治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

普通を強要されるって?

2017-05-23 10:03:18 | 日記




どうしても被害妄想にしか私には思えないことに「普通を強要される」というのがある。修行否定派の大きな理由でもある。修行によって普通を強要される。差別だ~というのである。

修行は普通になるためではなく自分になるためなのだがまあ、被害妄想の人たちを説き伏せる気はないのでほっておく。被害妄想は説き伏せず、勝手に遠巻きに見させておく。そしてこっちを攻撃してきたらなぎ倒す。それが十数年かけて私が体得した私流卑屈マインドとの接し方である。

南雲明彦さんは「普通になりたいという子どもの希望を否定してはいけない」と言う。
その通りだと思う。
南雲さんが言う「普通になりたい」子どもたちとは、普通の子のように学びたい子どもたちであり、その気持ちを南雲さんは共有してきた。そして修行してきた。それは不便さを取り除くための修行であり、南雲さんや子どもたちがより生を充実させるための修行であり、他の誰かになるためではない。

私は「10年目の自閉っ子、こういう風にできてます!」に
「普通は目指さなくてもいい、幸せを目指してください」というキャッチフレーズを書いた。
ニキさんは言った。「それは浅見さんの意見であって私はちょっと違う」と。
ニキさんは「普通を目指す」ことを悪いことだと思っていないそうである。
そしてニキさんの書いたものを読むと、おそらくニキさんの言う「普通」とは、「悪目立ちしない」ということだと思う。悪目立ちしないことのメリットは、空気でいられること。空気でいられることは平穏を好むニキさんにとって大切なことだろうと思う。

一方で私は、そういうキャッチコピーを書いてしまうくらい、普通を強制されるのが大嫌いな人である。
そしてここでいう「普通」とはなんというか、「決まり文句の世界」じゃないかな。それは私の人生においてこれまで、主として「ガールズトーク」として現れてきたんだが。
たとえば今だと海の王子の話をえんえんとするとか、芸能情報とか、まっぴらごめんである。ファミレスで夫の悪口とか、まっぴらごめんである。一日は短い。ましてや本場所中は四時にはテレビの前にいなくてはならないのだ。ガールズトークの暇はない。

そしてギョーカイにかかるとその決まり文句が
・社会の理解ガー
・一次障害は治りません。
・二次障害には社会の理解
・改善するけど治りません

みたいなあれ。あれの強制が大嫌いである。
発達障害者は発達して発達障害はスペクトラムでじゃあどうして改善するけど治らないのか言ってみろと、という感じである。発達障害者が発達して発達障害がスペクトラムなら改善していくうちに治ってしまう人はいるはずだ。結局発達も促せないから治らないって言ってるだけじゃないかギョーカイは。じゃあ潔くはっきいりと認めろ。
・発達障害者は発達します。でも僕らは発達促せません。
が本当のところでしょうが。
だがギョーカイはそれを認めない。それを認めると金が入ってこなくなるから。

そしてその「普通」を私に押し付けてくる人を私はなぎ倒すので、「普通を強制される」という主観的な被害者意識はあまり持っていない。
そして皆さんが見てわかるとおり、ギョーカイの普通に従わなくても生きていける。
ということは「普通」なんて強制されたってはねつけて自分の道を行けばいいのである。


なので「普通を押し付けられる」とかフンフン嘆いている人の気持ちはわからない。
わからない以上下す決断は「ただの言い訳だろ」なのである。

発達障害の特性は努力でどうにもならないもの、かもしれない。
でもそれは、努力が全く無駄だというわけではなく、実りにくいというだけ。
そして実りにくいことが努力をしない言い訳にはならない。
おまけに
努力が実りにくい特性があるのなら、実りやすいところを早いところ見つけて、そこに努力すればいいだけの話なのである。

私たちにとっては感覚過敏は治るのが当たり前なので、あらためてこの二冊を紹介しておく。
この十年の間に何が起きたか知ってほしい。
この二人は当事者としては有名な部類だろう。でも二人とも、飛び道具にはならなかった。自分の人生を生きている。
私はそういう当事者が好みのようである。ギョーカイの飛び道具に興味はない。餌をもらいギョーカイのために卵を産み続けるだけの生。そんなケージの中のめんどりに興味はないのだ。

そして改めて「普通」という観点でこの本を読んで気づいたこと。

この十年の間にニキさん藤家さんの二人は自分らしくなり、だからこそある意味「普通」に近づいた。社会で悪目立ちしなくなった。

そして私はギョーカイでの普通から逸脱していった。そしてそれは社会人としては正しいことだった。

なぜなら

ギョーカイが言う「もっと支援を」はクマしか通らない山奥の道の建設だからである。
そんなことに加担したら国賊だ。
私は国賊にはなりたくない。
だから「治るが勝ち!」と言い続けることにします。


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飛び道具の賞味期限

2017-05-22 08:38:15 | 日記
ギョーカイが啓発になっていると思うものが実は逆効果になっている、というのはよくあることである。ギョーカイ的にはね。でも「社会の理解」は進むのである。「四十男がクマのぬいぐるみ? できればかかわりたくないな~」というのも理解が進むっていうことだからね。

「こんなにつらいんです。だから理解を」はそういう両面を持ってるので、当事者保護者としては得するか損するかわからないのである。あれに困っているんです、これに困っているんですと訴えると「そうかそんなに困っているのか。じゃあかかわらないようにしよう」ということもある。理解が広がってしまったから世の中で余計嫌われる、ということもありうる。

