治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

ダジャレとガールズトークのどちらがよりうざいか?

2017-03-24 09:22:23 | 日記



さて、番組の途中ですが、ちょっとゆるいネタを入れます。実はこのネタ、連載中のあとがきにも関係してきますのでそのつもりで読んでください。
まずは豆柿さんにいただいたコメントを引用させていただきます。

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ガールズトークとダジャレ (豆柿)
2017-03-20 21:01:02
私はダジャレは言いませんし、女子ですが、ガールズトークも元々しないたちで、「自閉っ子のための友だち入門」の愛甲さんや浅見さんの章を読んだ時、自分も浅見さんみたいに、遺伝子レベルでガールズトークが意味不明なたちなのかな、と思ったりしました。「友だち入門」は前から家にあったんですけど、最近初めて読んで、もっと早くに読んでおけばと思いました。

私自身は、ガールズトークもダジャレも好まないんですけど、周りのガールズトークやダジャレを話す人たちとどう関わっていくか、というのが悩みです。

同世代や年上の同性の人からガールズトークされたりして、というか、知らない間に巻き込まれていたりするので、
正直、浅見さんがどうやって、ガールズトークやダジャレをする人と距離をとっているのか、気になっています。(私の場合、おじさんにガールズトークされたことがないので、そういう人もいるんだなぁ、と思いました)

おじさんやおじいさんに、ダジャレをふっかけられるのは、自分の頭の中だけで喜んでおけばいいのに、他人を巻き添えにするなよと思います。特に、気に入られようとしてなのか、美人だったり、若かったりする女の人(特に接客業の人)にダジャレを言ったり、訳の分からないコミュニケーションの取り方をしたりする人は生体レベルで拒否反応が出ます。
幼稚園児の頃、そういうおじさんを見ていても、分からないまま見てたんですけど、大きくなるにつれて、ダジャレを言う側と言われる側の心理が分かって、そういうおじさんのことをうわっと思うようになりました。

また、最近テレビで、SNSに写真をアップして「いいね」をたくさん取るのが流行りとか言ってたんですけど、それを見て、なんだか親父ギャグを言って受けて欲しい人と似た心理なのかなと思いました。

=====

私は豆柿さんのこのコメントにひとしきり笑い、それからまず、「ダジャレとガールズトークでは私はどちらがより嫌いだろう?」と考えました。結論はガールズトークでした。ダジャレは道端の石ころのようなもので、無視すればいいし、あまりにでかくて道をふさぐようだったら蹴り飛ばしてやればいいのです。豆柿さんは「自分の頭の中だけで喜んでおけばいいのに」と書いていらっしゃいますが、あれは脳の老化に伴う生理現象みたいなもので、垂れ流しになってしまうようですね。そしておじさんなりの積極奇異的なコミュニケーション手段なのかもしれません。

一方でガールズトーク。これはうざいです。一つの対応方法として、「思い切り軽蔑する」というのがありますね。あるいはたしなめる。あるいは理論化してやりすごす。先日饗宴の席で居並ぶ美女の一人が職業的な美女(つまり女優さんたち)をあれこれ格付けする栗本さんに対し「先生がもこみちだったらそういうの言ってもいいんだけど」と一刺ししていましたが、そうやってカンチガイを指摘してあげるのもいいと思います。この美女はその他にも「中学にいたわこういう男子」っていう名セリフをはいてくれて、すかっとしましたね。

私は栗本さんのガールズトークは、一種の無教養の賜物だと思っています。栗本さんはなけなしの読書力を身体方面の知識習得に費やしてしまっています(褒めてます)。名残をなのこりと呼ぶような基礎学力のない人は文語と口語を関連付けることができず読書がかなり大変になります。そのなけなしの読書力で必死に自分の仕事に関する本を読んでいるので(褒めてます)、一般教養を構築するところまで至らないのです。貧乏な人は主食を買うのが精いっぱいで副菜が買えず食卓が彩豊かにならないでしょ。それと同じことが栗本さんの読書力で起きています(ブ)。

そうするといきおい、話題はくだらない芸能ネタになります。そうやって職業的な美女(=芸能人)たちの格付けを上から目線でやってもそんな話に興味がある人は他にいない。だからひんしゅくを買う。そして相手が見つからない。それを「金がない」せいにしていますが、本当のところは話がつまらないからだと思いますし、話がつまらないのはなぜかというと本を読まないことからきているかもしれません。

こうやって理論化してガールズトークをしのいでいます、私の場合。もちろん先日の美女のように「もこみち」とか「中坊」とかのキーワードで刺してあげる手もあると思います。

そして私は今回「友だち入門」を読み返してみて、自分が「決まり文句を取り交わして成り立つ人間関係」から一歩引きたい人だときちんと分析していたことを思い出しました。そして「ていうか決まり文句で成り立つような人間関係の中に入るのは浅見さんには遺伝子レベルで無理」と愛甲さんに指摘されてぱっと明るい気持ちになったのを思い出しました。そうだったのか! と。ということは決まり文句で世の中乗り切る人はそういう遺伝子をもっているのでしょう。

