唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の五 倶起分別門 (14) 護法正義 ④

2014-01-21 21:15:34 | 第三能変 善・ 第三の五 倶起分別門

 善の心所は一切地に有りということの、一切地の地は何を指しているのかを説明し、欲界には軽安は存在しないことを証明する。

 「一切地に十一有りと説けるは、有尋伺等(ウジンシトウ)の三地(サンジ)に通じて皆有るが故なり。」(『論』第六・十一左)

 「論。説一切地至三地皆有故 述曰。此等皆通有尋伺等三地。有何失也。初禪・中間・上地之定有輕安故。但諸心所無不皆然。然自於有尋伺等有長短也。然返覆文理。不言欲界有定得有輕安故。後師爲勝。此中餘義同故。更無異説。」(『述記』第六本下・四十三右。大正43・442c) 

 (「述して曰く。此れ等は皆な有尋伺等の三地に通じてあり。何の失有るなり。初禅(ショゼン)と中間(チュウゲン)と上地(ジョウチ)との定に軽安有るが故に。

  •  初禅 - 初静慮ともいう。色界の四つの静慮の最初。尋求(浅くおおまかに追及する心)と、伺察(深く細やかに追及する心)がある。
  •  中間 - 初静慮の根本定と第二静慮の近分定との中間にある禅定。無尋有伺地を指す。
  •  上地 - 第二禅以上。無尋無伺地を指す。
  •  有尋有伺地(ウジンウシジ) - 欲界と初禅の二つの地をいう。
  •  三地は、有尋有伺地・無尋有伺地・無尋無伺地を指す。

 但だ諸の心所は皆然らずと云うこと無し。然るに自ら有尋伺等に於て長短有るなり。然るに文理を返覆すること欲界に定有り、軽安有ることを得と言わざるが故に。後師を勝と為す。此の中余義同なるが故に、更に異説無し。」)

 「然るに自ら有尋伺等に於て長短有るなり」を『演秘』(第五本・三十右)は釈して、「三地に遍じて有るを之を名づけて長と為す、三地に有りと雖も、遍者(遍有)に非ざるが故に説いて短と為す。即ち軽安は初の尋伺地にして遍有にあらざるが故に名づけて短と為すが如し。」

 「後師を勝と為す」という義は、十一の善の心所は、一切地に遍ずと云われているが、この場合に二説あり、一つは三界九地を指し、二つには、有尋等の三地と為すという二解があるが、善の心所の中の軽安は、欲界に遍ぜないから、後説である有尋等の三地を以て勝と為す、ということになります。

 意味としては、『瑜伽論』巻第三に述べられている一切地の地とは、三界九地の地ではなく、有尋有伺地・無尋有伺地・無尋無伺地の三地の地を指すと述べているのである、と。この場合、有尋有伺地は、欲界のすべてと、色界初禅を指す為に、色界初禅は定地になる為に、有尋有伺地に含まれる欲界にも軽安は存在しえるといえるので、『瑜伽論』巻第三の記述の「一切地に存在する」と述べられているのと、護法が主張する、軽安は定にのみ存在し、欲界には軽安は存在しないというのは矛盾しないとといえるのである、と。


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