです。叔父を別とすれば叔父,つまり死んだ従妹の父親の親族として参列したのは僕だけであり,僕自身もまた通夜や葬儀の日程については叔父を通して知ったのであって,彼女の母親側からは一切の連絡がありませんでした。ですから僕が参列すること自体が,施主であった彼女の母親,すなわち僕の叔母ということになりますが,この叔母側の親族からはあまり快くは思われていない可能性がありました。ですから僕はそういった点も考慮して,通夜と葬儀には参列しましたが,参列しただけですぐに帰ることにしたのです。帰宅したのは午後9時半でした。この日のブログの投稿時刻がほかの日と比べて遅くなっているのは,こうした事情があったからです。
1月29日,水曜日。従妹の葬儀でした。これは午前11時から通夜と同じく大和斎場で。通夜のときと同様に,叔父は早くに行かなければなりませんでしたので,この日も僕はひとりで向いました。この日は雨も降っていませんでしたので,相模大塚駅と大和斎場の往復も前日と比べれば楽でした。
葬儀の読経の後に,初七日の読経もありました。その後でお別れのセレモニー。そして出棺まで見届けて,僕はすぐに帰りました。ですから僕は従妹の火葬が始まるその瞬間には立ち会っていません。この瞬間に立ち会うと,帰るのが難しくなるからです。
山田がスタートを取って市橋の前受け。3番手に小倉,4番手に宮本,8番手に坂井で周回。残り4周のバックの入口から早くも坂井が上昇。宮本の外で併走。このまま残り2周を迎え,ホームから坂井が発進。しかし市橋が突っ張りました。バックに入って宮本が内から上昇。うまく市橋の後ろの入りました。清水は続いたものの桑原はマークを外し,市橋‐宮本‐清水の順で打鐘。市橋を叩けなかったもののそのまま踏み続けた外の坂井がホームから発進した宮本とうまくタイミングが合い,今度は宮本-坂井‐清水という順に。清水がバックから発進。前のふたりを捲ると,コーナーでインを突いた和田が宮本をどかして清水の後ろに。しかし直線では差が詰まらず,優勝は清水。1車身差の2着に和田。バックから自力で外を捲った山田が1車身差の3着。
優勝した山口の清水裕友選手は7月のサマーナイトフェスティバル以来の優勝。記念競輪は6月の久留米記念以来の6勝目。防府記念は一昨年,昨年に続く三連覇で3勝目。このレースは清水の脚力が最上位。それに宮本という援軍を得ましたので,展開もかなり有利になるのではないかと思われました。ただ,宮本がトリッキーなレースをしたために,結果的に最終周回のホームではマークを外すことに。それでも落ち着いてバックから捲り,力量が上位であることを示しました。2着に和田,3着に山田と,別のラインで脚力上位の選手による決着になったのは,展開に乱れがあったためでしょう。
H伯母のときと読経の内容が同じだったわけですから,読経の時間もさほど変わらなかった筈です。しかしこのときは参列者が多く,読経が終っても参列者による焼香がまだ続いていました。僕は従妹がどのような日常を送っていたのかを詳しく知りません。ただ,彼女は僕よりふたつ下,つまり40代で死んでしまったわけですから,高齢になってから死ぬよりも友人たちの数というのが相対的に多くなるのは当然で,その分だけ参列者が多くなったということなのだと思います。
通夜の後は別室で精進落としが行われましたが,僕はそれには参加せずに帰りました。もちろん叔父は参加したわけですが,葬儀の施主というのは従妹の母親となっていて,この母親と叔父は離婚したために,従妹と叔父の仲はあまり良好な関係ではなくなったわけですし,僕と彼女の関係も疎遠となったわけです。叔父を別とすれば叔父,つまり死んだ従妹の父親の親族として参列したのは僕だけであり,僕自身もまた通夜や葬儀の日程については叔父を通して知ったのであって,彼女の母親側からは一切の連絡がありませんでした。ですから僕が参列すること自体が,施主であった彼女の母親,すなわち僕の叔母ということになりますが,この叔母側の親族からはあまり快くは思われていない可能性がありました。ですから僕はそういった点も考慮して,通夜と葬儀には参列しましたが,参列しただけですぐに帰ることにしたのです。帰宅したのは午後9時半でした。この日のブログの投稿時刻がほかの日と比べて遅くなっているのは,こうした事情があったからです。
1月29日,水曜日。従妹の葬儀でした。これは午前11時から通夜と同じく大和斎場で。通夜のときと同様に,叔父は早くに行かなければなりませんでしたので,この日も僕はひとりで向いました。この日は雨も降っていませんでしたので,相模大塚駅と大和斎場の往復も前日と比べれば楽でした。
葬儀の読経の後に,初七日の読経もありました。その後でお別れのセレモニー。そして出棺まで見届けて,僕はすぐに帰りました。ですから僕は従妹の火葬が始まるその瞬間には立ち会っていません。この瞬間に立ち会うと,帰るのが難しくなるからです。