goo blog サービス終了のお知らせ 

漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

酒田

2007年08月14日 | 近景から遠景へ

 秋田から酒田へ向かい、一泊した。
 日本海に面した街である。
 かつてNHKで放送されていた「おしん」の奉公先がこの酒田だった。
 僕は知らなかったのだが、妻に言われて知った。
 「本間様には及びはせぬが せめてなりたや 大尽に」
 とまで唄われた豪商がいた市。
 だが、その面影はもはやないという印象。

 この市で泊まった宿は最上屋旅館という、大正時代からあるという宿。 
 しかし、宿泊費は安く、手ごろ。
 この旅館はネットで捜したのだが、「ただ古いだけの旅館です」というキャッチフレーズに、どうだろうかと思ったのだが、なかなか良い旅館だった。
 何より、僕は神戸の出身なのだが、東京に中学校の時に修学旅行に来た際泊まった、本郷の森川別館と似た印象だったのがとても懐かしかった。各部屋に行くのにそれぞれの階段があるという、複雑な造りの宿。出来た頃が同じなのだろう。実際、僕たちが泊まった日も新潟の方の高校から運動部の子たちが試合のために宿泊していた。
 宿の食堂にアルバムがあって、開くと、まるで戦争の後のような荒廃した町の写真が沢山収められていた。しかし、終戦後の写真にしてはちょっと変だ。それで宿の主人に聞いてみると、1976年に起こった「酒田大火」の写真だという。強風に煽られて、火は街の22.5ヘクタールを焼き尽くしたらしい。
 「それからはすっかりさびれてしまって」と旅館の女将さんは寂しそうだった。

 写真は山居倉庫。酒田の代表的な観光場所である。
 

八郎潟

2007年08月08日 | 近景から遠景へ

 秋田から男鹿半島へは、男鹿線というローカルラインが出ている。
 男鹿線は、別名なまはげラインという。
 男鹿半島が、なまはげの発祥地だからだ。

 男鹿半島の観光は、車の方がいいのは確か。
 今回は、ローカルラインに乗ることが目的の一つだったから、電車で行ったが、何度もレンタカーを借りた方がよかったかなと思った。それくらい、公共の交通機関を使うのは利便性に欠ける。なにせ、本数が少ない。それでも、だからこそ味わえる楽しさも確かにある。

 男鹿線に乗って秋田から男鹿に向かう途中で、電車は八郎潟を渡る。
 もともとは琵琶湖に次ぐ広さだったが、干拓によってその大半を埋められてしまった湖。
 八郎潟といえば、「八郎潟の八郎」の昔話を思い出す。
 かつてテレビでやっていた「日本昔ばなし」で見て、ずっと印象に残っていた話だ。
 心優しい大男だった八郎が、ふとした出来心から、なかなか戻らない仲間の分の岩魚を食べてしまい、そのために激しい喉の渇きとともに龍になってしまうという昔話だった。
 八郎は、どこへ行ってもその場所を追われてしまう。
 その八郎が、川をせき止めて作った自分の居場所が、この八郎潟である。

男鹿半島

2007年08月07日 | 近景から遠景へ

 男鹿半島では、入道崎へ行った。
 男鹿半島の先端の岬で、北緯40度線の通っている場所。
 終点の男鹿と、その手前の羽立からバスが出ている。
 僕たちは一人千円ということで、乗合いの観光タクシーを使った。メーターでゆくと7000円ほどになるということなので、この乗合いがお勧め。
 このタクシーは、羽立から出ていて、OKタクシーがやっているもの。
 バスでも一人900円ほどするし、時間も一時間ほどかかるので、その半分の時間で行ってくれるタクシーは有難い。道中、運転手さんとの会話も愉しめる。ただし、僕には秋田弁はかなり手ごわくて、何度も付いて行けなくなり、英語を聞いているような気分になったけれども。

 この日の男鹿はとても暑くて、地元の人たちも「ちょっと珍しいほど暑い」というほど。
 けれども入道崎はとても美しい岬で、感動的だった。
 心残りは、ここでシュノーケリングできなかったこと。
 透き通った美しい海に潜ってみたかった。 

