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漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

indiana

2006年01月19日 | 近景から遠景へ
 今、部屋の中に流れているのは、David Mead のアルバム「indiana」。
 ラジオでこのアルバムの冒頭を飾る「nashville」を聞いて、買った。それ以来、最もよく聞くアルバムの一つになっている。
 デヴィッド・ミードは、カナダのシンガーソングライターである(オフィシャルサイト。数曲試聴できる)。僕はカナダのシンガーソングライターとは相性がいいらしく、好きなアーティストが多い。デヴィッド・ミードは、そうした僕の好きなアーティストの一人である、ロン・セクススミスなどとも交流があるということだ。
 このアルバムの色彩は、明らかに「高揚した、暖かい赤」である。ゆるやかな時間の流れるこのアルバムを聞きながら、僕はいつもその赤い色彩に憧れている。

ドラえもんの最終回

2006年01月14日 | 近景から遠景へ
 うちのポータルはgooなのだが、暫く前の「注目ワード」の欄に「ドラえもん最終回」というものがあった。
 それを見たとき、ああ、そういえば昔、そういう話を聞いたことがあるなと思った。確かドラえもんの発明者はのび太だったとかいう、都市伝説めいた話だ。だれだか知らないが、ファンが考えたものだとも聞いた。
 そのワードから辿ってみると、あるブログに辿りついた。そこで、その話を漫画化したものを見ることが出来た。田島・T・安恵 という方の描いたもの。同人誌として、販売もされているようだ。
 一読して、よい出来なので驚いた。これだけの完成度があって、しかも販売が好調とあれば、もし無断でやっていることであれば、問題も起こりそうだと思った。以前どこかで同じ話のフラッシュ映像をみたことがあるが、漫画のほうが格段にいい。(誉められたことでもないから、そのうち削除されそうな気がするけれど、一応リンクを貼っておきます。こちらです。)
 しかし、参ってしまう。これは勝手に描いたもので、パロディに近い。普通なら、僕はこんなものを読んで、感心したりはしない。だが、僕はこのマンガを数度読み返した。だから、困ってしまうのだ。
 ドラえもんというマンガはもともと閉じられることもない漫画だとはいえ、作者の死によって、唐突に終わってしまった。子供の頃から、ドラえもんを読んでいた僕達のような世代は、もしかしたら、心のどこかでドラえもんが閉じられることを望んでいたのかもしれない。そうでなければ、こんな話が語り継がれ、マンガになるということもなかっただろうし、僕が読んで少ししんみりとした気持ちになることもなかったに違いない。
 僕は今でも、ドラえもんの単行本を1巻から13巻までまとめて買ってもらって、とても嬉しかったときのことを覚えている。小学校の低学年の頃だ。小学校の1年生の時に、コロコロコミックが創刊して、その余りの分厚さに感動したことを覚えている。それから、最初のドラえもんの映画「のび太の恐竜」を見に連れて行って貰った時のことを覚えている。ドラえもんを読んでいたのは、せいぜい小学校のころまでだったが、それでもやはりドラえもんは特別な漫画なのだろう。
 

スローフード

2006年01月12日 | 近景から遠景へ
 ファストフードより、スローフードの方が身体にも心にもよい。
 それはわかっているのだが、難しい。
 別に、例えばハンバーガーやカップめんが好きなわけではない。たまに無性に食べたくはなるが、食べた後でいつも気持ちが悪くなって、止めりゃ良かったと思う。年のせいか、悪い油は胃にずっしりと重い。
 じゃあ、なぜ難しいのかといえば、実は僕はゆっくりと食事をするのが苦手なのだ。
 定食でもパスタでも中華でも、大抵の食事なら、5分もあれば食べてしまう。食べているというより、もしかしたら飲み込んでいるといったほうが正しいかもしれないくらいだ。
 当然、食事をゆっくりと楽しみたいと思っている、大抵の女性には評判が悪い。でも、仕方がない。腹が減っている時は、箸を止めることが出来ないし、下手に止めてしまうと、もうそれ以上食べる気がなくなってしまうのだ。
 このクセは、飲みに行った時もつい出てしまう。飲んだ後、〆にラーメンかお茶漬け。これが出来ない。最初からちゃんと食事をしてしまう。腹が膨れると、やっと落ち着いて、それからは殆どなにも食べずにちまちまと飲んでいる。飲み終わった後は、何も食べる気なんてしない。ただ寝たいだけだ。自分勝手な遣り方だとは思うから、なるだけ気取られないようにとはするが、でも結局は同じことをやっている。直らないのだ。
 だから、コース料理は当然苦手で、大嫌いである。食べているうちにだんだんと嫌になってきて、腹が立ってくる。そうなると味なんてわからなくなるし、腹が減っているのか満腹なのかも分からなくなる。いいからまとめて出してくれといいたくなる。困った性格だと、自分でも思う。