確実に得をするのはスキルがなくても、スキルを磨く気がなくても、「理解が~」と言って社会に責任を転嫁する発言を仲間内でぐるぐる回していれば支援者を名乗れる人たちである。そしてつらさを訴える当事者はその人たちの飛び道具。どうやら飛び道具にも賞味期限があるなあ、というのが十数年経つと見えてくる。

十数年前、就労支援セミナーがあった(今もあるだろう)。今でもギョーカイの重鎮に座っている先生がルサンチマン系飛び道具を各種揃え、世間への恨みつらみをぶちまけさせるという企業の人が聞いていたら雇いたくなくなるような逆効果セミナーであった。でもまあ、当事者保護者の身内がほとんどだったようだからそれほど被害は広がらなかったかもしれない。

重鎮はまだ重鎮のようだが(もっとも私はギョーカイ事情に詳しくないのでよく知らない)、飛び道具の人たちはどこかへ霧散した。見事なポイ捨てである。私からは見えないところに消えて、どこかで地道に働いてくれていたらいいなあ、と思う。

飛び道具として延命を図ると、治らなくなる。そして基本的にはギョーカイの固定資産となった各種支援業者の利用者と同じで、ケージの中で卵を産むめんどりの生を強いられる。
支援者の飛び道具として講演をたくさんこなしながら、汚部屋を維持してテレビにさらすのを見て、私が思ったのは「私はこの家では暮らせないわ」ということである。
当事者性を換金してなおかつめんどりに堕さないためには技術を磨く必要がある。それができない人は容易にポイ捨てされるね。
それを目撃した十数年でもあった。

テレビを見てこんな親子の会話があったらしい。

=====
今息子と一緒に見てるけど「でもこれって治るよねえ?」って言ってるよ?(笑)
=====

私が岩永先生の面倒みているバリバリ感覚過敏の、ついでに言うとニキさんのことを大嫌いな当事者をみたとき、岩永先生に言ったのと同じセリフ。「あれって治りますよね?」と言った。客席からちゅん平さんとみてて「あれは治らないわけがない」と言っていたところだったから。岩永先生はアルカイックスマイルを浮かべた。

まあともかくこれからは

小さいころから修行してきて、自分で「治った」と自覚のある子たちが増えていく。
その子たちが語りだすのに、十数年はかからないと私は思っている。
でもそれは花風社の飛び道具になってほしいというわけでもなく、当事者性を売り物にしてほしいということでもない。
できれば発達障害とは関係のないところ薄いところで資質を開花していてくれたらうれしい。
そして、悩んでいる仲間がいたら「僕は治ったよ」と教えてあげてほしい。
治った人がいるのはね、希望だから。
希望に思わない人もいるけど、思う人もいっぱいいるんだ。

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木っ端ギョーカイ人

2017-05-21 09:06:45 | 日記
昨日画伯に「発達障害、治るが勝ち!」のアートワークについて相談しました。どんなラフが上がってくるか楽しみです(とプレッシャーをかける)。結婚式と披露宴を二週間後に控えた新婚の絵描きさんに対してひどいことしてますかね私。

肝心の中身の方は、まったく手を付けない日もあります。でも手を付ける日は余裕で100枚行く感じです。どうもそういう生まれ方をするようですこの本は。

昨日も朝からだだっと仕事して、十両が始まるころからテレビをつけてちらちら見ながら仕事。そして幕内になったらぱたんとPCを閉じてお相撲に専念。稀勢の里の勝ちを見届けたあとはジム→温泉→エビスバーへの黄金コースです。そして今朝早く起きてスマホで昨日書いた個所をチェックしました。

朝から大笑いしました。

この本、積年のあれこれから発しているわけで、最初はなんだか息詰まるような感じだったんです。「もっと深呼吸しろよ私」と自分に言いたいような文章が続き、いったん全部消したりしました。私はせっかく暴言力を授かって生まれたので、神田橋先生のように上手にイヤミが言えるようになりたいな~と思っているのですが、まだまだ青いですね。あまりに自分が深呼吸必要な感じだから、だから全く書かない日を設ける感じですよ。

そして書く日はだだっと書くので、意外と早くできそうですが、そのあとが時間かかりそうです。他人にちゃんとチェックしてもらわないと危険な本です、これは。

これまでの本の中でも「ギョーカイ」という言葉は使ったことあります。『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』でも使っているし『治ってますか? 発達障害』でも私の発言としては使っています(南雲さんは使っていません。南雲さんは私がギョーカイと言う言葉で指す範囲の人々を別の表現使っていらっしゃいます)。そして「治るが勝ち!」の中でも「ギョーカイ人」という言葉は使います。

「猿烏賊」は使いません。ちょっとハイコンテクストすぎるし。「ギョーカイ」ならまだ「業界」から転じたとわかるけど「猿烏賊」はわけわかりませんもんね。

じゃあ「猿烏賊」に触れていないかというと、触れまくっています。猿烏賊、ギョーカイ、死んだふり、愛着障害。こんなもんが治るのを阻んでいるのを見つけた十数年の成果なわけだから。猿烏賊は因数分解して書いてあります。「エビデンスと心中する人たち」みたいに。心中するのは勝手だけどさ、無理心中は犯罪だよ、っていうことで。

