唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯識』入門 七月度テキスト (於 聞成坊)

2015-07-26 20:17:01 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 「有根身とは、謂く異熟識のが不共相の種を成熟せる力の故に色根と及び根依処とを変似す。即ち内の大種と及び所造の色となり。共相の種を成熟する力有るが故に。他身の処に於ても亦彼を変似す。爾らざれば他を受用する義無かる応し。」 色根 ― 機能。物を見るという働き。勝義根。不共中の不共。
 根依処 ― その働きが依り処とするところ。扶塵根。不共中の共。

 四大種 ― 地(堅い性質)・水(湿りけを持った性質)・火(暖かな性質)・風(動く性質)。堅湿暖動(けんじゅうなんどう)と云う。

阿頼耶識の対象(所縁)
 処
  器界は外の世界
 執受
  種子は経験 
  有根身は、阿頼耶識は深い私たちの心の底で、自分の身体を対象としている。対象と関わりながら生きている。
  
 「此の中に有義(安慧菩薩等の説)は、亦根をも変似す。弁中辺に自他身の五根に似て現ずと説くが故に。
  有義(護法菩薩等の正義)は、唯能く依処のみを変似す。他根は己に於て用る所に非ざるが故にと云う。自他身の五根に似て現ずと云はば、自他の識各自ら変ずる義を説くなり。故に他地に生るも或は般涅槃するも、彼の余れる尸骸猶見に相続せり。」
 
  尸(し)― しかばね
 
 身体を対象としているといいまうが、どこまでの範囲を対象とするのか?
 安慧菩薩等はすべて(根をも変似す)
 護法菩薩等は依処のみ

 ここまでは、業力所変の三つについて説かれてきましたが、、次に定力所変という問題がでてきます。

 「前来は且らく業力所変の外器と内身との界地の差別を説けり。若し定等の力による所変の器と身とは、界地自他に於て則ち決定せず。所変の身・器は多く恒に想像句せり。変ぜらるる声・光等は多分暫時なり。現遠の撃発するに随って起こるが故に。」

  業力 ― 善悪業としての果を対象としている。

 もう一つ、定力所変。定は專注不散(心一境性)
 教えに依って、己自身が未来に向かって切り拓いていく世界です。
 「ひとえに往生極楽の道を問う」というのが心一境性になりましょうね。

 定等についての慈恩大師の「等」の注釈
 借識・願力・通力・善威力を以て私たちの世界を変えていく。

 業力所変は決定
 定力所変は未決定

 「略して此の識所変の境を説かば、謂く有漏の種と十の有色処と及び堕法処所現の実色となり。」

  有色処 ― 五根(眼・耳・鼻・舌・身)と五境(色・声・香・味・触)
  堕法処所現の実色 ― 法処所摂色、或は堕法処所摂色のこと。是に五つ有る。極略色・極迥色・受所引色・定所生色・遍計所起色。

 「何が故に此の識は心と心所等とを変似して所縁と為ること能わ不るや。有漏の識の変に略して二種有り。一つには因縁の勢力に随って故に変ず。二つに分別の勢力に随って故に変ず。初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不らるが故に。須らく彼は実用あるを以て別に此従り生ずべし。無為等を変ずるも亦実用無くなんぬ。故に異熟識は心等を縁ぜず。無漏位に至るときは勝慧と相応す。分別無しと雖も而も澄淨なるが故に。設ひ実用無とも亦彼の影を現ず。爾ら不れば諸仏は遍智に非ざるべし。故に有漏位の此の異熟識は、但し器と身と及び有漏種とのみを縁ず。」
 
  第八阿頼耶識は心王・心所を自分の対象としないのか?
  阿頼耶識の所縁、対象は三つ、種・根・器ですから、何故心を対象としないのかという問いです。
  心は何故見えないのかという問いでもあります。
 達磨さんと慧可の公案
  「達磨面壁す、二祖雪に立ち、臂を断つて云く、弟子、心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん。
祖云く。心をもとむるに了(つ)いに不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ。」
 安田先生と兵頭さんの対話を思い出されます。「こうですか」・「違う」。「こうですか」と掴んだら、掴んだこころが隠されている。掴んだ心は生きた心ではない・「心をもって心を求るに不可得」
 迷いの心に二種有りと説いてきます。
 「有漏の識の変に二種有り」
  因縁変 ― 種子現行という任運の義
  分別変 ― 境となる。境となるが、用は無い。
        「強籌度の心」、策略、思い量ること。第六識と第七末那識に於いて、自分の都合のいい生き方を選択していく有り方。

 若し阿頼耶識が心を対象とするなら、本当の働きは無くなってしまう。阿頼耶識が対象として捉えているのは、所縁(相分)である種・根・器。阿頼耶識は因縁変のもの種子生現行という、種子を対象として捉えていくからである。
 心を対象化するわけにはいかない。対象化した心は影、影の心であり、この心は能縁の心ではなくなる。

「彼は実用あるを以て」彼は八識以外の心。七識は阿頼耶識より生ず。阿頼耶識を支えてして七転識は動いている。

 無為法は真理の世界。永遠不滅
 有為法は生住異滅の世界(現象的存在が生じること、存続すること、変化して異なること、滅してなくなること。)
 
 無為
  識変の無為 ― 心で捉えた真理・こころで捉えた真理は影になる。
  法性の無為

 ここまでが有漏位(迷える私)
 「無漏位に至ると」
  勝慧(大円鏡智)と相応す。有漏の識が智慧に転依する。無分別智に変わるわけです。「無は是れ無なるを知るが故に」(無なるものは無なるものだと判る。影が影だと判る)
 
 「欲・色界に在って三の所縁を具す。無色界の中にをば有漏種のみを縁ず。色を厭離したる故に業果の色は無し。定果の色ありと云はば、理に於て違すること無し。彼の識は亦此の色を縁じて境と為す。」

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