Stasys Eidrigevicius

2005年12月19日 | 近景から遠景へ

 スタシス・エイドリゲビチュスは、リトアニア出身の画家である。とはいえ、ある時期から自ら作った仮面を使ったパフォーミングをするようになったから、もしかしたら、画家というより、パフォーミング・アーティストと言うべきなのかもしれないし、あるいは、その後ポスターのグラフィックデザインの世界に活躍の場を広げたというから、グラフィックデザイナーというのが正しいのかもしれない。
 僕がはじめてスタシスの絵を見たのは、鼻の長い、ピノキオのような男の子を描いた絵本でだった。その絵の、妙な違和感に目を奪われた。続いて、ここに画像を載せた、「クレセント・ムーン」の連作を見た。この本の中で、月は畑を耕したり、魔女に鋏で刻まれたり、様々な姿を見せている。稲垣足穂の「一千一秒物語」では月がオブジェか記号のようになって、様々な活躍を見せていたが、たとえばそんな感じで、月が描かれている。ただ、先の足穂の作品とは違って、こちらの月はどこまでも無口で、違和感があって、だからだろうか、居心地が悪そうに描かれている。そのあたりが、見ていると何かの風刺なのだろうかと感じる所以だろう。
 この本のまえがきで、スタシスはこう書いている。
 
 ・・・しかし、1~2年後に、それは終わりました。私の人生、私の魂は、表現と自由の意義を探す迷路に閉じ込められてしまいました。気が付くと、絵葉書よりも小さな絵ばかりを描いていました。アトリエや落ち着ける住まいもなく・・・(以下略)

 こうした中で、スタシスが描いていたのが、この「クレセント・ムーン」のシリーズである。スタシスが描いていたという、絵葉書よりも小さな絵が、彼にとっての「プライマル・スクリーム」のようなものであったことは、容易に想像がつく。僕がスタシスの絵を見て、感動したのは、ちょうどその頃僕も似たような時期にあったからで、小さな絵ばかりを描いていた。ただし、僕は今でも小さな絵を描くことを好んでいるけれども。

Lucinda Williams

2005年12月18日 | 近景から遠景へ
 先日、ブルース生誕100年を記念して企画された、マーティン・スコセッシが総監督を務めている「The Blues Movie Project」というドキュメント映画シリーズの一本、「ソウル・オブ・マン」を見た。これはヴィム・ヴェンダース監督の作品である。ヴェンダースの作品は、「パリ・テキサス」と「ベルリン天使の詩」を観たくらいで、実はそんなに見ていないのだが、音楽の趣味は合うと、いつも思っていた。だから、この作品は見る前からきっと好きだろうと思った。期待は、当然のように違わなかったのだが、この作品の中で、ルー・リードやカサンドラ・ウィルソン、それにボニー・レイットらに混じって、ルシンダ・ウィリアムスの姿もあった。
 ルシンダ・ウィリアムスの、1998年に発表された作品「Car Wheels On A Cravel Road」は、僕の愛聴盤の一つだ。このアルバムは、グラミー賞を受けた作品ではあるが、それほど派手なアルバムではない。カントリーブルースを基調にした、どちらかといえば地味なアルバムだ。だが、僕がこのアルバムを聴く事は、相当多い。どこがそんなに好きなのかと聞かれても、よくわからないが、ともかくよく聴く。そして、聴けば聴くほど、好きになってくる。梃子でも曲がらない芯の強さの中に、しっとりとした叙情的なものがあって、それがしっかりとした演奏によって十二分に表現されている。ハスキーなルシンダの声は、そうした演奏を挑発するかのようで、とてもセクシーに聞こえる。何とも豊かな、そんなアルバムだ。
 ルシンダ・ウィリアムズは、かつて大手のレコード会社に、売れるためのアレンジを強制されたため、それを嫌って、インディーズのラフ・トレード(!)に移籍したという。おかしなストリングスなんて入れられては、曲がめちゃくちゃになってしまうというのだろう。何とも格好いいではないか。