中でも「これはやばいかな」と自分でも思う表現は「木っ端ギョーカイ人」です。さすがにどうかと思う。なぜならこの人たち、基本的に悪気はないからです。ただ自分の頭で考える癖がついていないだけなのね。

ギョーカイメジャー(あ、この言葉も使ってないや)は確信的に「一生治りません」と言います。だから岩永先生はギョーカイ内村八分を恐れて主催者に頼まれても「自閉症児の脳を育てる」という題の講演ができなかったわけです。花風社に至っては自閉症児の脳どころか人間脳を育ててしまっているのですけどねはははははは。

ギョーカイメジャーに対し木っ端ギョーカイ人は、実は発達障害が治るかどうかなんて考えたことはないのです。でもえらい先生たちが「治らない」というからそれをオウム返ししているだけなのです。バカと言えばバカですが、その人が当たり前の人類愛を持っている場合には、ここから崩していくこともできるのです。ギョーカイに染まっていないと「治ったらいいなあ」って思うのが自然な人類愛だからです。

木っ端ギョーカイ人と交わした会話を現行の原稿には書いてます。というか私は色々な場所で様々な木っ端ギョーカイ人たちとこういう会話を交わしているのです。これ、没になるかもしれませんから前後の地の分も一緒にここに転載しておきますね。

=====

 でもギョーカイの全員が悪人ではないのだ。先ほどは名だたるギョーカイ人たちの言い訳と保身の画策っぷりを思い出して書いてみたが、そこまで確信犯ではない木っ端ギョーカイ人もいる。その人たちの多くは「発達障害は治らない」と信念を持っているわけではない。大物ギョーカイ人たちが「生まれつきだから一生治らない」というものだから、なんとなくその言葉をオウム返ししているだけなのだ。だってさ、えらい人が言うから信じるし、その辺えらい人に合わせておいた方が無難だからだ。支援者自身はね。
 問題なのはこういう木っ端系の人も世間との橋渡しを担っていて、「一生治りません、配慮を」を外の世界に伝えてしまい、そのせいで損をしているのは発達障害のある人、その家族かもしれない、ということである。ハンセン氏病の歴史を見てほしい。差別がなくなってきたのは人々の人権意識が高まったから、だけではない。感染しないことがわかったこと、そして実際に治るようになったこともまた大きい。だから「一生治らないわけではない」ことこそ、社会に知っておいてもらった方がいいのである。
 だから私はこういう「確固たる信念はないみたいだけど罪の意識もなく『生まれつきだから治らない』と言いふらしてしまっている人」と会う機会があると、揺さぶりをかけておくことにしている。

浅見「生まれつきだから一生治らない、とは私は思っていないんですよ実は」
木っ端「そうなのですか? でも生まれつきの脳障害でしょ?」
浅見「脳障害、っていうのがもう変わってきているんだけどね~。でもね、じゃあ『生まれつき』っていつから? いつ始まると思います? いつからが生まれつきだと思います?」
木っ端「……ええと…… お母さんの中からおぎゃあと出てきたとき?」
浅見「じゃあ、お母さんのおなかの中ではどうだったの? 『生まれつき』は始まってなかったの?」
木っ端「う~ん」
浅見「お母さんのおなかの中では胎児だったでしょ。その前は受精卵だったでしょ。その前は精子と卵子だったでしょ? じゃあ生まれつきってどこから始まったの? 精子のときから発達障害の精子だったの?」
木っ端「う~ん」

「生まれつきだから一生治らない」となんとなくオウム返ししている人も、実はその根拠は薄いのである。えらい先生がそう言っている。実際治った人を見たことがない。たいていその程度のものだ。だから「身体アプローチやっている人はなんだか一次障害治ってるよ」と話すと、意外と話を聞いてくれる(こともある)。そして「脳機能障害」というよりも「神経発達障害」という定義の方が新しいことも意外と知られていないので、教えてあげるといいかもしれない。

=====

さてここはチェックを潜り抜けることができるでしょうかね。
皆さん出来上がりをお楽しみに。
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「治った」と言える人が増えるといい

2017-05-20 07:27:00 | 日記
皆さん、お誕生日のメッセージを様々なチャネルでいただきありがとうございました。
昨日は昼も夜も祝杯あげました。今日はあまりおなかのすかない一日になりそうです。

さて、二度目のアンケートのお答えを続々と様々なチャネルでありがとうございます。
大変に興味深いですよ。
そのまとめはまた改めてやりますね。
今日は5月2日にブログに書いた新婚の方から新しいメールが来て、先日から考えてきたことを書いておこうと思い出しました。



新しくいただいたメールにはこう書いてありました。

=====

今回「治った」や「私は幸せ」と言葉にしてから、それ以前よりずっと穏やかな気持ちで過ごせていて自分でも不思議です。

言葉にしたことで自分を縛っていた何かがスッと解けた気がします。
「何か」とは、この状態で治ったと言い切るのは間違いじゃないだろうか?という不安で誰かに答えを求めたいような気持ちでしょうか。

治ったと宣言したことが、愛着障害が治る最終仕上げだったような気がします。

悩むことや苦労することはこれからもあるけれど、そんな自分を俯瞰で見ることができて、ラクになる自分なりのいろんな対策を持っている。この状態が「治った」だと自分なりに理解しています。

でも、他の病気では一般的にそう理解されてるのではないかな。
と思うと発達障害や愛着障害のことになると治ったと言ってはいけない雰囲気があるというのはおかしな話です。