画伯は決まり文句で世の中乗り切る人のようで、前回二回目の結婚のときにも「こんな自分のところに(バツがついているという意味)来てくれて」とか言ってました。私は変なこと言うなあ、と思っていました。その気持ちが本気だったのかどうかは知りませんが、とにかく前の奥様に尽くしてたしいろいろ我慢していました。何を我慢していたかというと、ご飯にサツマイモが炊き込んであるのに我慢して、奥様がいないとき一人で銀シャリを炊いて食べたらおいしかった、とか涙ぐましいことを言うのです。サツマイモご飯なんて、うちだったらちゃぶ台をひっくり返すと思います(これしかないけどね)。



そして今回も「こんな自分のところに~」とか言い出したのを聞いて、今度はこっちが我慢できなくなりました。アンタ前回もそれ言ってたじゃん。そして腹が立つ理由が今度は私も言語化できました。それは愛甲さんと「愛着障害は治りますか?」を作ったからだと思います。

決まり文句の人間関係は、(私には見えないけど)中にいる人にとってはメリットがあるのかもしれない。でも二者関係でそれをやってはダメじゃないかね。前の時私が「変なの」と思いながら言わなかったことを後悔したので、今度ははっきり言うことにしました。愛甲さんの本も出たし。採用するかどうかは画伯の自由。ダジャレはスルーできても、決まり文句がスルーできない私です。

そして私のように決まり文句をスルーできないからこそ、ギョーカイがおかしなこと言ってるのに気づくんだと思います。「改善するけど治りません」という決まり文句。みんなよく意味も考えずこれを信じています。でもよく考えてみてください。「改善するけど」「治らない」ってすごくおかしくないですか?

画伯に「よくこんな自分のところにとかいうんじゃないよ」と言ったら、本気でそう思っているわけではないということなので安心しました。奥様だって主体性をもって画伯と結婚することを選んだわけだしね。それをさー「こんな自分のところに」とか本人が言うなんて、まるでババを引かせて申し訳ない、みたいな風に私には受け取れて奥様に失礼じゃないかと思ったのです。でも画伯的には要するに、それが再婚のときの決まり文句みたいなものなので大して考えずに採用したというだけのことのようです。

多くのギョーカイ人もそうなのかもしれませんよ。
「改善するけど治りません」が「お約束」だから採用しているだけかもしれませんよ。
そんなもん、真に受けることないですよ。

ということで

あとがきまた続きアップしますね。

というか

世の中の栗本さんにも画伯にも興味のない人から見れば、この記事がガールズトークなんですよね。
私には二人とも大事なんだけど。
とくに今は画伯。ペン入れお願いね。週明けにできてたら最高。

というオチでした。
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身体アプローチから言葉以前のアプローチへ  浅見淳子 その2

2017-03-24 07:27:26 | 日記
 私がもともと身体アプローチに興味を持ったのは、「週五日、年間を通して働ける身体になったら(多少変人でも)つぶしが効くだろう」というのが理由だったのですが、その目標に向かって様々な実践家と出会いその都度本にしていくと、読んだ読者から「治った!」「よくなった!」等の声が上がってくるようになりました。それは本を出している本人が逆にびっくりするほどだったのですが、栗本さんと出会ってそれがなぜだかわかりました。
 身体の不具合がなくなると、芋づる式に治っていくのです。たとえば睡眠障害。睡眠障害が治ると日中活動の質が上がります。情緒も安定し、学習もはかどります。「自閉症だから睡眠障害は仕方ない」で終わらせず、「自閉症の人は関節の不具合を抱えていて、その結果『眠れない身体』になっていて、関節を育ててあげると眠れる身体になる」と理解して「関節を育てるワーク」をすると眠れる身体になり情緒も安定し学習もはかどり、その結果生まれつきのものと思われていた障害特性に困らなくなっていくのです。「眠れない身体」の持ち主にいくらスケジュールを導入しトークンを用意したところで「眠れる身体になっていない」のならご本人には不全感が残っているはずです。結局、本人をラクにするのが一番の近道のようでした。ご本人にとっても、周囲で支える人たちにとっても。

 そして『人間脳を育てる 動きの発達と原始反射の成長』の著者灰谷孝さんと出会い、「発達はピラミッドであり、発達障害とはピラミッドのヌケであり、それを埋めればいい」ことを明確に示していただきました。それまでも私たちは「発達障害者は発達する」と考えてきたわけですが、灰谷さんの説明により、それがなぜなのか明瞭に言語化されました。発達の障害とは、発達のヌケである。ならば埋めればいいだけ。それに気づかせてもらい、指針がはっきりしてきました。
 このころになると、「鍛えるのは残酷」と考え、それを私にぶつけてきた人たちの多くの心の底に「自分も、そして障害のある子たちも、訓練など施さずこのままで社会に受け入れてもらいたい」という思いがあるのに気づきました。発達障害の当事者にもその支援者にも、他者との愛着関係を築ききれていないという問題を抱えている人が多いことを神田橋條治先生の著作で学びました(『治療のための精神分析ノート』創元社)。人間は努力してこそ多くを得られるのに、そもそも努力すること、努力しろと呼びかけることが「いけないこと」だとみなす発達障害をとりまく人々の一般社会と隔離された感覚は、愛着の問題を抱えているからではないかと考えました。
 そこで心理士の愛甲修子さんに『愛着障害は治りますか?』を書いていただきました。愛着関係の発達もまたピラミッドであり、段階を追って発達していく。言葉で癒せる愛着障害と言葉では癒せない愛着障害がある。原初的に背負った愛着障害は、言葉では癒せない。けれどもあきらめる必要はないこと、深いレベルの愛着障害には身体からの働きかけが効果があること、というか、それしか効果がないことを学びました。

