未だアクセス数の多い「わたしは同性婚に反対でした」ですが、昨日こんなコメントがありました。フィリピンから戻って以降、意見が多少変わったためか、来るコメントはほぼ、こちらを含めてまっとうなものになりました。
最初にあった粘着質なコメントは、こちらの記事が攻撃的だったからなのかもしれません。まあ、その時の正直な気持ちだったので、今更反省はしませんけど(笑)。
「代官ゲイ」のスタンプも、一部から泣いていると評判のわるかったものを、ラブラブに修正したら、あっさり申請が通ってしまいました。今のところ、おもだった批判も少ないようです。
焼き直しになりますが、今の正直な気持ちとして以前書いたリプを貼ります。
3週間滞在して、フィリピンというのはカトリックが国教であるにもかかわらず、同性愛に寛容な国なことがわかりました。
たとえば私の出張先クライアントの奥さんはカトリックでしたが、その友人に同性愛者がいたり、またその友人が日本に滞在するビザの書類をクライアントが手伝ったりと、まあ言うてみれば普通の付き合いをしているわけです。
買い物をしたり町のホームセンターなどに当たり前に同性愛者いると、人間というのは慣れてくるものなようです。
もちろん愛情の対象が向けられたら困るのですが、別に人に迷惑をかけるわけではなし。3週間いる間、わたしも「ああ、いるな」くらいの感じになってきました。
それでもカトリックの国ですから、同性婚は認められていないようです。
ビザの書類を持ってきた彼(彼女)も、生物学上の性別に「male」と書かないといけないのには戸惑っていました。
彼らなりの生きづらさはフィリピンでもあるのでしょうね。
しかしながら、そうした生きづらさみたいなものは、同性愛者に限らず生きていればあるものです。
正直、今では同性婚を明確に否定する論拠みたいなものは見出せずにいるのですが、さりとて渋谷区のように「いかにもリベラル」といった様子で謳い上げるように肯定するのも疑問を感じます。
いかに論拠をあげたところで、わたしを含めたそうした人たちの「気持ち」まで変えることはできません。
ですから、フィリピンやタイのように「町を歩いても空気のように”いるな”」と感じさせる環境になれば、それでそれ以上戸籍がどうこう求めなくても良いのではないでしょうか。
今では、そんな風にわたしは考えます。
愛する対象は個人の自由ですから、好きな人と一緒にいられることは幸せなことだと思います。
むしろ同性愛者を弾圧するような社会の方が問題であろうと思います。
ただ、男女の間でも公衆の面前で過剰に愛を表現するのは如何なものか。どちらも節度があって、普通に暮らせる社会になれば制度は二の次に思えます。
フィリピンでは同性婚は許可されてませんが、財産の相続などはきちんできるそうですから。