発達障害も愛着障害も怖がらず「治った」と言える人がどんどん増えてほしいです。

=====

これを読んで、「そうか『治った』と自分で思える、言えることも癒しのプロセスなのだ」と腑に落ちました。
だとしたら治ると偽者扱い、のギョーカイは治せないどころか治っている人にまで水を差す本当に役立たずで有害な存在ですね。

藤家さんはたしかにまだまだハイパーりちぎだし、つかまり立ちも下手だし、そういう意味では特性を残しているかもしれません。主治医を心から信頼しているから、これからも定期的に通うことはやめないでしょう。
でも治ったと自分で言っている。
ところがそこに水を差す人がいるのですね。

南雲さんは生まれつきよりずっと読めるようになった。でもまだ書店での立ち読みがきついときいて「そうか、なるほどあれも読字だな」と逆に気づかされました。
よく私のところに「長いメールですみません」と長いメールを送ってこられる方がいますが、私にとって読めない長さってなかなかないんですね。読むの早いので。
これはそれぞれが偏りをもって生まれてきたということで、南雲さんは修行しても読字が私レベルにはならないかもしれません。
でも「治った」という南雲さんを嘘つき扱いするのはやはり水を差すことです。

科学的な態度が大切? だったら、本人にとっては科学が主観を凌駕することを知るように。
その辺が謙虚じゃなくて結果性格悪い支援者が多いですね。
医師の集まりが東田さんに三下り半をつきつけられたのはその典型です。あれを無礼と思っていなかった医師の集まりは大いなる社会性の障害があるのではないでしょうかね。じゃあ社会性の障害治せるわけないよね。

時々ジムの更衣室で、明らかに摂食障害のやせ方をしている人たちを見かけることがあります。
普通にやせているのとは違うでしょ。

肉が一片もないから、もうろくすっぽ運動はできないんですけど、骨を必死にマッサージしたりしている。きっとまだ自分には肉が残っていると思っているんだろうなと思います。

「完全な健常者にならないと治ったとは言えない」という強迫観念を、その姿を見て思い出しますね。ちゅん平や南雲さんは、まだ肉がついていても「治った!」と喜んでいる。すなわち精神が健康なんですよ。南雲さんの青春なんて、強迫観念とともにあったようなもんだから、立ち読み難しくても「治った」と思えるということは本当に治ったんです。

でもまあ、猿烏賊方面が「治る=完全な健常者だから治らない!」と息巻いているときはそういうことではないんです。強迫観念、までいかない。たんなる「負け惜しみ」です。

自分たちが手を出す勇気のないやり方を採り入れて治っているという人たちがいる。それを見て負け惜しみを言ってるだけなんです。

だいたいこの世界、違和感がある言葉を聴いたら「負け惜しみ」か「ポジショントーク」を疑った方がいいです。

私が「人間脳の根っこを育てる」の最後に書いた「改善するけど治りません」は典型的な支援者のポジショントークです。それを真に受けてきてしまったんですな、私たちは。それはまたまとめましょう。それにもちろん「発達障害、治るが勝ち!」では徹底的にこの辺斬りますからね。

お楽しみに。

ギョーカイは読まないふりしなきゃいけないから、きっと文句も言えないでしょう。
彼らの死んだふりを私は活用するのです。

☆☆☆☆

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お誕生日です。発表があります。 その2

2017-05-19 08:52:34 | 日記
さて、昭和38年5月19日生まれの私、本日54歳になりました。
若い方には54歳というとどういうものかわからないかもしれませんが、日本相撲協会の八角理事長は私より一か月年下です。今場所初日、八角理事長に説明を受けられていた皇太子妃殿下は私より七か月年下です。そういう年です。昭和の半ばなら、そろそろ定年です。

幸いこの年まで大怪我も大病もなく、仕事も家庭も長続きしております。まずは順調な人生ではないかと思います。それはおそらく要所要所で頑張りが効くからで、なぜ頑張りが効くかというと身体が丈夫だからで、そういうきっかけで身体アプローチに興味を持ち手掛けることになりました。

そして悪口をいっぱい言われるようになりました。それに対抗していくうちに、ギョーカイの仕組みを知りました。支援を受け続けるとグレーの人が黒く染め上げられること、そして国(=共同体)も本人も保護者も望んでいない「縮小再生産」こそがギョーカイ存続方法であること。だからこそ「頑張らせてはいけません」「社会の理解ガー」が行き渡っていること、それを真に受けて人生を棒に振ってしまう人も多いこと、その仕組みに気づきました。

一方で身体アプローチは「当たり」でした。それまでの「大脳皮質だけに働きかける方法」では治らなかった人たちが「生まれつきだから治らない」と信じ込まされてきた人たちが、それでも一次障害を治していくのを見てきました。治るのに、社会の理解は必要ありませんでした。支援もちょっぴりしか必要ありませんでした。「改善するけど治りません」という摩訶不思議な言葉の裏に、どういう仕組みがあるかを知ることができました。

これまで十数年発達障害に関連する本を出してきました。そして自分の年齢を考えると、今の元気が続いたとしてもあと数年だろうなと思います。

ということは

書くべきことは書いておこうと思いました。幸い、今の花風社は売れている本がいっぱいあります。すなわち、売れなくても出すべき本を出せるだけの状況です。

というわけで書き下ろしを書いてます。

タイトルは

発達障害、治るが勝ち!