 そして気づいたのです、なぜ身体アプローチに効果があるか。
 それは、身体アプローチこそが「言葉以前の領域に働きかけるアプローチ」だからです。
 人間の発達は言葉のない世界が土台となってやがて言葉と出会います。
 発達障害の人たちは言葉以前の領域に不具合を抱えている人たちなのだから、それを治すために言葉以前のアプローチ、大脳皮質よりもっと下にある領域に働きかけるアプローチが必要なのは考えてみれば当たり前でした。

 そしてDSМが改訂されました。発達障害は「神経発達障害」という大項目にくくられることになりました。神経発達障害なら、身体全体の問題であることは自明の理です。神経は身体中に張り巡らされているのですから。
 身体アプローチを追求してきたのは間違いではない、と自信を持つようになりました。そしてこれまで使ってきた「身体アプローチ」という言葉をじょじょに「言葉以前のアプローチ」に置き換えていこう、と今は考えています。
 身体アプローチは身体を丈夫にするから効果があったのではなかったのです。
 
 本書で見てきたとおり、発達障害の人たちの困難さは言語能力以前の発達から始まっています。発達ピラミッドのところどころを抜かしながら育っていき、言語が出るころになってようやく定型発達者との違いが明らかになります。だから、言語能力より後に芽生える能力を伸ばそう、矯正しようとする。それでも効果がない。当然です。不具合は大脳皮質の機能だけにとどまらず、そこに至るまでの過程にもあるからです。そして大脳皮質だけの働きかけるアプローチや言葉によるアプローチでは、発達ピラミッドの土台には届きません。
 そして言葉以前の領域に働きかけたいのなら、身体に働きかける以外の方法があるのでしょうか?


続く


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身体アプローチから言葉以前のアプローチへ  浅見淳子 その1

2017-03-23 09:23:43 | 日記



次作のあとがき、公開します。
長いので連載になります。

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あとがき

身体アプローチから言葉以前のアプローチへ  浅見淳子

 発達障害をテーマに出版活動をするようになり、すぐに身体面に注目し始めたのはいくつかの偶然の賜物です。
 そのひとつ目は、たまたま最初のころに出会った自閉圏の人たちが愛すべき人たちだったことでしょう。
 つきあってみると、愛すべき人たち。努力家でもあります。なのに、社会でなかなか居場所を得られない。働く場に定着できない。なぜだろうとつぶさに見ていくうちに、発達障害の人たちが抱える身体感覚の不思議さに気づいたのです。
 体温調節といった普通なら頑張らなくてもできることができていない(自律神経の不調)。自分の身体がどこからどこまでかわからない(ボディイメージの問題)。様々な過敏性があり他人と場を共有するのが困難。手ごわい睡眠障害がある。季節の変動にも翻弄されすぎる。
 そもそもこの社会で家庭の外に居場所を得るには、週に五日働く体力があるとつぶしが効く。ということで「この人たちが週に五日働ける身体になる方法はないのだろうか?」という問題意識は、二〇〇〇年代の初頭から抱いてきました。自閉症が社会性、コミュニケーション、想像力の障害とされ、実行機能障害としてのADHDが注目され始めたころです。
 二つ目の偶然は時代の流れです。私が発達障害と出会ったのは発達障害者支援法施行前夜で、なんとかこの人たちを就労の場につなげようと政治も動いており気運も高まっていました。支援制度も構築されつつありました。私自身は仕事から生活の糧、やりがい、社会参加、人とのかかわりなど多くを得てきた人間ですので、この愛すべき人たちにも仕事の場が得られるといいな、と単純に考えそのために貢献したいと思いました。
 三つ目の偶然は、私自身の事情です。私はたいした才能もなく人付き合いがうまいわけでもないのに、仕事場とそこでの評価には恵まれてきた人間でした。とくに際立った長所がなくても自分が仕事で成果を得られるのは、とにかくよく働くからだろうと考えてきました。だから社会性の障害があると言われる人たちでも一生懸命働けば、生きる道はあると考えました。働き者を拒絶する職場はないからです。そしてそのための資本は、なんといっても身体です。
 けれども発達障害の世界では、あまり身体に注目していませんでした。発達障害は生まれつきの脳の障害であり、一生治らない。そして社会性の障害である。これがほぼ統一見解でした。