ビール

2005年12月11日 | 近景から遠景へ
 ともかく僕はビールが好きで、飲まない日は殆どない。現に、今も飲みながらこれを書いている。だが、別に特に酒好きというわけでもなく、ビール以外の酒は、よほどのことがない限り、まず飲まない。ビールが、好きなのだ。ビールを、酔っ払わない程度に飲むのが好きだ。
 酒で失敗したことは、ずっと若い頃には何度もあるが、もうこの十年ほどは酔って正体を無くしたり、翌日起きられなかったりしたことは、多分ないと思う。外で飲むときも、酔わないように適当に誤魔化しながら、飲む。妻は、僕が酔いつぶれた姿を見たことはないはずだ。
 ビールでは、日本のビールで言えば、やはりキリンかサッポロが好きだ。キリンのクラシックラガーか、サッポロの黒ラベルがいい。秋になれば、キリンの秋味が出るのが楽しみになるし、ちょっといいビールを飲みたいときには、やはりエビスを買ってきたりする。
 外国のビールでは、飲みやすいところでは、カールスバーグドラフトが一番好きである。デンマークのビールで、爽やかな味がする。もう少しゆっくりと飲みたいときには、イギリスの上面発酵ビールのバス・ペールエールや、アイルランドのギネススタウトがいい。ベルギーの、例えばシメイなどの自然発酵のビールは、美味しいのだが、アルコール度数が高いので、本当に腰を落ち着けて飲む時にはいい。ゆっくりと、話をしながら、舐めるように飲む。逆に、ただ喉が渇いているだけの時は、アメリカの、水みたいなビールも悪くないかもしれない。
 世界最古の酒、とも言われるビールだから、その気になれば書くことには事欠かないだろう。だが、僕にそれほど知識があるわけでもないし、ここではそれほど深く立ち入らない。ただ銘柄を並べているだけの記事になってしまっているな、とは思うが、まあいいとして。
 考えてみれば、いろいろな国のビールをこれまで飲んできたわけだが、言える事は、日本のビールは相当美味しい、ということ。上にあげたような、特徴のあるビールでなければ、鮮度の高い日本のビールを飲んでいたほうがいい気がする。
 僕が絵を書いている机には、帆船の模型の後ろに、ヒナノビールの瓶が置いてある。タヒチの有名なビールで、女性のイラストが可愛い。ギリシャのビール瓶も、ある。どちらもまだ行った事がない場所だが、いつか行きたい。そう思って、置いてあるのだ。
 

うたかたの日々

2005年12月10日 | 近景から遠景へ
 「日々の泡」のタイトルでも知られる(もしかしたら、そちらの方が通りが良いかもしれない)、ボリス・ヴィアンの恋愛小説。僕はこちらの方で読んだので、「うたかたの日々」として紹介する。

 ボリス・ヴィアンの小説は、忘れ難い。
 そう言ってしまえば、ただ「でたらめ」としかいえないヴィアンの作品群。だが、どの作品をとっても、いつも、「どうしてこんなに忘れ難いのか」と思ってしまう。もしかしたらそれは、ヴィアンが「『痛切さ』の神話」を紡ぐ天才だったからかもしれない。
 そうしたヴィアンの神話群の中でも、最も人気がある作品は多分、この「うたかたの日々」だろう。最近、ハヤカワ文庫にも収録されたし、新潮文庫からは「日々の泡」として刊行もされているから、間違いないはずだ。
 「死と再生の物語」というキャッチコピーは、よく耳にする。こと恋愛小説においては、定石のようなものだ。だが、この「うたかたの日々」には、再生はない。無力さの果てに、全てが置き去りにされてしまう。
、この小説はただ「悲痛さ」についての物語なのだ。印象的な、鼠が自殺するラストシーンなど、ただ「哀しい、悲しい、哀しい、悲しい」と書かれているような気がしてくる。そうして焦点を絞っていることが、この小説を美しいものにしているのだと思う。実際のところ、「再生」なんてものがそんなに簡単に訪れたりはしない。本当の悲しみというものは、消えるということがない。時間とともに、深く考えないようになるだけだ。
 ヴィアンの小説は、常に自分の感情に正直に書かれているという気がする。矛盾した感情も、そのまま書かれている。だから、これほど忘れ難いのだろう。