です。これは決定です。

サブタイトル(仮)は

自分で選んだ人生を歩みたいあなたへ

です。

発達障害は治った方がいい。



その理由の一つは

治れば
自律の度合いが高くなれば

一生を支援者の食い扶持として過ごす。そんな空しい人生を送らないですむからです。
自分の人生を人間として主体的に生きるか。
支援者の生活の糧のために縮小再生産の生き方を強いられ
支援者の固定資産として、支援者のために狭いケージの中に押し込められ、支援者が食む卵を産み続けるめんどりのような生き方を選ぶか。


どちらの生き方も自由です。

考えの違う人が連帯する必要はありません。
それぞれ別の選択肢があればいいのです。
そして花風社は、主体的に行きたい人のための選択肢を用意してきました。

でもね、私がやられるように
色々邪魔が入るでしょ、皆さん。

死んだふり系支援者から。
保護者・当事者仲間から。

治りたい、という気持ちを否定されたり
身体アプローチ、言葉以前のアプローチをトンデモ扱いされてエビデンスガーと言われたり。
頑張らせるのは残酷、と修行を否定されたり。
区分認定が重い方が得よ、と金銭上のおせっかいをしたり顔でされたり。
改善するけど治りませんと言われたり
二次障害ガーと言われたり。

そういうときにそういう人にどう対応すればいいか

その選択肢も、この本の中には示してあります。

そういうのに全部、言い返してあるからです。

なぜ私が言い返せるかと言うと、もって生まれた言語体力が喧嘩を売ってくる相手によって鍛えられたし

私が史上まれなる、「しがらみのない人生」を送ることに成功しているからです。
そう、これが若き日の私の理想で、私はどうやらそれをかなえたようなのです。
そのひとつのコツは、結果論ですけど、一度も公金に群がらなかったからかもしれません。
そして孤独を恐れなかったからかもしれません。
孤独を恐れないで済んだのは
身内の愛が空気のように基底充実を育んできたからかもしれません。

でも皆さんはしがらみをお持ちかもしれませんから
ていうか私よりはたいていの人が持っていると思いますから

私のように言い返さなくてもいいのです。
「治りっこないわよ」「頑張らせてはだめ」「二次障害ガー」「重い方が得」などと言われて不愉快になったときに、心の中で繰り返すだけでラクになる、っていうかすっきりするフレーズをたくさん書いておきます。

あるいは言い返す代わりに

そっとこの本をプレゼントしてもいいかもしれませんね(と営業する)。

とにかく

すっきりした読後感になるでしょう。


では、今日は、お誕生日をお祝いしてきます。
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お誕生日です。発表があります。 その1

2017-05-19 07:14:25 | 日記
実は、三月に鹿児島に講演に行ったとき、神田橋先生にお会いしに行きました。
先生は私を見ておっしゃいました。「もうフラッシュバックはないね」
ギョーカイトラウマのことです。

「はい、ないです。でも、発達障害関係者の誰とも仲良くしたくありません」と私は答えました。
逆に言うと、誰とも仲間にならなくてすむのなら、もう少し発達障害の仕事を続けてもいい、という心境です。
発達障害の仕事はもう少し続けたい。
でも仲間はほしくないんです。
孤独でこそできる仕事がしたいんです。

最近思うんです。今の私にとって、壊してはいけない人間関係って、母と夫だけだな、と。
あとは壊れてもいいです。いつ、さよならしてもいいです。

もちろん壊して歩く気はないです。
ただ、いつでも切れる覚悟があってつきあう、ということです。
自分の信条に反していたり、自分を貶めるような人に媚びてまでつながなきゃいけない人間関係って、ないと思っています。

先日ある当事者の方が、JDDのような団体の縮小再生産の方向性がこれからの子どもたちの人権を侵害していくのではないか
別の団体が必要なのではないか、とおっしゃってこられました。
連帯について考えをお聞かせください、とのことでした。

私は連帯には興味はありません。
むしろ健全なる分断こそが、多くの人を救うと思っています、とお答えしました。

神田橋先生は私を見て「それだけ安定していれば幼稚園の頃を思い出すといいよ。そのころに資質が現れていたはずだから。自分では覚えてないけど親御さんは覚えていないかな?」と言いました。

私はホテルに帰るとすぐ母に電話しました。
そして幼稚園時代の自分がどういう子だったかききました。

驚いたことに母の口からはよどみなく当時の様子が出てきました。
ほとんどためらいなく話してくれたのです。

私は一人っ子でしたので、親としては社会性を養ってもらいたいと思い、三年保育を選びました。
三歳で幼稚園に行き始めた当時、同年齢の子はあと一人。おとなしい男の子だったそうです。

一番年下の私はじっと先輩たちのやっていることを見守って自分も真似してみる。そういう慎重な子だったそうです。
そのときその幼稚園はテレビに出たりするのが好きで、私たちもバラエティ番組でおひなさまの扮装をしたそうです。そういえばインチキ十二単を着た覚えがあるのですが、同年に男女一人ずつだったため、おひなさまとお内裏様になったそうです。撮影のときはスターの気まぐれとかで待ちが多かったけど、そういうときにも一切ぐずらなくて辛抱強く待っているような子だったそうです。

そして二年目。
どっと同級生が増えます。
そうしたらキャラ変したそうです。オピニオンリーダーになったそうです。四歳児のオピニオンリーダーとは何かというと、私が笑うとみんなが笑い、私が泣くとみんなが泣き始める、みたいな感じだったそうです。