各駅停車の旅

2007年08月06日 | 近景から遠景へ

 各駅停車の旅をやってきました。
 まず総武線で新宿へ出て、そこから山手線で上野。上野から東北本線で福島まで。福島から奥羽本線に乗り換えて秋田まで。秋田で一泊。翌日は秋田から男鹿線(なまはげライン)で男鹿まで。男鹿半島を観光したあと秋田に戻り、羽越本線で海岸線を西へ向かい、酒田まで。酒田で一泊。翌日は陸羽西線(奥の細道最上川ライン)で新庄へ。そこから陸羽東線(奥の細道湯けむりライン)で鳴子温泉で下車。温泉に入って夕方仙台へ。日本海から太平洋まで縦断して、仙台で一泊。最終日は常磐線で上野まで帰ってきました。

 年初にやった各駅停車の旅の続きのつもりでしたが、移動距離が相当なので、面白かったですが、さすがに疲れましたね。それでも、幸い天気にも恵まれ、運にも恵まれ、いい経験でした。本当は祭りを見たいとも思ったのですが、急な思いつきだったので宿が取れずに、諦めざるをえなかったのです。だから、写真は竿灯祭りの前夜のひとこまです。

団地萌え

2007年05月20日 | 近景から遠景へ

 最近、「工場萌え」という写真集が出て、話題になっていた。
 「萌え」という言い方ではないが、例えば川崎の夜光地区とか、そうした工場地帯に惹かれるという感覚は昔からあって、今急に出てきた感覚ではないから、僕にもよく理解できる。こうした感覚は、「過剰性を持った、限りなく廃墟に近いもの」に憧れる感覚に近いのだろう。最近、僕の中で妙なブームになっている「ゴシック小説」もそうだろうし、ピラネージの絵画もそうだ。誰にでもある感覚でもないのかもしれないが、ある一定の数の人々には、確実に共感できる感覚なのではないか。
 工場だけではなく、例えば「団地」に萌える人もいる。
 僕も、実は結構その気があって、通りがかると、団地が気になってしかたない。
 「萌え」というと、ちょっと違う気がするが、その不思議なのっぺりとした光景に、はっとするのだ。
 僕は思うのだが、工場や団地に惹かれる感覚というのは、同じ根を持つのではないか。僕がそうだから、勝手にそう思っているのだけれど。とはいえ、別に工場で働きたいとか、団地に住みたいとか、それは全く思わないのだけれど。
 浦賀に、「かもめ団地」という場所があるが、三浦半島の海岸線を歩いていて見た団地のなかでは、ここは特に印象に残っている。
 写真はないのだが、またそのうち行ってみよう。

遠州灘

2007年01月06日 | 近景から遠景へ

 「青春18きっぷ」を使った旅を、一度してみたかった。
 以前から知ってはいたが、大変そうだし、それに、『暇はあってもお金が無い学生のもの』というイメージがあったので、これまで使ったことがなかった。ただ、ずっと何となく興味はあった。
 ところが、今回、帰省するにあたって、ふと「やってみよう」という気持ちになったのだ。
 普通に新幹線で帰省するなら、親子三人で、運賃はだいたい往復で七万円くらいかかる。ところが、青春18きっぷなら、仮に途中で一泊しないで真っ直ぐ行くとしたら、二万円くらいだ。その差は、何と五万円になる。
 もし、往復とも途中で一泊しても、青春18きっぷがニ綴りと半端分の運賃で大体三万円くらい、それに二日分のホテル代だ。大体、かかる値段は同じくらいということになる。それなら、急ぐ旅でもないのだから、いろいろな場所に行ってみる方が愉しいのではないか。単純にそう思ったのだ。
 昔から、ただ帰省するだけで毎回七万円もかかるというのは、ちょっと馬鹿馬鹿しいなあと思っていた。旅行なら別に気にならないのだが、ただ家に帰るだけなのだ。正直、七万円という額は、我が家には無視できるほどのはした金ではない。
 
