スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

椿賞争奪戦&相違

2018-12-17 18:58:30 | 競輪
 昨日の伊東温泉記念の決勝。並びは鈴木に三谷,郡司‐渡辺‐岡村‐和田の南関東,吉田‐東口‐神田の中部近畿。
 東口がスタートを取って吉田の前受け。4番手に鈴木,6番手に郡司で周回。残り3周のバックの入口から郡司が上昇。そのまま誘導を追い抜いて前に。鈴木が5番手にスイッチし,7番手に吉田の一列棒状になると残り2周のホームから郡司が目一杯で駆けていきました。そのまま打鐘,残り1周のホームと過ぎ,バックの入口から渡辺が番手捲りを敢行。鈴木は捲り上げてきましたが岡村のブロックで失速。前の争いとなり,番手から捲った渡辺が優勝。マークの岡村が半車身差で2着。4番手の和田も4分の3車身差の3着に続いて南関東の上位独占。
 優勝した静岡の渡辺雄太選手は5月の名古屋記念以来の優勝で記念競輪2勝目。この並びだと過去のレース内容から郡司が捨て身で駆けることが濃厚。9選手のうち最も力があるのが郡司ですから,その選手に捨て身で駆けられると,番手で競り掛けられない限りは渡辺と岡村の優勝争いになるだろうと思っていました。実際に郡司はそういうレースをし,渡辺もややタイミングは遅かったかもしれませんが躊躇せずに番手から発進。こうなってはほかのラインが太刀打ちするのは難しかったと思います。南関東は自力がこのように並ぶと選手の格には関係なくほぼこういうレースをするので,展開は読みやすいです。結束もそれだけ固いということなのでしょう。

 たとえばだれかが目の前に食物を差し出したとします。そしてそれを食べろと命ぜられれば,僕たちはそれを食べることができます。しかしだれかがベッドをしつらえて,そこで眠れと命じたとしても,僕たちはすぐに眠ることができるわけではありません。
 これとは逆に,目の前に差し出された食物を食べるなと命ぜられれば,これは厳密にいえば限度はありますが,僕たちはそれをすぐに食べないでいることはできます。しかし眠るなと命ぜられたからといって,眠らないでいられるとは限りません。もちろん眠らないでいられる場合もあるでしょうが,眠ってしまう場合もあるでしょう。
 睡眠欲も食欲も,僕たちの現実的存在を維持していくために必須の欲望cupiditasである点では変わるところがありません。僕たちは一般的にこの種の欲望については,一次的欲求とか一時的欲望といったりします。しかし同じような一時的欲求でありながら,食欲と睡眠欲には,いい換えれば食べることと眠ることの間には,こうした相違があるのです。なぜこのような相違が発生しているかと問われれば,僕には人間の現実的本性actualis essentiaというものがそのようになっているからだとしか答えようがありません。第三部諸感情の定義一から分かるように,人間の欲望というのは,人間が受動状態にある限りはその人間の現実的本性にほかなりません。したがって食欲とか睡眠欲は現実的に存在する人間にとっては与えられた欲望です。このことを僕は,自然の秩序ordo naturaeによって要求されている欲望であるといったのでした。ですから一切の食欲を感じない人間とか,一切の睡眠欲を感じない人間というのは現実的に存在しません。そしてその現実的本性が,食欲と睡眠欲では,上述したような相違をもちつつ現実的に存在する人間に与えられているのです。
                                
 このために,食欲に対する対処と睡眠欲に対する対処では,自ずからその方法が異なってくるのです。第四部定義八は,人間が能動的である限りにおいてはその現実的本性は徳virtusであるといっています。つまり徳と欲望は同じように人間の本性natura humanaを示します。そして,与えられた本性すなわち欲望の相違に応じて,徳のあり方も変わると僕は考えます。
コメント
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