慢と疑の相応についての説明が已り、次いで、慢と五見の相応について説明されます。
「慢は五見と皆倶起す容し、行相展転(ギョウソウチンデン)して相違せざるが故に。」(『論』第六・十七左)
慢は五見とすべて相応する。何故ならば、行相(見分の働き)が展転して相違しないからである。
- 展転 - 本科段では、相互に関係し合うこと(同時相依相互的ありよう)、という意味で用いられています。
- 行相 - (ⅰ) 行相とは境である。 (ⅱ) 行は能縁(見分)の用、相は所縁(相分)の境相である。 (ⅲ) 行は行解、相は影像である。
- 行相所縁 - この場合は、行相は認識する主体的な側 面であり、見分を指し、所縁は認識される客体的な側面であって相分を指す。
慢と五見がすべて相応するのは、慢と五見の見分の働きは相違しないからであると説明しているわけです。慢の働きと、五見の働きは同じであるということになりますが、必ずしもということにもなります。このことは次科段において、慢と断見は相応しない、或は慢は薩迦耶見と邪見の一分ともまた相応しないと説かれていることから、慢と五見はすべて相応するとは断言できないということになります。
本科段は『述記』によれば「総じて慢は見と皆倶起すべきことを明かす」(明慢與見皆容倶起)と釈され、総論として述べられているとしています。意味するところは、「皆容」が倶起と不倶起が不定であることを表していると解釈されています。
「論。慢與五見至不相違故 述曰。此總明慢與見皆容倶起。行相倶高縁順境起。不相違故。三處論皆同。總説見故。」(『述記』第六末・三十六左。大正43・451a)
(「述して曰く。此は総じて慢は見と皆倶起すべきことを明かす。行相倶に高にして、順の境を縁じて起こり、相違せざるが故に。三処の論皆同なり。総じて見を説くが故に。」)
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