 今回の「青春18きっぷの旅」は、だいたいこんな風に考えて、実行に移した。
 多少心配もあったが、結果として、「癖になりそう」だ。
 移動も、ゆっくりとした読書の時間だと考えれば、全く苦にならなかったし、新幹線では見ることの出来ない、普通の街を見ながら旅できたのもよかった。日本という国の、各場所の距離感も、掴めた気がする。時間というものは、相対的なもので、伸縮自在なのだ。考え方で、列車の中の移動時間も、とても生きたものになる。

 写真は、昨日に続いて、遠州灘の中田島砂丘。115キロにわたって続く、砂浜の海岸線。そのほんの一部。この日も、「遠州のからっ風」が吹き荒れていて、浜で飲もうと持っていった麦酒も、飲むのがなかなか大変だった(結局飲んだのかよ)。

ダンボール箱の中の絵・3

2006年12月06日 | 近景から遠景へ
 
 ダンボール箱の中の絵として紹介した、ペンとマーカーの絵は、以前にも書いたように、二十歳から二十二歳くらいの頃の絵だ。ペンとマーカーを画材に選んだのは、携帯性に優れていたからだ。
 これらの絵は、家でも少しは描いたが、実は、主に出先で描いた。ちょっとした旅行などに、ポーチの中にスケッチブックとペンを入れて持ち歩き、暇を見つけて描いていた。せっかく出先で描くのだから、風景でも描けばいいのに、せっせとそんな変な絵ばかりを描いていたのだ。
 上の絵は、バリ島に出かけたときに、一週間ほど滞在したウブドゥの村で、現地の子供に描いてもらった絵の中の一枚。もう十五年以上前だから、この絵を描いてくれた子は、とっくに成人しているはずだ。
 バックパッカーだったから、村では民宿に泊まったのだが、そこの宿に子供達が出入りしていて、絵を描いていると、四人ほど集まってきた。それで、子供たちに紙とマーカーを渡し、皆で絵を描こうと誘ったのだ。それで、描いた絵を貰って、代わりに、一色ずつ、好きな色のマーカーをあげた。
 小学校の中学年くらいの子供達だったが、皆、結構絵が達者だった。

SF小説

2006年11月29日 | 近景から遠景へ
 
 上の写真は、先月横浜に行った時のもので、横浜大桟橋からベイブリッジを望んでいる。赤い球体は、月。美しい満月だった。

 最近、立て続けに二つ、「現実はSF小説を超えた」という記述を読んだ。そのうちの一つは、雑誌「Ku:nel」に掲載されていた、佐野洋子さんのエッセイだ。
 このエッセイを読みながら、僕はどうしても納得がゆかなかった。
 著者は、現実はかつてのSFで描かれた未来をはるかに超えて、悲惨な方に向かっていると言いたいのだろう。月に人が行くなんて言語道断だ。月は眺めるものだ。人はわきまえて、このあたりで踏みとどまるべきだと。
 だけど、それは全く間違っていると僕は思う。
 現実がSF小説よりも先に進んだことなど一度もない。現実がSFを超えたという人たちの頭の中には、未だに鉄腕アトムやスーパージェッターが飛び交っているのだろう。きちんとしたSF小説というものは、その時点の科学を踏まえた文学だから、現実より遅れるなどということは、ありえない。
 また、文明が進む事をやめてここで踏みとどまることは、我々の子孫に対して、余りにも無責任だと僕は思う。今の状況は、放置しておくと、壊滅的な状態になるのは確実だ。なんとか食い止めなければならないのだ。そして、ただ食い止めるだけではなく、その先のことも、さらに考えなければならない。科学がここで停止してしまって、どうやってそれができるだろう?
 それに、例え今それが一時的にできたとして、地球に有機物が生きて行ける年数には、確実にタイムリミットがある。東大の松井孝典教授によると、人間の環境破壊とは関係なく、あと五億年もしたら、地球上には普通の光合成生物が生存できなくなるという。人間ほど複雑な生物が、それだけ持つはずもない。残された未来は、それほど長くない。勿論、苦しみながら絶滅して行くのは自分たちではなく、はるか未来の子孫である。だからといって、優雅に自分たちが月を眺めて風流を楽しんでいればいいのか?
 佐野さんのエッセイで、彼女が言いたい事はもちろん心情としてはとてもよく理解できる。多分、やたらと核兵器を作ろうとする国や、洗濯物を干すのさえ嫌がってランドリーを使う国などが念頭にあるのだろう。だけど、本当に大事なのは、科学を否定することではなく、それらをきちんと運用するモラルや道徳を育てることのはずだ。
 普段は、人の書いたものにここまで突っかかることもないのだけれど、これだけ影響力の強いひとのエッセイの中に、「あんなSFの世界にならないうちに死にたい」なんて文章が出てきたのが、ちょっと嫌で、長々と描きました。

