つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

八百万の神々

2017-02-18 | Weblog
人類は、今もって知的生命体に管理されている。
世界中で報告される未確認飛行物体。
にもかかわらず、未だに宇宙には地球外生命体がいるのだろうか?と、
真顔で語る人がいる。ロシアの隕石落下事件にしても、
人類の科学技術では全く対処できないのに、
最小の被害で抑えられたのは、対知的生命体同士の関与があってのことである。
この地球は、人類以外の知的生命体が支配していて、
そのための地球保護である。
数種の知的生命体が関与し、進化の差があり階級的に優劣を持っている。
人類からすれば、どちらも神に匹敵するもので、
八百万の神々とされ崇められている。
人類と同じように、上級に位置するエネルギーと下級に位置するエネルギーとあり、
その両方に善悪を持ち、やはり、九品九生となっている。
人類は、神々の支配下に置かれて、神々の対立に左右されている。

エネルギーの法則は自由から成り立っている。
森羅万象、この自由から作られているために、
何人たれこの自由を動かすことはできないものとなっている。
そのために、神々と呼ばれる生命体にしても、この自由を尊重し、
不自由とすることはできない。もし、他に不自由を与えれば、
与えた側が存在外となってしまう。
そのために、自業自得とさせるための仕組みを構築し、
巧みに自由を操る。その能力は優れたものである。
知的生命体である為に、その進化の度合いは素晴らしい。
そうして、進化の途上にあるものを支配下に置き、
神々の為に役立つように操作するのである。
しかしながら、相対であるための宇宙であるために、
対立しつつも、エネルギーの法則の道理を自由に求める。
そこに、善悪の無いものであるための自由の絶対善の動きであることを、
各生命エネルギーが選択する。
これが二つに一つの世界、まったく別々の世界である。
この世の中にある様な曖昧性は無い。三つ巴はないエネルギーである。
それが、悪の神々のエネルギー世界と、善の神々のエネルギー世界である。
どちらの世界エネルギーも、絶対善となっての存在である。

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観自在菩薩

2017-02-18 | Weblog
般若心経を正しく訳した人は、私が知っている限りではただ一人。
やはり、素朴に徹していて、優しい眼差しである。
先見の明にて、ただ献身的である。

正直な眼光の前では、偽りは脆いものである。
青く澄み切った幼子の瞳の中には、やはり、
きれいに澄み切った景色が映る。
ありのままをありのままに映し出す心模様に、
どうして逆らうことができましょう。
世の中には、「その人の前では、どうしても嘘をつくことができない」、という不思議な人がいるものだ。
彼らは当然ごく少数にて、一粒万倍の広がりを持ち選択を見抜く。
彼は、「舎利子よ」と呼びかけはしなかった。
「舎利子」は、ただ世の中の様相を語り、その仕組みを説明していった。
語り終えて舎利子は、夢から目が覚めた。


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信じるものの徳

2017-02-16 | Weblog
釈迦は梵天に対して、悟りの内容を話したところで、
到底理解されないことであると答えた。
梵天は、話したことによって、理解することができるものもいる。
話されなければ、理解できたものも理解することが無いままとなる。
だから、何とか話してもらいたい、と。
そうして、まんべんなく悟りの内容を説き聞かせた。
すると、聴くものと聞いたものとが現れ、
聴くものはごくごく少数にして、聞いたものは多数であった。
聴いたものは同じく釈迦の道をたどり、聞いたものは今まで通りであった。
独覚であれ声聞であれ、聴く耳を持つものは、良し悪しを見分けられ、
吾を知ることができた。
信じるものは、終には救われることとなるものである。
「終には」である。
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半眼思惟にして・

2017-02-15 | Weblog
現代の目で事物を見るのではなく、少し進んだ時の目で事物を見れば、
その映像は円形が基準となってくる。
それは、円いという形そのものの固定的観念ではなく、
永続的なものという滑らかさである質というもの。
滞ることのない容、平坦さを表すもので、切れ目のない事物映像である。
少し先を行く眼差しというものは、現代をレトロな映像として映し、
ブリキ作りの事物として見ることができる。
今という時をセピア色に染めるのである。
想像を巡らし、
光を纏い操った事物は、まさに平坦で境を持たないものである。
前後左右を持たずに滑らかにあり、どことなく出入りが開かれるものである。
今にしてただ斬新さを持ち、未来にして衰えることもなく、一歩も二歩も先に
続いていくものである。
常に、瞬時闇を破り、闇に隠れるものである。
今にして、スキはあれども見出すことはなく、
時の先を行くものである。
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万物の創造主、エネルギーの法則の自由

