『釈尊伝』 仏の十号について
- 等正覚 ・ 明行足(みょうぎょうそく) -
「それから等正覚。これは無上等正覚で、無上が略してあります。もう上がないということです。無上とは無限ということです。限りがないという意味です。そして、これにくらべるものは、他にないという意味とがあります。等正覚の等は、平等ということであり、平等は普遍ということです。あらゆるものにゆきわたってゆきわたらんことがないところの正しい覚りの智慧ということです。それで等正覚というのであります。
それから明行足、行足と申しますのは、生活ということとしてみてよかろうかと思います。行も行く、足も行くですが、つまり生活は、今日では機械で生活するようになっているように思いますけれども、本当は生活は足なんですね。生活は足である。足ということは歩むということです。人間は歩むことを忘れた生活をしている。これが今日の生活でしょうね。歩みを忘れた生活。レジャーということを楽しむための生活は、歩みを忘れた生活です。ですから行はいわゆる無上等正覚の生活であります。しかもそれの歩みがあると。その歩みはどういう歩みかといいますと、仏陀の歩みはどこまでも限りがない。それは衆生、苦しんでいる人々をおとずれて、そしてことごとくみな解脱を得しめるという歩みを続けるということです。
- 善逝(ぜんせい) -
善逝は先に申しましたので・・・・・・。(善逝とはよく死ぬことができるということですね。われわはよく死ぬことができない。仏というのはよく死ぬことができるということです。本当に死ぬことができると。死ぬときに死ぬことができるということです。それはなぜかといえば、死を解脱したら、もう死なんのではない。それは死ぬときに死ぬことができると。それが本当に生きるという意味です。ですから仏教という意味をさらに考えてみますときに、この十号をおもいだしてみますと、意味がなかなか広いということがわかります)
- 世間解(せけんげ) -
世間解は、仏陀というたら世間のことをかえりみないと思いますから・・・・・・。一番世間のことのわかっているのが仏陀だということです。一番俗世間のことがわかっているのが仏陀である。普通は知らぬが仏であると。仏は極楽という覚りの世界は知っているけれども、われわれのような世界を仏さんは知らんことだと思うていますが、ところがそこが一番わかっているのが仏陀である。こういう意味なのです。これは曽我先生が申されていたことですが、昔、なんとかという罪人で、なにか先生の若い頃に新聞にでた大詐欺師がおったそうです。それがとうとうつかまって牢屋に入って、そこでさし入れてあるところの真宗聖典の大経を読んだというのです。そして下段の三毒段、五悪段を読んだと、そして彼がびっくりしたというのですね。仏さんというのは極楽のことは知っておるけれども、われわれのことは知らんと思うておったら、よう知っておるなぁと驚いたというのですね。いいことは知っているけど悪いことは知らんのが仏だと思うておったと。なんとまぁ悪いことを知っておるものだなぁと驚いたというのです。それから牢屋からでてきてから、さっそく真宗の信者になったというのです。そんな話を曽我先生がされたことがあります。ですから世間解といいますのは、普通は俗世間を離れて、もう迷いの世間というものと別れて覚ってしまったと。こういうふうに考えております。ところが世間のことを一番よくわかっているのが仏陀なんだと、こういう意味であります。
- 無上士 ・ 調御丈夫(じょうごじょうぶ) ・ 仏世尊 -
それから無上士、これは文字の通り、いわゆる無上と申しますのは、他に勝るものがないという意味ですね。士はどのような敵に対してもこれに勝って、これを降服させること。いわゆる一切の魔を降服させるという意味で無上士というのであります。
それから調御丈夫、これは丈夫というだけですと、ますらお(剛勇な男性)というわけですけれども、単に男というだけでなくして、よくととのえられている。よく練られている。いかなることに出あっても、それを碍りなく解決してゆくところのますらおというような意味になるでしょう。
それから仏世尊。仏という文字の意味になりますと、覚りという意味になります。自覚というてもよいですけれども、その中には自覚ということもありますが、同時に他のものをも覚すると、両面において覚するということですね。それから世尊。これは世においてもっとも尊重せられるということであります。こういうような意味がございます」。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より。 次回(9月26日、配信予定)は仏の十号のもつ意味についての質疑にはいります。非常に大事なことを教えられてありますので、またお読みください。