ドッジボール

2006年08月18日 | 近景から遠景へ
 先日、「ドッジボール」というアメリカのコメディ映画を見た。
 下らないだろうなあと思いながら、新聞の紹介記事がどうしても気になって見たのだけれど、これが予想を大きく上回るつまらなさで、軽く頭に来た。まあ、アメリカのコメディ映画で面白かったためしはないし、「下らないだろうなあ」と思って見たわけだから、最初から分かっていたことなわけで、文句を言うのも筋違いなのだろうけれども。

リーグ・オブ・レジェンド

2006年03月07日 | 近景から遠景へ
 「ソロモン王の洞窟」
 H.ライダー.ハガード著
 創元推理文庫

 を読んだ。

 実は、このものすごく有名な本を読むのは初めて。
 ファンタジー小説を語る上で、基本中の基本の本なのは分かっているが、僕は余りヒロイックファンタジーやスペースオペラを好まないので、つい今まで読まないで来てしまっていた。これまで読んだ事のあるシリーズもののヒロイックファンタジーなんて、もしかしたらムアコックの「エターナル・チャンピオン」のシリーズくらいかもしれない。恥ずかしい限り。もともとそれほどの読書家でもないので、僕にはこうした取りこぼしは結構ある。それでも、ちょっとホジスンのナイトランドについて書こうとすると、やはり読んでおかないわけには行かない。そう思って、重い腰をあげて、読んだ訳である。
 小説は、主人公ら白人の高慢さは鼻につくし、現代性はさすがにないけれども、飽きさせないのは確か。というより、この程度の内容の映画なら、今でもハリウッドで作られているような気がした。ハリウッドの娯楽作品のレベルは、いつまで経ってもこの程度だという意味である。言い方を変えれば、ハガードのこの作品はそれだけ完成度の高い娯楽作品であるということだ。ジェットコースターのような展開に、当時の人々が熱狂したのも頷ける。
 
 さて、この「ソロモン王の洞窟」などで主人公を務めているアラン・クォーターメンが、やはり主役として活躍する映画が2003年に公開された。タイトルは「リーグ・オブ・レジェンド」。多少話題にもなった映画なので、知っている方も多いはず。架空のスーパースターたちが、夢の競演を果たす映画である。
 登場するのは、先のアランのほかに、ネモ船長、ジキル博士、トム・ソーヤ、ドリアン・グレイ、「透明人間」、などである。
 実は、ここまで話をしていながら、僕はこの映画を見ていない。観ていないというのは正確な表現ではなく、最初の一時間ほどを観て、あとは観ていないというのが正しいのだが、ともかく最後までは観ていない。面白くなかったというわけでもないのだが、用事が出来て観るのを中断したまま、今に至っているのだ。とはいえ、改めてもう一度借りてこようと思わないのは、さほど面白いと思わなかったからか。
 この映画のあとには、同じような趣旨の「ヴァン・ヘルシング」という映画も作られたようだが、こちらも未見。
 それで、ちょっと思ったのだが、日本で同じような作品を作るなら、誰が登場人物に相応しいだろう。
 鞍馬天狗は決まりだろう。黄金バッドも、紙芝居代表で決まりかもしれない。怪人二十面相も入るに違いない。しかし、あとは?宮沢賢治からも一人出したい。とすれば、「銀河鉄道の夜」から、最終稿からは削られてしまったけれども、ブルカニロ博士か、それとも「風の又三郎」だろうが、ここははやり又三郎ということになるだろうか?
 他には、僕にはすぐには思いつかないのだが、誰か有力な候補はいないだろうか?

