唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (5)

2015-03-19 23:27:12 | 初能変 第二 所縁行相門

   お彼岸が過ぎると、いよいよ桜前線北上ですね。そして4月8日は降誕会(灌仏会)です。
 『仏説無量寿経』に「遊歩十方、行權方便、入佛法藏、究竟彼岸、於無量世界、現成等覺。處兜率天、弘宣正法、捨彼天宮、降神母胎。從右脇生、現行七歩。光明顯曜、普照十方 無量佛土。六種振動。擧聲自稱。吾當於世、爲無上尊。」と説かれています。

 
 不可知の言は、阿頼耶識の所縁・行相ともに正しく知り得ることが出来ないと教えているのでしょうね。私たちは、自分の事も、他人の事も、世界の事も知っているつもりでいますが、本当の所は何一つわかっていないのですね。判っているのは、自我意識で捉えた範囲でしかないということなのです。
 このことは、昨日の彼岸会法要で教えていただいたことなのですが、私たちは、見える世界でしか信用していないのですね。見えない世界は疑いなのです。そのことを少し昨日のFBに投稿しました。再録させていただきますと、「
 
 「「生きてる間は、自分と自分の心との戦いですね」というメッセージをいただきました。
 もうちょっと具体的にいうと、意識された自分と、無意識の自分との葛藤であろうと思います。
 意識された自分は、意識が起ってくる背景を閉ざして、私の価値判断に於いて善悪を取り決めています。自分にとって利益のあることは善、不利益をもたらすものは悪(不善)という構図です。
 では意識は偶発的に起こってくるのでしょうか。意識が起こるには起こるだけの理由があるのですね。
 見える世界(意識された領域)は、見えない世界(無意識の領域)に支えられているということなのです。
 大雑把に苦悩と云いますが、苦悩を厳密に分析しますと、根本煩悩と、大・中・小の随煩悩によって意識上に現れてきます。煩悩は自我意識という、無意識の中の自己に執われる心に裏打ちされた形で、表面上に現れてくるのですね。
 それとですね、自己に執われる心は、自己に執われない心を覆うような形で表面化してくるのです。そこのギャップが煩悩を生み出してくる元凶なんですね。
 「何故」という、問いの大切さは、煩悩は何故起こってくるのかということなのでしょうね。意識の上では、意識の価値基準というか、価値判断で、ここをこうすればよくなる、或は、意識改革をしましょうということになるのです。しかし、意識は改革できない構造なんです。意識は意識自身が単独で起ってくることは無いからですね。
 意識は本来の自分に逆らった形で表面化しているといっても過言ではないと思います。そして、本来の自分は無意識の領域の中で働き続けている根本識なのでしょう。
 「心性本浄」(心が性は本より浄なれども)という、表面化された意識の世界は、いつでも、無意識の世界から問いかかられてあるということなんですね。
 真宗的に表現するなら、無意識からの問いかけを、無量寿というのではないでしょうかね。他の表現でしたら、脚下照顧ということになりましょうか。
 意識の底に、無意識の領域があるというような単純なことではなく、自分で自分の背中を見るような隔たりがあるのですね、絶望的な、不可能であるといわなければならないほど、遠い距離感があるのです。
 ここにですね、聞法が大きな橋渡しをしてくださるのですね。聞法に依って、横ざまに超えることが出来る、そして、自己は自己に反逆しながら生きていることに気づきをえるのでしょう。そこに多聞熏習の意義がおぼろげながら理解できるようになるのではないかと思うのです。
 戦いは、無意識の世界からの呼び声でありますから、無意識の世界に応答する形で、手が合わさってくるのでしょう。
 反逆する自己に目覚めた時、大いなる世界に抱かれている自分に頭が下がってくるのではないでしょうか。」
 