 私は「一生治らない」という専門家たちの統一見解はすんなりと受け入れましたが、社会性の障害というところには疑問を持ちました。社会性の不具合と見えているものは、実は身体の不具合ではないのだろうか。これだけ身体感覚がずれていたら社会参加が難しくて当たり前なのではないだろうか。私たちがうるさくない音をうるさいと感じ、まぶしくない明かりをまぶしいと感じるのなら、同じ場にいるだけで相当つらい思いをしていることでしょう。自分の身体がどこからどこまでかわからなかったら、街中に出るのは恐怖を伴うでしょう。引きこもっていることは問題ではなく、むしろ自然なことなのではないでしょうか。
 社会性やコミュニケーションというつかみどころのないものを一挙にどうにかするのは難しいことかもしれません。けれども身体を丈夫にすることはできるのではないかと単純に考えました。それと、身体感覚のずれから一見社会性に問題がありそうな行動をこの人たちが取るとき、「心の問題」と深読みすることは不当なことなのではないかとも思いました。社会性の問題だと思うのは自閉症の人たちとも心を通じさせたい「こちら側の問題」をクローズアップしているだけで、ご本人たちにとっては「身体がしんどい」障害なのではないでしょうか。まずはこれを知ってもらおう。そう思って私はニキ・リンコさん、藤家寛子さんという二人の当事者の方たちと一緒に『自閉っ子、こういう風にできてます!』という本を出しました。
 そして大きな反響がありました。保護者からは「子どもがなぜこういう行動をするのかわかった」という声が多く、「よくぞ出してくれました!」と言ってくださる方たちもいました。その中に感覚統合の専門家の方たちがいました。発達障害の人々が抱える身体的な不具合に早くから注目してきた方たちです。
 私は感覚統合の専門家たちにききました。「自閉っ子たちが抱えているこの身体的な不具合。これって治るんですか?」。彼らは答えました。「治るとは言えませんが改善します」。
「治るとは言えませんが改善します」とは日本語として不思議な言い回しです。けれども発達障害の世界ではすんなり受け入れられているいわば「決まり文句」です。そして当時の私もすんなり受け入れました。「改善するのか。よかったよかった」という感じです。そして感覚統合についてお勉強し、何冊か本を出しました。

 数年経って気づいたこと。感覚統合は自閉症の人たちの不具合をよく理論的に説明している。そして介入して改善している(ところもある)。保護者の中にも感覚統合の効果を実感し、他の療育方法では改善しなかった特性が改善することに驚いて喜んでいる人たちもいる。
 けれども私が最初に「これが社会に出るうえでバリアになっているのではないか」と考えていた特性のいくつかを感覚統合は治せていない。睡眠障害。汗がかけないこと。そして季節に翻弄されること。こうした問題を感覚統合は解決しませんでした。さらに別の身体アプローチを探す必要がありそうでした。
 私がこうやって身体アプローチを追求している一方で、身体へのアプローチに全く興味のない人たちもいました。けれども身体性を考慮に入れない支援を受けていても、事態はあまり動いていませんでした。不登校の人は不登校のまま。家庭内暴力をする人は行動障害が止まらない。支援があれば支援があればと唱え、支援が出来上がってみたらそのほとんどが役に立たない。支援の場にすら居場所を見つけられず、長年社会から隔離されるうちに強いルサンチマンを抱くようになり、それが時には行動化する人もいる。私が最初に出会った自閉圏の人たちは愛らしい人たちでしたが、こうやってこじらせた自閉圏の人により家族ともども法的被害に遭ったこともあります(参考図書『自閉症者の犯罪を防ぐための提言』浅見淳子著 花風社)。なぜこれほど治せない支援が行き渡っているか不思議に思っていたときに「この先生は治す」という評判の精神科医神田橋條治先生との出会いがあり、書籍を一冊作らせていただき(『発達障害は治りますか?』神田橋條治著 花風社)、「やはり治す医師は身体に注目しているのだ」ということを知りました。そして実際、先生の外来に行った人たちが「運動とも言えない負荷のない身体アプローチ」で治っていくのに感心して数年が過ぎました。

 仕事となると一生懸命体力の限界まで取り組んできた私にとって、「よくなるために鍛える」という考え方はごくごく自然なことでした。けれども発達障害を抱えた人たち、その支援者を名乗る人たちの間では「鍛える」という概念自体が「残酷だ」と非難されることも多く、こちらに悪気が全くないだけに、何が残酷なのかわからず戸惑いました。また保護者の中には身体アプローチを一生懸命勉強し、なんとか子どもにやってもらいたいのだけれど子どもにその気がないことに焦っている方も多く見られました。
 そんなときに出会ったのが本書の著者、栗本啓司さんでした。障害児者向けの体操教室をしているというので見学に行き、自分も参加してとても楽しかったのですぐに「うちの読者の方たち向けに講座をやってみよう」と思い立ちました。募集をかけてみると、当時無名の講師だったにもかかわらず一日で満席になりました。それが二〇一四年のことです。つまり『自閉っ子、こういう風にできてます!』がベストセラーとなって十年経ったころには、身体アプローチに全く興味のない人とある人がきっぱり分かれていて、取り組んでいる人たちは無名の講師でも講座があれば行ってみたいと思うほど、その効果に確かな手ごたえを感じていたということです。