アイスノン

2006年02月07日 | 近景から遠景へ
 娘が風邪をひいて、学校から早退したらしい。
 時期が時期だけに、インフルエンザかとも思ったが、医者に見せたところ、今のところその兆候はないという。まだはっきりとしたことはいえないが、多分ただの風邪だろうというのが医者の見立て。明日まで様子を見て、高熱を出すようならまた来てくれとのこと。
 
 最近は、熱の時に額に貼る「熱さまシート」というものがあるから、昔のように濡れタオルで頭を冷やすということもなくなったが、かつては濡れタオルとアイスノンが定番だった。
 アイスノン。
 アイスノンも、随分と変わった。僕がまだ幼かったころは、アイスノンといえばカチカチに凍った緑色の枕で、何十にもタオルで包んで使っていた。今でもまだ固いアイスノンは売っているが、やはり主流は柔らかいアイスノンだろう。
 子供の頃、熱を出すと必ずアイスノンを用意された。子供の頃は簡単に39度以上の熱を出していたので、頭を冷やすことが必須だったのだ。だが、子供にとってアイスノンの固さは不快でしかなかった。だから、アイスノンで枕を冷やし、それからアイスノンを脇にのけて、冷たくなった枕の冷気を楽しんだりしていた。そしてアイスノンが適度に柔らかくなったら、ようやく枕の替わりにして使っていた。アイスノンに、頬や、熱を帯びた瞳を押し当てたりしていた。その冷たい匂いが、心地よかった。瞼をアイスノンに押し当てて、自分を取り巻いている音を聞いていた。そんなことを思い出す。学校を休んだ午後などは、障子に映る木の影などを見ながら、あるいは天井の木目を見ながら、何となく寂しくなったことを思い出す。遠くから、チャイムの音などが聞こえてくると、何ともいえない気持ちになった。あらゆることから、自分が滑り落ちてしまっているような気がしたのだ。

 隣の部屋では、額に熱さまシートを当てて娘が眠っている。冬なので、アイスノンまではしていないが、実は僕はさっき気になって、アイスノンがちゃんと冷えているか、冷蔵庫を確認した。

 今、どんな夢をみて、何を思っているのだろう?

Aunt Sally

2006年01月26日 | 近景から遠景へ
 Phewというアーティストを知っているだろうか。
 80年代初頭のアーティストという印象があるが、山本精一らと現在でも細々と活動を続けているようだから、現役のアーティストではある。だが、一時は完全にシーンから遠ざかっていて、半ば伝説のボーカリストとなっていた。
 伝説と化したのは、ソロのファーストシングル「終曲」が阪本龍一のプロデュースだったことや、ファーストソロアルバム「Phew」のバックミュージシャンが、ドイツのテクノグループ「CAN」だったりしたことなどが大きいかもしれない。そのどこにも行き着かない歌詞と、投げやりとも取れるボーカルは、確かに印象的だった。
 そのPhewの母体となったのが、Phewをボーカルとするバンド「Aunt Sally」である。アルバムが一枚あるが、限定500枚ということで、希少価値があり、なかなか耳にすることは出来なかった。
 僕がこのアルバムを初めて聞いたのは、発売から10年以上経った1990年頃。たまたま知り合った人がこのアルバムからダビングしたカセットを持っていたからで、随分感激したことを覚えている。内容が良かったからではなく、一度聞いてみたいと思っていたアルバムを聞けたからだ。

 Phewのライブには、これまでに何度も足を運んだ。
 90年代の半ばに、沈黙を破ってから数度。
 それでも、最後に見たのはもう数年前だ。
 
 一度だけ、少し話をしたことがある。
 もうかなり前のこと。ライブの打ち上げでの場だった。
 そのときは、手塚真さんなどもいたのだが、僕にはPhewの存在感のほうが大きくて、少しだけ話をするのがやっとだった。結局、大した話もできなかったのを、懐かしく思い出す。