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第三能変 別境 ・ 護法正義を述べる(4)
- 所観の境に於ける、定の説明、その(1) -
「彼の加行(けぎょう)の位に少しの聞思すること有りき、故に等持は所観の境を縁ずと説く」(『論』) (第一解)
「述曰。此の愚昧の者の心を摂斂せる加行の位の中に於いて、少しく聞思すること有り。或いは師の心を眉間に斂(おさ)むる言を説くを伝聞するに依り、或いは独り経論を尋ねて心を斂むる語を見て、少しく簡択すること有り。然るに心を斂むる時には但所縁に住して、心を眉間に繋げて簡択すること能わず。此の定の所縁の境は、前の加行の位に従って、説いて所観の境と名づく」(『述記』)
摂斂(しょうれん) - 摂も斂もおさめるという意味がありますが、摂にはまたおそれる・びくびくするという意味もあります。愚昧の者の心は、なにものかにおそれ、ざわめき、びくびくしているということではないでしょうか。私の心の状態ですね。何ものをも恐れないということであれば、心は常に平静を保っているのでしょうが、私の心は常にざわめいて、集中するということはありません。しかし、そのような心を抑えようと努力はしますね。その、ざわめいている心をおさめる(散心を止めようとする)のが加行位であり、この加行位に於いて聞思ということがある、と述べられています。
(意訳) 問。所観は慧の境である。しかし『論』に定は所観を縁ずというが問題はないのか。答。問題はない。何故ならば、愚昧の者の定の加行位では、少しではあるが、聞思することがある。そのために等持(定)は所観の境を縁(認識)ずると説かれるのである。
聞思は修を加えて三慧といわれるものです。智慧を修行の順序によって、聞慧・思慧・修慧の三つにわけたものです。このことから、聞・思は境を簡択する働きが有るということになりますから、慧があるということです。慧があることに於いて所観の境であることになり、聞思するということにおいて慧が起こらない境であっても、所観の境としてもよいというのです。
師の心、師の指導ですね。私たちは無師独悟というわけにはいきません。眉間に心を集中して散乱する心をおさめるようにという、師の指導によって、間違いのないように修行をするわけです。これが聞慧ですね。あるいは、独りで(師の指導を受けながらということでしょう)経論を読み、真理を尋ねるなどをして、心をおさめる語を読んで、少しながら慧が簡択することが有る。これが思慧になりますね。そして修業することに於いて得られる修慧を加えて、三慧といいます。しかし、心をおさめる時にはただ所縁に住して、眉間に心を繋げて定は存在するが簡択することはできず、慧は起こらない。この定の所縁の境は前の加行位で慧の所観となっていたことから、所観の境と名づけるのである。
- 所観の境に於ける、定の説明、その(2) -
「或いは多分に依って、故是の言を説く。戯妄天の、一境に専注して貪瞋等を起すが如し、定のみ有って慧無し。諸の是の如き等は、其の類、寔(まこと)に繁し」(『論』)
(意訳)あるいは、多分に依って、このように説かれるのである。戯妄天が、一境に専注して、貪欲や瞋恚を起すようなものである。「一境に専注して」、定のみあって、「貪瞋等を起すが如し」と、慧は存在しないのである。このような例は、その種類は非常に多いのである。
「述曰。これは第二解。あるいは所観の境は、多くは定と慧と倶なり。この愚昧の者は慧の数なしと雖も、余の多分に従って、故に定の境を説いて、名づけて所観となす。欲界の中の戯妄念天の如きは、多く染に耽るを以ての故に、一境に専注す。意憤恚天の眼を角(そばだ)て相視て心を専らにして死を致す。又或いは貪を起し、或いは他を瞋する等は、ただ専注のみ有って簡択すること無し。亦癡多きが故に、其の類一に非ず。此の如く愚癡闇昧多き者は、唯定のみ有るが故に、所観に於いて一の定のみを起すなり」(『述記』)
(注) 戯妄念天(けもうねんてん) - 欲界六天の中間にある天。この世界の天人たちは種々の戯楽(けらく - 世俗の快楽を享受すること。快楽をたのしむこと)に耽って正念を忘れ去り、ついに天から去るという。
意憤恚天(いふんにてん) - 意忿天ともいう。この世界の天人たちは種々の怒りを発することによって、天より去るという。
例を挙げて説明しています。例とは戯妄念天と意憤恚天が一境に専注して、簡択の働きが無いことを挙げ、愚昧の者は定のみ存在して、慧が無いので、これらの場合には、所観に対して、定の心所のみが起こるという。