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仮実分別門
「是の如く二十の随煩悩の中に、小の十と大の三とは定んで是れ仮有なり、無慚と無愧と不信と懈怠とは定んで是れ実有なり、教と理とを以て成ずるが故に、掉挙と惛沈と散乱との三種をば、有義は是れ仮といい、有義は是れ実という、所引の理と教とは前の如く知る応し。
(『論』第六・三十二左)
(このように、二十の随煩悩の中に説かれている、小随煩悩の十と、大随煩悩の三とは仮有である。無慚と無愧と不信と懈怠とは実有である。教と理をもって推測すれば、掉挙と惛沈と散乱の三種について、有義は仮有であるといい、有義は実有であるという。引用する理と教とは前の如く知るべきである。)
ここでいわれています、「実」は実体という意味ではありませんので誤解のないようにしていただきたと思います。実際の働きのあるもの、実用(じつゆう)という意味をもつものです。仮有は、分位仮立法という意味になります。根本煩悩の上に仮に立てられたものです。
諸門分別の第一門が、仮実分別門になります。
随煩悩は二十数えられているわけですが、その中で何れの随煩悩が仮法であり、何れの随煩悩が実法であるのか論じられす。
答えは、「小の十と大の三とは定んで是れ仮有なり」 ― 仮法
「無慚と無愧と不信と懈怠とは定んで是れ実有なり」 ― 実法
小の十とは、忿(ふん。いかる)・恨(こん。うらみ)・覆(ふく。罪をかくす)・悩(のう。相手にかみつく)・嫉(しつ。ねたみ)・慳(けん。おしむ)・誑(おう。たぶらかす)・諂(てん。だましへつらう)・害(がい。殺傷する心)・憍(きょう。おごりよいしれる)の十である。
大の三とは、失念・放逸・不正知である。
尚、掉挙と惛沈と散乱の三種について護法の正義は実法であるといいます。何故実法であると云い得るのあは、前の如く知れと。前とは掉挙と惛沈と散乱の心所を説き明かしてきた所に戻って知りなさいということです。
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