シャンブロウ

2005年12月07日 | 近景から遠景へ
 C.L.ムーア女史の作品の中に、「ノースウェスト・スミス」シリーズというものがある。有名な作品なので、SFが好きな人は大抵知っているだろうが、宇宙を股にかける無宿者ノースウェスト・スミスが活躍する、ヒロイック・ファンタジーのシリーズである。その中でも、最も有名な登場人物が、この「シャンブロウ」だというのは、(この作品シリーズを知っている人なら)誰も反論しないだろう。
 この短編の収録されている単行本は、ハヤカワ文庫SFの「大宇宙の魔女」。表紙は松本零士の艶かしい女性のイラストである。印象的な絵なので、書店で目にした事があると記憶している人も、多分多いのではないかと思う。少なくとも僕は、この小説を読んだのが小学生の時だったから、どきどきしたことを覚えている。余談だが、この本は、野田昌宏氏による解説がまた有名である。

 シャンブロウについて。
 シャンブロウという女性?キャラには、非常にファンが多いらしい。当時、シャンブロウ専門のファンクラブまであったとうから、相当なものだ。
 シャンブロウとは、ムーアが創作したキャラクターであるが、つまりゴルゴーンのことである。メデューサ、と言った方が、分かりやすいだろうか。作品中では、メデューサ神話の元になった存在、という説明がされている。
 シャンブロウは、メデューサとは違って、髪が蛇ではない。ただ、真紅の髪が蛇のように男に巻きついて、得も言われぬ快楽を与える代わりに、生命力を奪ってゆくという存在である。つまり、寄生するわけだ。吸血鬼にも近い。
 作品中では、無法者に追われている美しい女性をスミスが助けるところから始まる。その女性が「シャンブロウ」というものであることは、すぐに分かるのだが、スミスは「シャンブロウ」というものがどういうものなのか知らない。だが、親切心から助けたそのシャンブロウによって、スミスは危く命を落とす寸前まで行く。助けた恩とか、そんなものは全く関係ないという筋はこびが、いい。だが、それはシャンブロウが悪いわけではない。シャンブロウは、「シャンブロウという生物」として、当然の行動をとっただけなのだ。

 C.L.ムーアは、作家ヘンリー・カットナーの夫人であり、共著も多い。
 僕は、あまりヒロイック・ファンタジーは好まないのだが、この作品はとても印象に残っている。ヒロイック・ファンタジーというよりも、むしろ、コズミック・ホラーに近い読後感だったからだ。それは、舞台が火星や金星であるからというせいではないと思う。むしろ、主人公であるはずのノースウェスト・スミスが、強い男であるはずなのに、全く無力で、翻弄されているだけであることが多い、というあたりがミソかもしれない。スミスはつまり、狂言回しのようなものなのだ。ムーアの書きたかったものは、多分、ヒロイック・ファンタジーでもスペースオペラでもなかった。
 実際、ムーアの作品を最も評価していた作家の一人は、「クトゥール神話」で有名な、H.P.ラヴクラフトだった。互いに遣り取りしていた書簡も、相当ある。余談ながら、未読ではあるが、ホジスン研究で有名なサム・モスコヴィッツ氏も、著書「Seekers of Tomorrow」の中で、ムーアとその作品について述べているようだ。

