つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

神々の戦い

2017-02-26 | Weblog
お金で支配された世界であるために、お金のあるなしで物事の進み具合が計られる。
命が大事、命が一番、命あっての云々、命は地球よりも重いと語られ、
それほど大切な命であっても、難病にかかり助けられるのは、先ず先立つものがなければ、
助けられないとなっている。
矛盾が人間にはわからないようだ。
他の惑星にいる知的生命体たちには金融制度というものは無い。
お金でどうのこうのという損得など全くなく生きている。
そのために、進化が早く、そして、同種互いにいがみ合うという事を持たない。
人間という地球にいるまだ下等に部類する生命体だけは、損得勘定を持ち、
そのための進化が牛歩の進み具合である。お金が絡むために、
そのお金が誰が持つのかなどという事に意識がいくために、真っ先にしなければならないことが、
なかなかできずにいる。それ故、進化は遅く苦に満ちて、互いに互いのものを奪い合いながら生きている。
口では正しいことを言うのだが、行う事が損得にあり、ちぐはぐとなっている。
行動が正しく伴わない野蛮な種族となって、他の知的生命体から関わりあいたくないものとなっている。
しかしながら、核エネルギーを持ち始めたころから、
他の知的生命体も黙ってはいられなくなった。
誤った方法で使われては他に害を及ぼすものとなるために、監視するようになってきた。
それと同時に、悪いものには悪いものが集まり、良いものには良いものが集まるという道理にして、
野蛮で無知な人間にそれとなく好戦を好む悪の神々が寄り付き、巧みに操るようになる。
さて、それを察知して善神たちが阻止し始める。
それがこれから起こる天空の戦いである。人類には計り知れないことである為に、
ただ修羅の中に紛れて、魂の良し悪しで天国と地獄に選り分けられる。
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導き

2017-02-26 | Weblog
釈迦の誕生にしても、キリストの誕生にしても、
人間ではありえない出産の仕方である。
それは、釈迦もキリストも人間ではない人型知的生命体であるためである。
ハイブリットと言われる種である。彼らは地球外より来た生命体で、宇宙の道理を
知っていて、正義と悪を訓えている。とても大きな体格であり、
優れた能力を有している。
天女、明王、菩薩、如来など、怖ろしい姿形、慈悲の姿をしていて、神々と呼ばれる。
我が身をもって道理を示して、無常の常住であるエネルギーの法則を示し、
様々な方便でもって地球人の在り方を説き訓えたものであるが、
聴く耳を持つものと持たないものとの仕方なさゆえに、
万人救済という方便には至っていない。
道理は、助けるものを助けるという事の気づきにある。
諭しても、行うのは各自にあり、自業自得となっている。
この自由を如何なる力も侵すことはできないために、
強制的に救い取るという術はできない。
導き以外に方便は無い。
釈迦もキリストもこの時間線上の地上の未来を見ている。
末法を知り滅法を見ているために、
釈迦もキリストも人類の滅亡を予言し、この予言がエネルギーの
法則の予言となるために、絶対となることを知っている。
その故、56億7千万年後という人類には途方も無い時間を経て、弥勒という神、
知的生命体が‘求める者を救う’ことになる。「求めよ、さらば与えられん!」である。
どんなに長い時間と思っても、魂、いわゆる生命エネルギーには死が無い為に、
必ずや遭遇する事態である。宇宙の時の流れから見れば瞬時と変わりはない出来事なのである。
この現代の素晴らしい科学進化も、全て滅亡への進化となっているものである。
一旦滅亡して、新たな地上の生命となって、
再び過つことのないエネルギーとなることの希望が
生命エネルギーは持っているのである。
一日が終わって新たな一日が始まるように、エネルギーの法則のサイクルである。
全てが環状体状エネルギーの物語である。


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