化粧②では,歌い手が束にできるほど多くの手紙を送ったことは,歌い手自身の誇りであったといいました。この楽曲にはもうひとつ,歌い手にとっての別の誇りないしは矜持が垣間見られる部分があります。
流れるな涙 心でとまれ
流れるな涙 バスが出るまで
これは最後の別れの場面について歌っているのでしょう。①では歌い手はこれから最後に会いにいくと歌っているからです。この部分はバスに乗るのが歌い手であっても相手であっても成立しますが,全体の構成からは相手がバスで去り,女は見送るのです。というのも以下のような部分があるからです。
放り出された昔を 胸に抱えたら
見慣れた夜道を 走って帰る
ここで歌われる放り出された昔とは,歌い手が出した手紙の束のことです。つまり手紙の束を返してもらったら,走って帰るのです。バスも走りますが,これは歌い手自身が走る筈で,だからバスに乗るのは相手で,歌い手は見送るのでしょう。
歌い手は,相手の前では涙は流れるなといっています。この部分は明らかに矜持を示しています。涙は止まらなくてもいい,流れてもいのですが,それが相手の前であってはいけないのです。逆にいえば,相手の前で涙を流すことさえなければ,歌い手の矜持は守られるのだといえるでしょう。
この部分は「流れる」,「止まる」,「出る」というみっつの動詞と「涙」,「心」,「バス」というみっつの名詞という,わりと凡庸な語句から構成されています。これら凡庸なことばで歌い手の矜持を示しているのは,作詞の才能のひとつかもしれません。
食欲を満たすためにとりあえず食べ,満腹感という喜びlaetitiaの感情affectusによってこの食欲を解消するということが,食欲への対抗手段であり得ることは僕は認めます。繰り返しますがこれは確かに第四部定理七に則っていて,食欲という欲望cupiditasを満腹感という喜びによって排除したといえるからです。
ただ,注意しなければならないのは,これは食欲一般に対する対抗手段であるということです。したがって,この食欲が過度であるか適度であるかということとは関係しません。つまりこのような方法で食欲という欲望から解放されたとき,その人は適度な食欲を満たしたのかもしれませんし,適度を上回って,つまり過度に食することによって食欲から解放された,つまりスピノザがいうところの美味欲luxuriaから解放されたのかもしれません。それが適度であるか過度であるかということを前もって十全に知るということは,このような方法で食欲から解放される,他面からいえば食欲という欲望を充足させるということの条件には含まれないからです。ところが節制temperantiaの場合には,適度であるかそうでないかが前もって知られているのでなければなりません。この意味において,この方法で食欲を満たすことは,節制とは何らの関係ももたないのです。この結果として,節制したのと同じことになるかもしれませんし,そうでないかもしれないということです。
眠ることによって睡眠欲を充足させるのが,睡眠欲から解放される手段であり得るという場合にも,これと似たようなことはいい得るかもしれません。ただ睡眠欲に従属して眠ってしまうのであっても,それは食欲の場合における節制と同じように,結果としては理性ratioが命じるところと同じことになるかもしれないからです。もっとも,そういう可能性があるがゆえにこの方法が睡眠欲に対抗する手段であり得るといわざるを得ないのですから,これは当然といえば当然なのかもしれません。
一方,過度な食欲すなわち美味欲への対抗と,強度であれ軽度であれ睡眠欲に対抗することとで大きく異なるのは,食欲の場合における節制のような即時的かつ理性的な手段は,睡眠欲に対しては存在し得ないことであると僕は考えます。
流れるな涙 心でとまれ
流れるな涙 バスが出るまで
これは最後の別れの場面について歌っているのでしょう。①では歌い手はこれから最後に会いにいくと歌っているからです。この部分はバスに乗るのが歌い手であっても相手であっても成立しますが,全体の構成からは相手がバスで去り,女は見送るのです。というのも以下のような部分があるからです。
放り出された昔を 胸に抱えたら
見慣れた夜道を 走って帰る
ここで歌われる放り出された昔とは,歌い手が出した手紙の束のことです。つまり手紙の束を返してもらったら,走って帰るのです。バスも走りますが,これは歌い手自身が走る筈で,だからバスに乗るのは相手で,歌い手は見送るのでしょう。
歌い手は,相手の前では涙は流れるなといっています。この部分は明らかに矜持を示しています。涙は止まらなくてもいい,流れてもいのですが,それが相手の前であってはいけないのです。逆にいえば,相手の前で涙を流すことさえなければ,歌い手の矜持は守られるのだといえるでしょう。
この部分は「流れる」,「止まる」,「出る」というみっつの動詞と「涙」,「心」,「バス」というみっつの名詞という,わりと凡庸な語句から構成されています。これら凡庸なことばで歌い手の矜持を示しているのは,作詞の才能のひとつかもしれません。
食欲を満たすためにとりあえず食べ,満腹感という喜びlaetitiaの感情affectusによってこの食欲を解消するということが,食欲への対抗手段であり得ることは僕は認めます。繰り返しますがこれは確かに第四部定理七に則っていて,食欲という欲望cupiditasを満腹感という喜びによって排除したといえるからです。
ただ,注意しなければならないのは,これは食欲一般に対する対抗手段であるということです。したがって,この食欲が過度であるか適度であるかということとは関係しません。つまりこのような方法で食欲という欲望から解放されたとき,その人は適度な食欲を満たしたのかもしれませんし,適度を上回って,つまり過度に食することによって食欲から解放された,つまりスピノザがいうところの美味欲luxuriaから解放されたのかもしれません。それが適度であるか過度であるかということを前もって十全に知るということは,このような方法で食欲から解放される,他面からいえば食欲という欲望を充足させるということの条件には含まれないからです。ところが節制temperantiaの場合には,適度であるかそうでないかが前もって知られているのでなければなりません。この意味において,この方法で食欲を満たすことは,節制とは何らの関係ももたないのです。この結果として,節制したのと同じことになるかもしれませんし,そうでないかもしれないということです。
眠ることによって睡眠欲を充足させるのが,睡眠欲から解放される手段であり得るという場合にも,これと似たようなことはいい得るかもしれません。ただ睡眠欲に従属して眠ってしまうのであっても,それは食欲の場合における節制と同じように,結果としては理性ratioが命じるところと同じことになるかもしれないからです。もっとも,そういう可能性があるがゆえにこの方法が睡眠欲に対抗する手段であり得るといわざるを得ないのですから,これは当然といえば当然なのかもしれません。
一方,過度な食欲すなわち美味欲への対抗と,強度であれ軽度であれ睡眠欲に対抗することとで大きく異なるのは,食欲の場合における節制のような即時的かつ理性的な手段は,睡眠欲に対しては存在し得ないことであると僕は考えます。