魚石

2005年12月06日 | 近景から遠景へ
 「魚石」というもののことを、昔、聞いたことがある。
 何と読むのか、ここでは「うおいし」として、先に続けたいのだが、正確には知らない。「ぎょせき」かもしれないし、「さかないし」かもしれない。
 さきほどは、どこかで聞いた、と書いたが、それは正確ではない。漫画で読んだのだ。ところが、誰の、何と言う漫画なのだかは、忘れてしまった。確か雑誌で読んだのだと思うが、それも定かではない。内容も、余り覚えていない。ただ、石の中に水と共に魚が閉じ込められていて、石の中で水が揺れ、魚が跳ねる音がするというような漫画だった。磨き上げれば、中の魚が透けて見えるという、とても珍しい石だというような説明があったと思う。
 現実にあるとはとても思えないが、しかしこれは、とても愉しいイメージだ。太古に、何らかの弾みで魚を中に含んだまま石が出来てしまって、中にいる魚は不死となってしまったというのが、魅力的である。中の魚は、生物であると同時に、鉱物でさえあるわけだ。
 そう思って、少し調べてみると、良いサイトがあった。
 やはり、魅力的である。
 

須磨海水浴場

2005年12月02日 | 近景から遠景へ
 神戸の海水浴場といえば、須磨海水浴場ということになるのだろうが、正直なところ、ここは日本でも最悪な海水浴場のひとつだと僕は思う。幕張の海水浴場よりはさすがにマシだが、湘南の片瀬東浜よりは、もしかしたら悪いのではないか。そんな気がする。
 何より、水質が悪い。水が口に入って、気持ち悪くなる海水浴場なんて、あまりないと思う。ただでさえ悪い水質が、サンオイルのせいで、ますます酷くなっている。
 というわけで、僕は神戸の海辺に育ったのだが、海そのものの楽しみ方というものを十分に享受していたとは言い難い。海水浴場でない、目の前の垂水の浜の方が、磯の生き物を追えた分楽しかった。
 だが、東京に出てきて、やはり海が恋しくなった。時間をかけて、少しづつ、海が近くにないという寂しさを感じるようになった。
 一体何なのだろう、この欠落感は?遠くから、潮の運んでくる風がないのが寂しいのか?夜に布団の中で、不意に響く霧笛の音がないのが寂しいのか?
 目を閉じて、須磨の海岸を思い出す。
 向こうには、淡路島が見えている。右手には、埋め立てのための設備が見える。その向こうには、「海釣り公園」の、赤い埠頭が見える。
 夜、電車の窓から見ていた海の光景を思い出す。
 須磨の駅を過ぎて、すぐに電車の窓の外には一面に黒々とした海が見えた。所々に、船の灯りが見えた。その黒い海と、漁火の光景を見るのが、僕は好きだった。
 昔は、綺麗だったという。源氏物語にも出てくる、景勝地だったという。だが、もう今ではその名残もない。数年前に帰省したときに驚いたのだが、どこかから砂を運んできたようで、なるほど規模は大きくなったが、もはや自然の砂浜ではなくなった。抱えている幾つかの記憶のせいで、僕には今でも懐かしい場所だが、多分ここはもう「死んでしまった浜辺」なのだろう。

クリスマス

2005年12月01日 | 近景から遠景へ
 この時期に、「く」から始まる言葉といえば、やはり「クリスマス」だろう。
 だが、クリスチャンでもない僕にとっては、大半の日本人がそうであるように、クリスマスとは「物をあげたりもらったりする日」である。
 とはいえ、「クリスマス」には毎年何らかのイベントがあるし、特別な日であることは否定できない。子供の頃にケーキを食べ、プレゼントを貰ったという楽しい記憶が、いつまでも消えない。馬鹿馬鹿しい部分もあるけれど、いつまでもノスタルジックな感情の残る、日本式のクリスマスも、それはそれで悪いものじゃないと思う。

 一度、神田の「ニコライ堂」の降誕祭の晩祷に参加したことがある。
 もう10年以上前のことだ。
 ニコライ堂は、カソリックでもプロテスタントでもなく、ロシア正教の教会である。
 礼拝には、実は信徒でなくても参加できる。
 何の気なしに立ち寄ったその降誕祭の晩祷は、思いの他印象的だった。
 まるで、何かの舞台を見ているようだと思った。
 全ての知覚を刺激するように、作りこまれてある。
 一度、機会があれば、見てみると面白いと思う。