2017-02-14 | Weblog
人類が神と呼んでいるのは単に知的生命体である。
それも外宇宙からやってくる生命体と、この太陽系からやってくる生命体と入り乱れてある。
彼らは共に宇宙の法則を理解していて、自分達より下等で野蛮なるものには、関わりは持たないようにしている。
宇宙が自由エネルギーから成り立っているために、その自由にまかせて、
強引な介在というのはできないようになっている。もし、仮にその自由を侵して、救いの手(介入)を差し伸べたとしたら、
差し伸べた生命体自体が存在を失ってしまう。エネルギーの法則から弾かれるためである。
エネルギーの法則というのは善悪というのが無く、そのための善の動きとなっているために、
その動きに沿っていなければ、存在から外れてしまうのである。その動きがただ廻るという動きである。
その動力がエネルギーの自由である。如何なる存在もエネルギーの法則によるエネルギーの下の存在である。
その存在の根本性質自由は無上なものである為に、如何なる力もその自由を侵すことができない。
人類の自らの行為は、自らの力でしか変えることはできない。他は、訓え諭すことはできても、
つまり、気づきを与えることはできても、他力によって変えることはできないものとなっている。
仮にもし、他力によって変えたとしたら、法則のエネルギーから外れることとなり、他力自体存在とならなくなってしまうのである。
なぜなら、エネルギーの法則の自由は、如何なる力によっても動かすことができないためである。
それは、宇宙の存在全てが、エネルギーの法則の下の存在であるためである。


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思い違い

2017-02-13 | Weblog
人間社会というものは、
煩悩具足にして地獄の様相を呈している。
しかしながら、私たちは、この社会が地獄となっていることに気が付かない。
こういうものであるという事に同化しているためである。
苦しみから楽が生まれるものであると信じているから。
また、楽から苦が生まれていくものと信じているために、常に
苦しんでいることで幸せと思い込み、地獄となっていることに
疑問を抱かない。
幸せの為に苦しんで当たり前と思っている。

幸せは苦から生まれるのでもない。
苦も幸せから生まれるのでもない。

幸せも不幸せも、どちらも求めずして思いは叶えられる。

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生かされている

2017-02-12 | Weblog
私たちは、もうじき空から現れる
巨大な船を見るだろう。それは強大でもある。
黒くて鋭利なイメージでみつめるものである。それは、
飛来ということではなく、突然突如としての現れである。
あまりにもかけ離れた技術力であるために、
静観にして茫然。
これを見て知る人は、他力の偉大に無力を思う。
格段の違いは、
神の聖心にあらせられんことをただ思う。
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魂の真実の世界

2017-02-10 | Weblog
弱肉強食は人間も同じである。
だから、どこの国でも苦に満ちている。
いまでは、自死なんていうけれど、
哀しき自殺者への弔う言葉。
この世に生まれてきた以上、誰でも生きたいものであり、
それも、幸せにと思うものである。
死にたいなんて誰も思いたくはないのであるが、一度や二度、
或は、なんども
死んでしまいたいと思う人のなんと多いことか。
そんな世の中は、とても幸福とは言えないのではないか?
苦しくて当たり前と思う事が、そもそも誤っていること。
この世が地獄の世界となっていることに、
誰しも気が付かないでいるほど、洗脳されているのである。

天国というところには、不安という気持ちなど無いもので、
楽しいことばかりだから天国といわれるのである。
恐怖のない世界である。
生命エネルギーは、この対極の世界との二つに一つ、
どちらに住むか決めるのが、現世の行いにかかる。
現世は曖昧なる世界である。
魂の真実の世界に、
曖昧は無い世界となっている。
肝に銘じて現世を生きることである。
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無常の常住

2017-02-09 | Weblog
明日が来ない日というのは無い。
過去にも現在にも未来にもそれは変わらない。
過去がそうであったように、未来も同じである。
来る日も来る日も、同じことを繰り返すのである。
私達はただその中で、一時ありやなしやと生きるものである。
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善い人に出会うこと

2017-02-08 | Weblog
とにかくよい人に出逢う事が一番。
慈悲深い人に出逢う事が一番。
優しいというのは善いことである。
だから、優れるとも読まれる。
何ものにも優ることである。
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