つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

知足

2012-01-05 | Weblog
シンプルこそ美である。
如来に飾りはない。
まことの美しさは
質素なるものから放たれる。
まことがなければ、
艶やかに彩り、まやかすだけである。
まやかされて後、つくづく悔やまされる人生である。
吾唯知足。
チャラチャラと飾り付けてはならない。
飾り付けるものは、
惑わして惑わされて、ただ流転を生きる。
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同化

2012-01-04 | Weblog
地球の自転速度は、おおよそ時速1700㌔、驚くほどの速さで回転している。
私達が目を回さないのは、同化している為である。一緒に回っているために静止状態にある。
その回転に気がつかなくなってしまう。

内の中に入ってしまえば、「変」に気づかなくなってしまい、異常な状態も異常とは思わなくなってしまう。
‘どうかしてるよ奴は’と外の人から言われてわかる。そのとき、はっと気がついて、あらゆる今ある識を消して、
自然に思う。
自然はどうかと。
ただ回り、ただ繰り返す。それが狂いなくであるために、絶対となり正しいとなることを知る。
そこに、よいとかわるいとかはなく、たえず反復されることが正義となることを思う。

終わりなく確実な動きは、回ることでしか為しえない変化。その変化は常に戻るというゼロの動き。そのために、
あらゆるものの浄化の動き、浄化への変化、浄化の進化、そのかたちとなっている。
かたちあるものは、一連の混沌(醜さ)をたどり、整然(きれい)になっていく。
善いも悪いもないために、絶対善となっている。
これがこの世の正しい浄化である。

若いときは無知であり、そのために角が立ち、若気の至りで過ち生きる。
年老いて、賢く年老いて、角も取れて円くなる。整然の容となって敬われていく。
ただ年老いて、未だ刺々しく角があり、尊敬に値しなくなる。

一連の混沌さは努力であり苦しみである。それを経て調われ、端正となって敬われる。

誤りの浄化となれば、善悪顛倒、すべからく悪となり、苦があたりまえとなって、
苦が苦であることさえ気が付かなくなっていく。
今の世である。
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自由

2012-01-02 | Weblog
ただなんとなくというしきたりで、
毎年のことだからという行事で、
これといった意味も無く、
これという意味も知らずに物事を為しても、
なんら利益となることは無く、気休めということにもならない。

意味のあることと勝手に思い込むことの勝手を、
正しく使えて自由という。そうでなければ、勝手にはいかない。自由にはならない。

念じることと信じることの差には、振り回されることと動じないこととに分かれる。
‘あなたを信じていたのに’ということには勝手な念いがある。そのためにまことができずに、
その念いに振り回されて、逸脱した行為となってしまう。人が変わったようにとげが出る。
‘あなたを思っているから’ということには勝手にまことがある。
まことがあるものにはふりまわされることはない。信じている為である。どんなことがあっても動じることが無く、
逸脱してしまうことは無い。乱されることがないのである。それは、すべてを受け入れている為である。
勝手に念じずに、まことに信じることにシフトしていくこと。
それが、心念となっていく。その力が悪の浄化となっていく。心念の力は、浄化されたものが現れてくるために、
あらゆる災いが無害となってくる。「念彼観音力」=‘彼の観音となった心念の力’である。

自由というものは、どうして?なぜ?ということのこたえである。
自分がここにこうしているのも、自由でもって いる。
どうしてそんな性格なの?
それも自由である。
質も仕組みも自由でもってなっているのである。
自由勝手である。その自由を知らなければ勝手にはいかない。
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