つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

つながる

2012-06-16 | Weblog
そのものが、場合によってはあまりにも危険なものであることを知る。
その上で、そのものをまだ完全に把握できていないとするならば、
そのものを操ってはいけない。
通常の状態で恩恵を与えるものであるが、扱いを誤ったり、不測の事態に陥ったとき、
ひとたび暴れだしてしまえば、どうすることもできないほど野蛮なものである。
多くのものを恐怖という思いを持たせて死滅させてしまう。
それを抑えることのできないでいる時間の中では、決して穏やかなる時の恩恵を受けてはならない。
恩恵を受ければ、その三倍災いも受ける。如何に注意をしていても、その不測の事態を避けることはできない。
裏腹なものであるのがこの世の道理である。どちらか一方だけということはありえないのがこの世である。
まして、暴れだしたときのなだめる力がまだ無いときには尚更である。
一度痛い目にあっていれば、尚更のこと、学習するものであるが、
のどもと過ぎれば熱さ忘れるのも人である。そのために、更なる悲劇が必然となる。
無知を行う自業自得である。知りつつも、今の便利が忘れられなくてと・・・不便が被る。

人は、欲望が果てしなく、楽をすればするほどに高じていく。
便利に慣れれば慣れるほど更に求め、便利は不便になることを愚者は知らない。
便利になればなるほど、人は衰退してしまう。退化していき、心だけが貪欲になる。
情の無い悪の玉となっていく。自己中的思いとなって、結果、自分を害う。不便が高じてしまうのである。
自分の心を制御して、便利過ぎることなくして不便を解消していれば、便利が故の不便が無くなっていく。
自然を見て、楽から得られる快楽は、害を持って現れることを知り、
して、苦しみから感じる喜びは、人を育て、耐え難い苦を避ける。
「足るを知る」を覚える。
親がいるから親に甘えるのではなく、親がいるから甘えないでいる心が、よい甘えとなる。
それでも、ふつつかであるから、甘えているものであるのだから。
親がいるからとして甘えれば、後に耐え難い苦を味わう。親の七光りは、その子に
苦を後々受けさせることとなる。逃れることはありえない。さて、それは忘れたころに!
努力というのがなぜこの世にあるのであろうか、そんなことを知りましょう。
努力の甲斐も無いというのは目先のまなこ、無いことはありえない。

便利は不便となり、不便は便利を作る。
楽は苦となり、苦は楽となる。
始まりは終わりにつながり、終わりは始まりともなる。
後は先であり、先は後でもある。
朝は夜になり、夜は朝につながる。
円である。

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