 そして一挙によくなる人が増えました。
 神田橋先生の治療にも東洋的な知恵が豊富で、西洋的なアプローチより東洋的なアプローチの方が「一挙に変わる」ことにびっくりしたのですが、それは栗本さんの実践、コンディショニングも同じでした。
 そしてなぜ一挙に変わるのか、本書をお読みの方にはご理解いただけだと思います。
 栗本さんは、新しい視点を教えてくれました。発達障害の人は「関節」や「内臓」にも発達の凸凹・遅れを抱えていることがある。それが情緒や学習にも及ぶ不具合の原因となっている。けれどもこれを今からでも育てる方法はあり、それはどこか療育機関に行かなくても家でもできるしお金もかからない。
 それを習って多くの人が家庭や支援の場でやってみて、生活の質をあげ、驚くほど短期間のうちに、長年困っていた一次障害的な特性すら治っていくのを目の当たりにしました。感謝の声が次々と届くようになりました。

続く(不定期)

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進化と発達

2017-03-22 11:52:52 | 日記



1月9日と3月20日は基本的に内容は同じなので、二回ともご参加なさる方はご承知ください、ということでおとといの講座の日を迎えました。「進化と発達をたどり直すコンディショニング」です。
その後私の理解が進んだので、1月9日に示した四つの目標をこう書き換えました。

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第一の目標 「やりたいことができる身体」を育てるため「動きの発達段階」を見極める。



第二の目標  進化や発達の動きをたどり直すことで、しっかりと使い切れる身体、充分に弛められる身体を育て、「やりたいことができる身体」につなげる。


第三の目標 中枢神経を育て、意識運動(大脳皮質の働き)と無意識運動(原始反射等)の連携を促す。


第四の目標 集団指導に役立て、社会生活へとつなげる。


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そして栗本さんに講座をまかせました。実技が中心の時間帯が続きました。皆さん楽しそうに取り組まれますが、とりとめがない。そしてそれは栗本さんの言語力だけのせいではないのです。なぜとりとめがないかというと、栗本さんが示す運動では四つの目標が同時に達成されているところがあるから、説明が構造化しにくいのです。じゃあなぜ四つの目標が同時に達成されてしまうかというと、身体はつながっているからです。

そんなこんなで自分の思わぬヌケに気づかれてびっくりされていた方も多いと思います。
私もこの二か月、自分で人体実験をして気づいたことがたくさんありますよ。

私が読めと言った本を栗本さんは読みませんが、栗本さんが読めと言った本を私は全部読みます。それが読書力の違いです。というわけで二か月で私の理解も進み、理論編はかなり上手に説明できたし納得していただけたのではないかと思います。

今度の本に詳しめに書いておきましたが、私が当初より身体アプローチに興味を持ったのは「週五日働ける身体づくりを」との思いからでした。そして今は「やりたいことができる身体」へと目標がシフトしてきました。

愛甲さんの感想です。

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昨日はありがとうございました。
これまでのすべてのことが繋がりをもって白日のもとに現れ出てきたような、そんな講義内容でした。

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ねこ母さんのブログです。




青森から鹿児島まで、たくさんの方々にお越しいただきました。饗宴も楽しく済みました。あとで饗宴写真を見たら、栗本さんが楽しそうなのでびっくりしました。あんだけいじられていたのに。

写真は次の日、ちゅん平さんと食べた千疋屋のパフェ。
約束を果たせました。

お越しいただいた皆様、栗本さん。
ありがとうございました。
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社会との橋渡し

2017-03-20 08:44:01 | 日記
昨日は新幹線に乗って、愛甲さんと別の心理士の方、精神科のドクターと三人で特別支援社会の見学に行きました。

ここは司法のお世話になった人や各施設でもてあましてしまった猛者ぞろいの入所施設で、でも安定してくらしているそうでした。

愛甲さんは偶然、以前通っていた施設の利用者さんに再会しました。そちらの施設で勇名を馳せ、こちらに移ってきたようです。あちらも「言語の先生」と覚えていてなつかしそうに会話を交わしていました。「今は幸せです」ということでした。にこにこ穏やかな顔をしていました。お部屋も見せてくれました。

言葉以前のアプローチが徹底されているところだと思いました。猛者ぞろいのはずの利用者さんたちが和気あいあいでした。愛甲さんが再会した彼も以前の施設ではお友だちなどいなかったようですがここでは人の輪に参加していました。

施設には門も柵も鉄条網もなく、視覚支援などひとつもなく、TEACCHのかけらもありません。それでも安定しているのでした。

ここを出て社会で暮らしている人もたくさんいるということでした。

それがなぜか、自分の中では今、納得しています。

一緒に行ったドクターは優しい方でした。患者さんに浅見ファンがいるのでサインしてほしいというので「応援しています!」というメッセージを添えてサインしました。

その優しそうなドクターを食事の席が一緒だった女性が「あの人は刑事さん?」ときくのでディープだなと思いました。
その女性はもうすぐ卒業式だそうです。幸せになってほしいです。
彼女の住む女子寮にはお雛様が飾ってありました。

愛甲さんとは行きも帰りもおしゃべりを楽しみました。
愛甲さんとはいつもお話が楽しいです。くだらない芸能界の話題とか出てこないからです。私は芸能人の話とか、この世で一番不要だと思っています。それでも私は最近ガールズトークを結構我慢しています。本づくりのためです。あ、栗本さん方面だけではないですよ。それはまた、いずれ。