そして幼稚園の最終年。
この歳、家族は転勤で大阪に行きました。
そこで私はさらなる才能を発揮したそうです。
「ちょっと、あんたたち! 私のわかる言葉で話しなさいよ」と、周囲の関西弁の子どもたちに言語教育をしたそうです。
そして見事にそのクラスだけ標準語をしゃべるようになったそうです。

いやなガキだったなあ、と思いました。大阪の人って割と関東に対抗意識持っていると大人になって知ったので、よくクラスの子たちが関東の言葉につきあってくれたなあ、と思いました。でも考えてみれば、「大阪人の関東への対抗意識」も育ちのどこかで育まれるはずで、幼稚園のときにはまだあまりなかったのかもしれません。


振り返ってみると、この幼稚園の三年間を繰り返してきたなあこのギョーカイで、と思いました。

最初は新参者として様子を伺い「一生治りません。社会の理解ガー」と言われることを素直に受けます。恨みつらみ系当事者自伝なんか翻訳書で出したりします。

そしてやがて「身体が相当違うみたいよ」と言い始め、書籍や講演でいきいきと伝えはじめます。自閉っ子シリーズ時代です。

そして最後には、「改善するけど治りませんとかわけわかんない。ちゃんと治るって言え」と主張し始めます。そしてルサンチマンを育んでいない人たちは「治るかも」「治った」と同調し始めます。発達援助時代です。

本当に神田橋先生のおっしゃったとおり、幼稚園のころを再現しているのです、発達障害を始めてからの私は。

続く
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美しいクラウドファンディングと美しくないクラウドファンディング

2017-05-18 10:30:50 | 日記
さて、先日いただいたのんのさんのコメントによると、発達障害者ネットワークで青いお祭り関連行事のひとつとして、映画上映会を開いたのですね。そして資金をクラウドファンディングで集めたらしい、と。

実は明日、大きな発表をしますので、その前にこのこと取り上げておいた方がいいかなと思いました。

といっても、花風社がクラウドファンディングするのではないですよ。
基本的に事業資金はクラウドファンディングすべきではない、と私は思っています。他の経営者はそれぞれのお考えがあることでしょうが。

事業者はまず、自分で立てた企画なら黒字にするのが本筋。赤字でもやらなければいけないことがあるのなら、それは自腹を切るべきです。

さて、青いお祭りの上映会に話を戻します。
ぐぐってみると、2016年も上映会を開いていたのですね。そしてこれは有料でした。2000円×200名×2回 です。フルに入ると400万円の売り上げ。

そして2017年は97万円をクラウドファンディングで目標にし、それに対し103万円集まった。

上映会って97万円もかかるんだ~というのが率直な印象でした。ノンコマーシャルな少人数の上映でもそれくらい著作権者は要求するんでしょうかね。JDDは何しろAKBの真似をして握手会までして資金集めしていますから、本当のところいくらかかるかはわかりませんが(下種の勘繰り)まあとにかく103万円集まったので今回は無料で見られた人がたくさん(推定)いたわけですね。

つまり、去年は有料でやって人が入んなかったのかな。
少なくとも資金は賄えなかったのかな。
だから今回は「自分は見られないけど社会の理解ガーのため応援します」という人も巻き込むためのクラウドファンディングかな。
伊達や酔狂でお金出すのならそれは自由ですが、いまだに青いお祭りで発達障害の映画を上映すると社会の理解が広がると信じている人がいるとしたら、牧歌的ですね。

2000円で映画二本。高いか安いか私にはわかりません。私はきっと無料でも見ないから。映画の人ではないんです私。
そしてこのクラウドファンディングには気づかなかったけど、気づいてもお金は出さなかったでしょうね。趣旨に賛同できず、組織に賛同できず、おまけに自分も見る気がしないので。

上映会の一番美しい姿は、入場料を取りそれで費用が賄えることです。
お金払ってまで見たい人が見た方がいいに決まっている。

それで赤字が出たら、それは世の中的に需要がなかったということ。
上映会開いてまで訴えたかった人がリスク取るのが筋っていうもんです。

JDDは年次大会でも、講師16人に対し参加者百名前後みたいな支援級としては理想的な構成(ブ)になっているくらい最近閑古鳥みたいなので、2000円で50名集める自信がなかったのでしょう。

だったら上映会しないか、それでもあえて開きたいのなら赤字を自分たちで引き受けるか、それが「民」の発想です。

「民」じゃないんだな~この人たちは、と思いました。
普段、血税から事業費を得て、しかもどんどん事業費を増やし「早期診断早期発見生涯にわたる支援大卒の人のグループホーム」と国にたかり続ける放蕩息子みたいな人たちですからね。

潔くないな~と思いました。
美しくないクラウドファンディングだと思いました。

でも最近、安易なクラウドファンディング多いですよね。
安易なクラウドファンディングに頼る起業家は長続きしないだろうと思います。

私は「事業者が事業資金を募っている」のには興味を持ちません。
それは事業者がリスクマネーを出すべきだと思います。
リスク取るのが事業者の仕事なのに、それを放棄してどうするつもりだ、と不思議になります。

そして、いくらやりたくても身の丈に過ぎたリスクなら、あきらめる。
それが筋だと思うのですが。

私がこれまでお金を出したクラウドファンディングは

サッカーW杯に知的障害の人のチームを送り込む遠征費とかそういうのです。
こういうのはぜひ寄付したいしロシアも行くのなら、そしてクラウドファンディングがあるのなら、また募金します。
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またアンケートさせてください。

2017-05-18 07:16:24 | 日記




よかったら教えてください。
前回と同じとおり、コメント欄でもメールでもその他のチャネルでもかまいません。

「一生治りません」と言われたとき、信じましたか?
信じたのなら、それはなぜですか?

