唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (44) 熏習論 (10) 能熏の四義

2014-05-05 15:30:24 | 『成唯識論』に学ぶ

能熏の四義、第二番目は有勝用(ウショウユウ)

 「若し生滅有り勢力増盛(セイリキゾウジョウ)にして能く習気(ジッケ)を引く乃ち是れ能熏なり。」(『論』)

 第一番目に説かれていました有生滅ですね。それと勢力が増上であるものが能熏の条件であり、有勝用と名けられる。

 七転識が持つ性質の一つであり、善・不善という強い勢力を持っているものが能熏となり得る、と説いていますから、当然、勢力贏劣のものは能熏とはなり得ないのです。

 『述記』には、勝用に二つあると説いています。

  •  「一つには能縁の勢用(セイユウ・作用のいきおい)。これは諸色を簡ぶ。相分と為して熏ず。能縁として熏ずるものには非ず。」
  •  「二つには強盛の勝用。謂く任運起にあらず。即ち類別の異熟心等の縁慮用有れども強盛の用無きを簡ぶ。相分と為して熏ぜらる。能縁として熏ずるものには非ず。」

 能熏でないものは、

  1.  色等は強盛の用はあるが、能縁の用は無い。
  2.  異熟心等は能縁の用はあるが、強盛の用は無い。
  3.  不相応法は二の用無し。

 色法は、質礙(ゼツゲ・物の妨げる性質)であって縁慮(エンリョ・対象を認識する心の作用)ではない。所縁相分として熏ぜられる。

 異熟無記の心心所は任運起であって、その勢力は甚だ贏劣である。所縁相分として熏ぜられる。

 不相応行法は二つ共に無いから能熏とはならない。

 「此は異熟の心心所等は勢力贏劣(セイリキルイレツ)なるが故に能熏に非ずと遮す。」(『論』)

 贏(ルイ)とは弱いという意味です。贏劣は、力が弱い、虚弱であるということ。

 「仏韋提希に告げたまわく、汝は是れ凡夫なり。心想贏劣にして未だ天眼を得ざれば、遠く観ずること能はず。」(『観経』)

 傍線の部分は考えてみる必要があると思います。凡夫は心想贏劣であって真実を知る力が弱いことを仏陀によって照らし出されてきたのでしょう。過去の業を背負っていのは業果ですが、業果は善悪以前のもの、異熟心であって有勝用ではないということです。では何を熏習していくのかが「今」問われている。

 『観経』に教えられるのは、仏陀と韋提希の感応道交です。見出された存在が、見出されることにおいて方向性を持つ、往生浄土という道へ軌道修正され、願生心をいただいていくことができるのでしょう。

 改めて、「因是善悪・果無記」というところに、聞法は成り立っていることを思うわけです。恒に問われ続けている自分が存在している、そこに見えてくるものが反逆者としての自分である、唯除の自覚であろうと思われます。聞法を縁として熏習が起こるということでしょう。

 七転識によって熏習が生起するわけですが、この七転識が恒に問われているということなのですね。厳密には、第七末那識の一面である染汚意(ゼンマイ)が問われていることです。一面というのは、

 「染汚末那は四煩悩と恒に相応す」という一面と、その背景にある「染汚末那を転ずるが故に平等性智を得る」という一面なのですね。転ずる契機をもつのが第七末那識ということになりますから、種子(善・悪・無記)生現行(無記)・現行(善・悪・無記)熏種子という刹那生滅の因果関係ですね。一瞬の中に目覚めを与えるのが横超の大菩提心と、親鸞聖人は押さえておいでになるのでしょう。

 尚、種子生現行の種子を熏習と押さえ、現行熏種子の熏種子を習気と押さえています。因と果の違いに由るわけです。


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