愛甲さんは画伯のポーラ美術館にも栗本さんの金がない発言にもダメ出ししていました。
やっぱりそうだよね~と思いました。
なんでこの話を蒸し返すかというと
そういう価値観の違いを鑑みた支援がこの施設ではなされていたからです。

それでは本日お目にかかる皆様よろしくお願いいたします。

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身体づくりという言葉に代わるもの

2017-03-19 06:58:34 | 日記
さて、花風社ではじょじょに身体アプローチという言葉を「言葉以前のアプローチ」にしていきますが
岩永先生の時代から長年使ってきた「身体づくり」という言葉も別の言葉に置き換えていきます。
明日の講座で発表しますね。

明日の講座「進化と発達の過程をたどり直すコンディショニング講座」の目標は四つあります。
レジュメ代わりに貼っておきます。
明日はこれ以外にピラミッドを二つ描いた紙を配ります。
お会いできる方、お楽しみに。

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第一の目標 「やりたいことができる身体」を育てるため「動きの発達段階」を見極める。



第二の目標  進化や発達の動きをたどり直すことで、しっかりと使い切れる身体、充分に弛められる身体を育て、「やりたいことができる身体」につなげる。


第三の目標 中枢神経を育て、意識運動(大脳皮質の働き)と無意識運動(原始反射等)の連携を促す。


第四の目標 集団指導に役立て、社会生活へとつなげる。
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現実路線

2017-03-18 11:38:54 | 日記



先日、ギョーカイのダブスタ(財務省にエビデンスを求められて激おこのアピール)について書いたところ、釧路高専の松崎先生からアクティブラーニングの話題が出てきて、本を一冊読みました。そういえばアクティブラーニングって教育関係者騒いでるけどなんなんだろう、と。とりあえず一冊。西川純先生の「親なら知っておきたい学歴の経済学」です。

感想。これが国家百年の計ならいい方向に向かっているのだな。実現は難しいだろうけどこっちに舵を切るのならどうにかこの国は続くかもしれない。明治維新並みの改革になるだろうけど。そしてこの著者の方は今特別支援教育批判本をご準備のご様子(FB情報)。楽しみだなあ。

ともかく教育全体がこう流れていく中で、特別支援教育がどうなるか。まあ一言で言うと、ギョーカイの居場所はなさそうですね。

あと一つ、私が抱いていた問題意識にも(とりあえずの)回答が与えられるかも。私は発達障害の仕事をしている間に、保護者の問題とも戦ってきました。それは猿烏賊方面だけじゃなく、どっちかというと花風社がやっていることに賛成もしくは好意的な人とも。つまり、「なんでこんなにみんな応用力がないのだろう」ということです。もっとマニュアル的に作れとも言われたことがありますが、そうなると効果は出ない。私は読者の応用力のなさに合わせず読者の応用力の引き上げをはかりたいと思ってやってきました。もっともっと応用力持てば発達援助はもっとうまくいくはず。もっと治るはず。なのになぜみんなこんなに応用力がないのだろう。そのひとつが学校教育にあるだろうと思いました。それを変えようというのですね。現実路線だなあ。

と思っていて昨日はお彼岸の入り。母とお寺に行きました。行く道とランチの席でおしゃべりしていて、さすが私の母、栗本さんにずばっときいたそうです。「なんで結婚できないの?」と。そうしたら栗本さんは「金がないからです」とか答えたらしい。

ダメだなあ。第一女性をバカにしているね。なんか大きな誤学習をしているね。女性が生身の人間に見えていないんだね。だから芸能人の話ばかりして、それを聞いて女性たちがどんどん引いていくという悪循環。婚活の芋づるの端っこを全然つかめていないね。

母は納得していましたけど、80過ぎのお見合い結婚した世代のおばあさんを納得させちゃいかんのです。婚活市場は様変わりしているのだから。

こうやって栗本さんが「金があればもてる」と努力し、今度出す本が100万部売れたとしましょう。そしたらもてる? ないない。もしそれでよって来たら、ろくでもない女ですよ。

でも多くの人がこういう誤解をしてあさっての方向に努力するから、「自分に値付けを」みたいな自己啓発とか真に受けるのかもね。

逆に結婚したくてできない女性に「なんで結婚できないんですか?」ってきいて「美人じゃないからです」と答える人がいたら、相当イタイでしょう?

金がある男と美人の女性しか結婚できないのだったら、世界中トランプ家ばかりですもんね。大部分はそうじゃないけど結婚して幸せな家庭を営んでいるんですよ。

私は恋愛市場の現役ではないですが、外から見ていると、恋愛市場はむしろ健全になってきているように見えますよ。それでも親世代、祖父母世代の影響をぬぐいきれず、それを読めてない人が多いのかもしれませんね。

恋愛市場がこれだけ変わった間、教育はどう変わったのだろう?
ともかく、教育が現実路線にならないとこの先はないし、特別支援教育も国家百年の計の中にあるわけで、それだけで「ギョーカイはもう不要」になっていくでしょうね。

写真は宮崎から取り寄せた肉厚のパプリカ。
おいしそうです。
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KY合戦