椰子の実の記憶

2005年11月30日 | 近景から遠景へ
 以前、母サイト「seaside junk foods」でやっていたエッセイ「椰子の実の記憶」を、こちらで復活させようと思う。
 どういうものかといえば、何の事はなく、ただ「しりとり」で題を決めて、それについて書いてゆくというだけのライトエッセイである。特に斬新さはない。
 もちろん、しりとりだから、最後に「ん」がつかないようにする。最後が「ん」で終わる単語は、結構多いから、そこがなかなか大変ではある。だから、以前は面倒になってやめてしまった。そんな制約があるより、自由に書いたほうがいいなと思ったのだ。
 だが、実際に何かを書くとなると、ある程度の制約はあったほうがやりやすい。なんでもない言葉から、広がってゆく話題もある。そう思ったのが、今回復活させようと思った理由である。ブログという形式にも、合っているように思う。ちなみに、タイトルの「椰子の実の記憶」というのは、種を明かせば、僕が椰子好きだというのもあるし、「椰子の実」という歌に対する思い入れがあるというのもあるが、一方で、2chなどの掲示板では、人のことを「ヤシ」と呼ぶらしいをいうことを知ったせいもある。「ヤシのみの記憶」、つまり「自分だけの記憶」という意味を込めたわけだ。
 というわけで、カテゴリー「椰子の実の記憶」は、正確には「第二期・椰子の実の記憶」である。最初は、前回と同じく、「椰子の実の記憶」の「く」から。気が向けば更新する、といった程度の気負いだが、今度はいったいどこに流れ着くだろうか。

The Red Stairway

2005年05月22日 | 近景から遠景へ
近景から遠景へ:5

 小学校や中学校の図工の教科書で見た絵のなかには、いつまでたっても忘れられないものが多くある。キリコの「街角の神秘と憂鬱」もそうだったし、ワイエスの「クリスティーナの世界」もそうだった。他にもそうした絵は沢山ある。
 だが、そうした意味で一番印象に残っている絵を一つ挙げるなら、それは多分ベン・シャーンの描いた赤い階段の絵ということになるかもしれない。
 「The Red Stairway」というタイトルのその絵は、見れば見るほど不思議な気持ちになってくるし、不安になってくる。「憂鬱」や「不安」や「暴力の気配」が漂う、印象的な名画だと思う。

街角の神秘と憂鬱

2005年05月17日 | 近景から遠景へ
近景から遠景へ:4

昼下がりの、微睡みの街のことを想う。
すぐ側にあるようで、辿り着けない街。
しばらく考えていて、ふと思い出すのは、デ・キリコの一枚の絵。
「街角の神秘と憂鬱」
というタイトルがついていた。
輪っかを回して走る、少女のシルエットが印象的な絵だ。
あれは、それに近いかもしれない。

キリコの、その絵を初めて見たのは、小学校の美術の教科書だった。
最初から、強烈に印象に残った。
デジャヴというのだろうか。キリコの絵には、普遍的な概視感がある。
この絵の風景は、自分とどこかで繋がっている。だからこの絵に描かれていない「遠景」を、僕は知っている。そう思った。

眩暈のする町

2005年04月12日 | 近景から遠景へ
近景から遠景へ:3

眩暈のする町

最近は殆ど訪れることもなくなったが、以前はよく、夢の中で訪れていた町があった。
いや、「訪れる」というよりも、「迷い込む」という方が正しいかもしれない。
夢の中で、気が付くとたった一人で迷い込んでいるのだ。

海の近い、ひっそりとした町だ。
だが、海は見えない。ただ、感じるだけだ。
時間は昼下がり。静かに、眠っているような時間。
白い光が、のっぺりと町の上に降り注いでいる。
その光は、眩暈を誘う。
どこへ向かえばいいのか、わからなくなる。
町には、人の姿はない。
ただ、濡れたような窓の奥にその気配を感じるだけだ。

くっきりとした、光と影。
時間の止まった、夏の昼下がりの町。
眩暈のする町を歩く夢は、どうしていつの間にか見なくなってしまったのか。

強く白い光と、濡れたような影の町の夢は、
悪夢ではなかったのだと、最近になって思う。
長い時間が過ぎて、
とても懐かしい、夢の町になった。