よろしくお願いいたします。
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これが資質

2017-05-17 09:17:20 | 日記
発達障害者支援センターが役立っているかどうかのアンケート、引き続きお答えいただきありがとうございます。とても参考になります。

支援なり特別支援教育なりが役立っていない、というと「人材がいないから」とこれもまた決まり文句になっているのですが、これでまた人材を育成しようとかいうと研修する側として乗り出してくるのはギョーカイ人。そしてまた「伸びしろを奪うような支援」(c月子さん)がなされるだけなので「人材育成が鍵ではない」ことにもっとみんな気づいてくれるといいなと思います。支援は主体的に利用しいらなくなったら抜け出すのが治るコツなんじゃないかと思います。

ととさんのお答えがとても「資質」を説明するのによかったので引用・説明させていただきます。

=====

Unknown (とと)
2017-05-16 11:10:55
質問2の追記
直接の知り合いではいませんが、治ったといってもいいくらい発達した人がひとり存在することは精神科医の方から教えていただきました

治った方は、集団でソーシャルスキルトレーニングをやってるうちに「SSTって演劇みたいで楽しい!」と思うようになり、アマチュアの演劇サークルに入って楽しみながら切磋琢磨したそうです

ただ、その方以外の方にはSSTは効果が出ていないそうです
SSTで良い会話パターン例を教わって暗記することができても、実際の会話には活かせないで悩む方が多いということを聞きましたね

=====

ととさんの出会った精神科医の方は最初から赤本勧めるセンスの良さがあったということで、これは幸運な出会いですね。治る、ということは主観的なことなので、東田さんを偽者扱いしたりちゅん平さんに対する評価を変えたりする昆虫採集系の精神科医は治せません。当事者を客体でしかみられない。いや、当事者を客体としてしかみられないのは科学者として当たり前の態度かもしれませんが当事者に主観がありそれが自分たちの科学をもその人にとっては凌駕する想像力がないのですね。だから東田さんにああいう無礼な真似をするのですよ。

ちなみに成人の人たちが殺到する某なんとかだいがくなんとか鳥山病院の医師は来る患者を「当たり」と「はずれ」に分けていることを堂々と講演でしゃべってました。当たりっていうのは当然確定自閉圏。はずれは違った人です。ホームランバーかよ。っていうかはずれの人は支援は受けられないんですかね。

そして、お芝居。
自分でわざわざ券買ってお芝居に行く人いますね。
そしてテレビに出てくる人たちだけじゃなく、舞台俳優なんかでもファンになったりする人いますね。

私はお芝居なんかまったく行く気がしないです。
小さい時ものすごーく遠い親戚が宝塚にいて連れてかれたことがあったのですが、帰ってきてから熱を出しました。

大人になって歌舞伎も何度か見ました。きれいだな~。幕の内弁当がおいしいな~。いい体験になった。それだけです。それにテレビで見る歌舞伎役者の人ってなんかすかしてていけ好かない感じですしね。お相撲さんたちの方がずっと性格がいいですよ。

そして「発達障害は治りますか?」の中で、ちゅん平さんが一人芝居をしていること、神田橋先生がそれはいい自己治療だと言っていたことを皆さん思い出してみてください。

ちゅん平さんは病んだ時解離性障害になりました。
そして立ち直っていくときは「自分のあるべき姿」を思い描きました。

つまりお芝居がはまる人なのです。

このSSTの人もそういう人で、しかもそこで溺れず、「お芝居」だけを抽出してあとは一般のお芝居に入ったのですね。そこで生きがいを得て、そして治っていった。これがその人の資質です。途中まで治したのは支援。その後それを自分で発展させ一般社会に入ったから治ったのです。ここでギョーカイの決まり文句「二次障害が治ってから~」を真に受けていては治りません。

そしてお芝居なんかまったく興味のわかない私が好きなのはお相撲で
お相撲の特徴と言えば言うまでもなく
・勝負事
・引き分けなし
・相手を倒す、落とす、押し出すと勝ち

なのです。
だから私は「やられたら倍返し」がギョーカイトラウマからの一番の立ち直り方法なのですね。
そしてそれは「ギョーカイおかしい」とうすうす感じてきた人たちに発言するきっかけ、ギョーカイに見切りをつけるきっかけ、治るきっかけを与えたわけです。これが「自分の偏りを社会のために活かす」ということです。

その人がどう余暇を過ごすか。
それも大きな資質の手掛かりになるかもしれません。

☆☆
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愛着障害とはどういう現象か?