2017-03-16 13:37:01 | 日記



先週から、今週の水曜日が晴れになるといいなあ、と思っていました。
沖縄から山城さんがやってきて、栗本さんの案内で箱根の山に登るから、富士山が見えるといいなあと思っていたのです。
お二人は火曜日箱根に泊まって、次の日登って、そして水曜日の夜にはうちの夫婦も同じ旅館に部屋を取り、一緒にお食事。一泊目は画伯も来るとのこと。

画伯は沖縄で山城さんにお世話になったし、ダジャレ合戦を楽しみに来るのだろうなあと思いました。三人で温泉宿で、ガールズトーク(栗本さん)とダジャレ合戦(山城さんと画伯)を繰り広げ聴き手が誰もいない、という地獄絵図が展開しているだろうな、と思いながら私は火曜日の夜怒涛の入稿作業をしていました。案の定画伯からは「栗本さんが長澤まさみと見合いした夢の話をしていますのでなんとかしてください」というlineが。やれやれ。

そして明けて水曜日。横浜は曇っています。箱根は雪らしい。そうすると画伯がFBで、麓まで歩いて行って状況次第ではポーラ美術館にでもしようか、とかKYなこと言ってるので、本当にそうなってしまったらせっかく高い山のある関東にやってきた山城さんがかわいそうだなあと思いました。山城さんと栗本さんは、多少荒天でも登りたいだろう。もちろん状況判断は栗本さんがするだろう。ということで私は栗本さんに、画伯がどう言おうと状況が許す限り山城さんがやりたいことをやらせてあげてくださいとメールしました。

ポーラ美術館は素晴らしい場所ですが、山城さんは美術館見に沖縄から来たわけではないし、さらにいうと美術なんて一生興味が持たない人はいるもんです(栗本さんや山城さんがどうかは知りません)。私はポーラ美術館は好きですが、美術品より空間、さらに言えばお庭が好きなんですね。画伯はきっと芸術家肌の人に囲まれているから、「雪が降っていても美術館よりは山登りしたい」人の存在は想定していなかったのではないですかね。だったら山登り組と美術館組が分かれてそれぞれ好きなことをすればいいわけで、これが健全なセグメント化であり、どうしてもどっちかを選んで一緒に行動するのが友だち原理主義ですね。美術館行きたいなら一人で行けよ、山に登りたい人たちを巻き添えにすんなよ、とスマホを見ながら突っ込んでいました。

まあ結果的には画伯も山登りと頂上の光景を楽しんだようで良かったです。富士山もばっちり見られたようですし。きっと山城さんの普段の行いがよかったのでしょう。

三人が山を下り、私たちが旅館についたときにはお風呂から出てくるところでした。さっそく画伯がなんだか覚える価値もないほどくだらないダジャレを飛ばし、あきれる夫と黙殺する私。宿のフロントの女性が笑っています(客商売ですからね)。「昨日からずっとああいう感じです。いつもですか?」ときかれました。はい、いつもです。

それから夫と私は部屋でお酒飲みながら相撲を見て、かわりばんこにお風呂に行きました。私が二度目のお風呂から上がってきたら画伯が帰るところでした。「嫁さんが待っているので帰ります」とまた栗本さんの心をえぐるようなことを言います。

三人と宿の人で見送り、私は宿の人に「ダジャレが退散するように塩まいた方がいいですよ」と言いました。

塩はまいていないと思いますが、画伯がいなかったせいか夕食の席で山城さんのダジャレは封印されていました。夫が先日沖縄に行き県庁の人とかともお会いしたらしく、そういう話をしていました。ダジャレ仲間がいなくなり、空気を読んだのかもしれません。私の方は、先日大地君が卒業式で答辞を読んで、その動画を栗林先生が送ってくれたので栗本さんに見せたりしました。姿勢もいいし棒人間じゃない。いかにも自閉、という姿勢とはかけ離れたたくましい男の子に育っています。山城さんは栗本さんと山登りをして、足の使い方?とかを習って全然疲れなかったそうです。

私は登山は全く興味ないのですが、vibram(五本指シューズ)で歩くのは好きだからあれで歩ける道なら歩きたいなあ。
栗本さんにコースを考えてもらうことにしました。

沖縄にはこっちにないものがいっぱいありますが、箱根には沖縄にないものがいっぱいあります。また山城さんが来てくれるといいなあと思いながら帰ってきました。

☆☆☆☆
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ご都合エビデンス重視

2017-03-13 08:47:22 | 日記
六年目の311、あのあとのことをいろいろ思い出していました。
節電っていうことで暖房消して毛布かぶって仕事してたな。
放射線量がはっきりしない中、とりあえず一日に一回は外出して郵便局に行ってた。
ご縁のあるところに少しずつ送金してました。

でもJDD(発達障害ネットワーク)には送んなかったなあ。
何しろ自分のところのえらい先生たちを被災地に送り込むのに寄付を募っていたので、開いた口がふさがらなかったのです。日本中が自腹切って被災地を助けようとしているとき、どっかの大学のリッパな先生たちがなぜ旅費を寄付にたかるのか。
それぞれ自腹で行け。
と思ったから送金しませんでした。