 というものですが、深いこころの世界は、「極めて微細」であり、器世間と云う、私を取り巻く環境も、「量測り難し」という、そういう中で私たちは生きているということだと思います。ですから「無始以来」とか「曠劫以来」という言は不可知なんですね。私たちは、何一つ知り得ることはなく、何一つわかっていないということですね。
 龍樹菩薩が『易行品』に「發願して佛道を求むるは三千大千世界を擧ぐるよりも重し」(真聖全p254)と、私たちに、仏道の成じ難きことを教えていただいています。先日も紹介させていただいた、道元禅師の「自己を忘るるなり」という単純明快な言もですね、無意識の世界から発信されてくることを聞き応答することによって、感応道交するわけですが、これを聞き得ないと云う自我意識の深さですね。本当は、自我意識の深さを聞くのでしょうね。どこまでいっても、自我意識でしか捉えることが出来ない自分であった、という頷きだと思います。聞法の大切なところでしょうね。法を聞く、法によって照らし出された所の自分を聞くのですね。そこに転ずる世界がある。自我意識を写し出してくる作用が阿頼耶識の疼きだと思うんですがね。此処が聞けないですよね。でもね、聞けなくても、働きは廻向されているんですね。苦悩と云う形でですね。要するに、法が廻向されていることは、自我意識は恒に無意識(阿頼耶識)によって支えられているということでしょう。それを表層の意識を自とするなら、無意識の領域を他と表現する。執受と処の関係と同じですね。「識体転じて二分に似る」というところの、相分という所縁の内外と同意義だと思います。
 無意識の領域を他とし、その働きは「勢力強盛」(セリキゴウジョウ)である。「無漏の勢力が有漏を熏修す」と教えられていますように、阿頼耶識の力が繰り返し、繰り返し、暴流のように、表層意識にその影響を熏じつづけているわけですね。「己自身を知れ」とですね。それがですね、真如とか、第一義諦妙境界相とか勝義諦とかですね、いろいろな表現をもって伝えられているわけですが、それはね、浄土の働きと云っても過言ではないかなと思っています。浄土からの呼び声なんですね。
 浄土は、恒に、私と共に歩んでいる。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 感応道交(かんのうどうこう)について
 「衆生が、仏の教えに感ずるものがあった時、仏がこれに応えて近づき、衆生の道と仏の道が交わること。」と辞書に解説されています。
 (解説)
 ある人が、仏の教えを聞いたり読んだりして、この教えが大切で必要であると感じた時、仏がこの人の求めに応じて近づくことにより、 教えを求めている人の心と仏の心がつながる、ということのようです。凡夫が本気で仏教を必要とした時、仏がこれに答えて、よい方向へ向かわせて 利益を与えてくれる、ということかと思います。また、仏教を教える者である師と、その教えを受ける弟子との間に、心が通じ合うことでもあるようです。 この四字熟語は、仏教の曹洞宗(そうとうしゅう)という宗派のお経の本、修証義・第三章に書いてあることばです。
 (重要語の意味)
感=「かん」と読み、衆生が仏の教えを聞いてそれを必要なものと感ずること。 応=「おう」と読み、衆生の求めに応じて仏がこの求めにこたえること。 道=「どう」と読み、仏の道と凡夫の道。悟りを得るための修行の道。 交=「こう」と読み、交わる。いっしょになる。つながる。 衆生=「しゅじょう」と読み、人間と全ての生き物。仏が救おうとする全ての生き物。 仏=「ほとけ」と読み、悟りを得た者。悟りを得るため修行している者。 感ずる=「かんずる」と読み、①感動する。②心に思う。 応える=「こたえる」と読み、ある人の求めに返事をする。 凡夫=「ぼんぷ」と読み、仏の教えを聞いたことのない人。仏の教えを疑っている人。 本気=「ほんき」と読み、嘘偽りのない本当の気持ち。疑いのない気持ち。信じている気持ち。 通じ合う=「つうじあう」と読み、お互いがつながる。 修証義=「しゅしょうぎ」と読み、道元禅師(どうげんぜんじ)の書いた正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)より概要を 抜き出して集めた書物。五つの章より成る。正法眼蔵のダイジェスト版のようなもの。   (ことわざ学習室、より)

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 曽我量深師は、感応道交について
 「 憶念執持の中に往生があるのであつて、衆生が仏を憶念すれば仏また衆生を憶念する、
ここに憶念の感情において一如一体といふことが言へるのであります。それを開顕するの
が称名であり、それ(称名)がそのままに憶念であります。
 称名によつて如何に憶念するかと申しますれば、称名そのものが憶念の象徴なのである。
称名の上にも一つの憶念があるのではない。「称名即ち憶念、憶念即ち念仏、念仏則ち是
れ南無阿弥陀仏なり」(『文類聚鈔』)。
 念仏は純粋感情においては憶念執持の道、それを離れて象徴の世界はないのであります。
南無阿弥陀仏は象徴の世界であつて、南無阿弥陀仏において我と仏とは一体であります。
南無阿弥陀仏を称へるときに機法一体であり、我と仏とは感応道交する、即ち南無阿弥陀
仏は感応道交であります。・・・
 憶念とは欲生我国であります。だからして十八願の中に十八願を生み出すところの因が
ある。つまり十八願中に十八願があるのであつて、本願は二重の本願である。欲生我国が
本願を自証してゐるのでありまして、つまりそれは本願の二重構造であります。欲生の中
に欲生がある、欲生の中に欲生を生み出すところの欲生がある。本願を包む本願がある。
本願は限りなく本願を包み、内に欲生を孕む。欲生は本願の中にあつて本願を包む道理、
即ちそれが憶念執持の道理であつて、これ即ち感応道交・機法一体の南無阿弥陀仏の道理
であります。欲生我国は内にあるものが外にあるものを包む、それが摂取不捨の意味であ
ります。欲生といふは即ち是れ如来諸有の群生を招喚したまふの教命なりであるのであり
ます。」 と教えて下さっています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