2017-05-17 07:30:52 | 日記



さて、岡山で講演が済んだあとはすぐに戻って、翌日東京で講演を行います。
たくさんの人にとってアクセスしやすい東京。そこで、「発達障害」と「愛着障害」のおさらいをします。
こちらの団体は、支援者・保護者の方たちのお勉強会だそうです。
今回は特別講演だそうです。皆さん大歓迎です。

チラシに使っていただいてあるキャッチコピーは「愛着障害は治りますか?」のものです。

=====

自分が自分であることを
祝福されなかった。

つかみどころのない不安と
いつも一緒に生きてきた。

=====

最初から原案として使われていたところを見ると、これがたぶん、主催者的にはぴんとこられたのでしょうね。
このコピー、これだけで泣いた、と言ってくださる読者も多い。
そして私にとってはこの四行を書くだけでも相当勉強しなければいけなかったのです。

長らく、私は愛着障害というものと接していながら、それをそれと認識していなかったと思います。
いや、実を言うと
愛着障害の示す状態像は、私にとっては多くの場合「フユカイ」でした。

私は発達障害の世界の端々で出会う「ありえない恐怖感」に腹を立てていました。いや、「ありえない恐怖感」だけだったら「変なの」と思いながら腹も立てなかったと思います。その「ありえない恐怖感」を持つ人々が、勝手に私の言動に恐怖を抱き、全く理解できないこっちに同じようにそれを共有しろと迫られることが多く、それが不快でした。こちらはその恐怖感を共有していいない以上、完全にいちゃもんにしか思えなかったからです。

そして愛着障害を持っている人の方は、自分の「ありえない恐怖感」が愛着形成のヌケに由来すること、それを共有しない人がいること、に気づかなかったのだと思います。
それが支援の世界と一般社会のズレであり
逆のベクトルで、私がギョーカイに適応できない原因となっていました。

愛着障害は発達障害者を取り巻く環境の中でどういう現象を取るでしょうか。

まずは「社会が理解すれば生きやすくなる」。
この集団誤学習が愛着障害の産物です。
先日栗林先生がいいこと言っていました。あまりいいこと言っているのでスクショとらせてもらいました。ここには貼りませんが自分の記録用に。こういうことをおっしゃっています。

=====
理解されれば幸せになるのなら、あまりにも簡単な話です。
(中略)
将来を明るくするには、他力本願だけでは満足できない人たちが大勢いることを、もっと切実に理解してほしい。

=====

栗林先生も基底充実の方ですから、当然これが見えるわけです。社会の理解がいくら進んでも、本人の充実がなければ幸せになるはずがない。そしてそれに気づいている当事者保護者も多いのに、相も変わらず社会の理解だけ、つまり他力だけでなんとかしようとし続け、それこそが支援だと説き続ける支援者たち。この人たちは、自分のヌケを埋めようと支援職につき、そこから修行の進まない人たちなのでしょうね。自分の修行の進まなさに、人を巻き込んでいるわけです。

でも愛着障害を抱えているのは、このギョーカイ支援者だけではありません。
保護者の中にもあります。そして親の会なんかではこの愛着障害が強化されていきます。

私がギョーカイの言動、一番初めに覚えた犯罪報道へのいちゃもん。「加害者の診断名を報道するのは偏見を広げる。差別だ!」。
一万回くらい書いたと思いますがこれが一切理解できません。加害者の診断名を報道して広がるのは偏見ではなく事実です。一般社会の知る権利を制限しようというのでしょうか? そして、同じ診断の人を同じ目で見るとしたらそっちの方がおかしいのです。でも今思うとこれは、見張り合い社会の産物だったかもしれませんね。

そして「治る人はいる。でもあまり話題にしないようにしている。人心が安定しないから」という支援者による保護者の子ども扱い。わけがわかりませんでした。でもこれも、支援者保護者双方の愛着障害の産物だと今ならわかります。人心が安定しないとはどういうことか? 「治る人がいると自分たちが努力不足だと思われる」という被害者意識。猿烏賊方面ではこれを大真面目に私にぶつけてきました。これも基底欠損がもたらした被害感です。

治そうよ、と赤心から屈託なく発言する私。それをたたく猿烏賊。そして本当は治りたい、治る方法があると知りながら私が叩かれるのは見て見ぬふりをして本だけ読む意気地なしの隠れ読者。これも愛着障害の産物です。賭けてもいいけど(賭け事はお相撲見に行けなくなるのでだめだけど)、大っぴらに私をかばう勇気があった人の方が予後がいいはず。

私から見ると「そんなもんにつきあってられるか」、という卑屈さ。それが発達障害の世界には渦巻いています。そしてそれをなぎ倒していかなくては治りません。だから私は愛着障害について勉強し、そして自分には縁遠い愛着障害について想像して先の四行をひねり出したのです。

ならば愛着障害は当事者においてはどのようなかたちをとったでしょうか?
親の悪口を言う? そんなの一形態にしかすぎません。逆に言うと親の悪口とは別のところで愛着障害は濃く見られます。
「治るなんて差別!」だという言動。
「努力しろなんて差別」というやる気のなさ。
治る人がいると「あれは偽者」と理屈をこねる往生際の悪さ。
当事者に見られる愛着障害はそんなもんです。

そしてそういう卑屈で努力せず社会的には受け入れがたい当事者に死んだふりし
「ありのままでいいんだ」
「社会が理解すればいい」としか言わない支援者の「死んだふり」。
これも自分が丸ごと受け入れてもらいたかったけど果たせなかったヌケが埋められない支援者の愛着障害がもたらすやっつけ仕事です。税金から給料もらって死んだふりするな、ってなもんです。

いや、やけに力が入る記事になってしまいましたが
まあとにかく、発達障害と愛着障害の関係について語り、治す方法が出てきたことまで言及するつもりなので、ご都合のつく方は6月18日の目黒講演に来てください、というのがお願いだったのです。
お申し込みはこちらへ。
前日の岡山では「借りてきた猫」だと思いますが(予定)、目黒では本領発揮しますよ。
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