あの頃のJDDは今ほど落ちぶれてなかった。
東京のど真ん中でやる年次大会の参加者が、日本の端っこでやる本を一冊出しただけの普通のおばさん(こよりさん自称)の講演会の参加者数と変わらない、なんて状況ではなかった。
その後握手会というB級アイドルみたいな商法に走ったり、「センターオブセンター」(キリッ)として他業種から参入してくる不届きものをランク付けしようと思ってその後消息不明になったり、と迷走が始まったわけですが、そもそも最初のつまずきは未曾有の国難の際にもたかり根性を発揮してしまったことかもしれませんね。

なんだっけ。

そうそう、それを思い出したから久々にまたJDDのHPに行ってきたんですよね。
そしたらまたすごいことやってたよ。ネタに事欠かないね。
通級の教員数を基礎定数化したいと文科省が言った。
つまり児童数に応じて必ず確保できるよう予算がほしかったのね。
そうしたら財務省が拒んだ。
理由は「効果が見られないから」。

わっはっは。特別支援教育に実は効果がないことは財務省も気づいているんだね。
何しろ早期介入してさんざん特別支援したあげくニートを製造するカンタンなお仕事だから。
十年経つといろいろばれるよね。
先日どっかで「支援された人ほど就職できないのでは?」みたいな論調がありましたけど「知ってた」としか言えない。「この支援じゃ逆効果だ」って私は二〇〇八年かそこらには言い始めていましたよ。

そしてギョーカイ圧力団体であるJDDはその他の団体とともに財務省ばかやろー障害児の権利を! と緊急アピールを出しているわけですが、その際の言い分がすごい。

曰く「子どもによって持っている課題は様々で、効果を数値で測ることはできない」ですって。
呆。

新参者が入ってきたら「センターオブセンターのわれらこそエビデンス!」とボス風吹かせて頼んでないのに仕切ろうとする海老踊りな人たちが財務省に対しては「子どもはいろいろなんでエビデンスなんて無理です! とにかく金出せ!」って。
彼らののたまう「エビデンス重視」がいかにご都合主義か露呈したっていうもんです。

この話をFBでしてたら釧路高専の松崎先生がアクティブラーニングの流れを指摘してくれて
おお、そういう風に教育が変わろうとしていくのならおそらく通級指導に予算が増えることはないはずで

そして「通級している児童の数が増えたのが効果があるというエビデンス」とかJDDその他の皆さんは言ってますけど

効果があるのなら減るはずで。

花風社クラスタの中には通級使ってたけどもういらないよ、というくらい発達した人普通にいるわけで。


まあ特別支援教育自体がギョーカイの利権となっているということに財務省が気づいてしまったのなら、皆さんとしては「そういう流れの中で身を処す」ことを考えた方がいいですよ。

ひとつは特別支援教育に効果を求めること。

私は何も、予算を削れと言っているわけじゃないです。
削ってほしくなかったら効果を出せということ。
だから予算がほしい人は、現場に「結果出せ」と言いましょう。


もう一つは

治るが勝ち!

ですね。

この流れの中では

どう見ても「治るが勝ち」。

自分のためにも

予算をより必要としている人たちのためにもね。


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地震と「治る」

2017-03-11 12:00:41 | 日記
さて六年目の今日ですね。

廃炉に四十年とかきいたときには絶望的な気分になったわけですが、六年経ったわけです。

ここ数日諸般の事情で長時間労働しています。最近にはないことです。
でもまあ、若いときにうんとやって基礎ができているので、いつでもそこに立ち戻ることができます。

今日は偶然、こんな原稿を書いています。
これ、表に出るかどうかはまだわかりません。
でも今日ならではのトピックなんで、貼っておきますね。

栗本さんの大阪講座も満員御礼となったようですね。
そしてなんと、明日から春場所です。

ということで

仕事に戻ります。


=====

 さて、ここまで読んできて読者の皆様は、私が「治る」と「改善する」を混ぜて使っていることに気づくでしょう。私は以前、「治るとは言えませんが改善します」という専門家の言葉を素直に受け入れていました。私が「治る」という言葉を使うと、「それって改善するっていうことですよね?」という疑問を投げかけてくる方もたくさんいらっしゃいます。けれども、今の私は「治る」と「改善する」を違う言葉だと考えています。
 お子さんに障害がありますと宣告を受けたとき、「治らないのだろうか?」と一瞬でも思わなかった親御さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか。私が使う「治る」という言葉は、そのときの親御さんの脳裏に浮かんだ「治る」とかなり近いものがあると思います。そして「治るとは言えませんが改善します」という専門家の言葉を、やすやすと受け入れることはやめました。
 なぜか? 脳は、そして神経は、地球と同じ天然生成物だからです。
 地球は人間の思い通りになりません。地震や火山噴火を人間は止めることはできません。地球は生きていて、自律的に動いているからです。原子力発電所のあるところで地震は起こさないでくれ、と人間が頼んでも地球は聞き入れてくれないでしょう。
 脳や神経も同じでしょう。「改善はする。でも治らない」と願うのは、「原子力発電所のあるところで地震を起こさないでくれと地球に頼む」ような、「ありえない望み」に思えてなりません。
 いったい誰がその「ありえない望み」を抱いているのでしょうね。
 少なくとも、発達障害を抱えたご本人たちではなさそうです。

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