唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  別境 ・ 定について、経部師の説を論破 ・ 釈尊伝

2010-09-12 22:56:43 | 心の構造について

 『仏陀 釈尊伝』 質疑応答より

            - 仏陀と比丘 -

 (問い) 六十一人と千二百五十人との関係が、もう一つはっきりしないのですが・・・・・・。

 (蓬茨) 六十一人というのは、あまり漢訳の方には注意せられなかったのです。ただ原始仏教というものが発達しましてから、そういうものが歴史的にたずねられてきて、釈尊の伝記の中で欠かせない一項目としてとりあげられてきたわけです。これは歴史的事実として考えられるわけです。ただし歴史的事実といいましても、根拠は文献ですし、文献というものは経典が文献になるわけですから、経典の意味ということからいえば、六十一人の比丘という場合は、歴史的には、釈尊が教化の旅にでられてから、はじめ五人の比丘をもたれ、それから次第に増えてきて六十一人までになったとみていくわけです。

 (問い) 六十一という数には別に意味はないわけですか。

 (蓬茨) そうです。そういう記録にすぎないわけです。六十一という数は別に意味をもっていません。歴史的な記録としての意味しかありません。内容は先に申しましたように、いわゆる仏と比丘とは、同じものなのだということが一つ。仏と比丘ととの差がないからこそ、一人して行けということです。仏も比丘の一人であり阿羅漢である。比丘も阿羅漢であるということです。その関係は、先にさとったものは師であり、後からさとったものは弟子であると。釈尊と比丘との違いは、釈尊は師なくしてさとった。後は釈尊を師としてさとったという違いです。釈尊は無師独悟、これを仏陀というわけです。後の弟子たちを仏陀といわないのは、師によってさとったから仏陀といわないわけです。阿羅漢というさとりは同じです。そうすれば他人を済度するのに仏陀でなければならぬことはないのです。そういうことをあらわすために、六十一人の比丘のときの伝道宣言書というものは意味をもっているわけです。

 千二百五十人という場合は、これは比丘と仏とをはっきり区別するのです。仏陀は世間を利益し、それから比丘をも利益する。比丘は世間を利益するということがない。比丘はさとったわけですが、さとったら世間を利益できるかというと、比丘はもともと世間のものであったものだから、世間にでてゆくと今度は世間にかぶれる、もとの癖がでるというので、仏陀を離れない。常に仏陀を離れないという意味をあらわすわけです。したがって比丘衆というのは、仏陀をの徳という意味になるわけです。仏を離れて比丘はないという意味です。

 そういう意味で、漢訳経典の方は仏の徳を主としてあらわし、南伝の方は主として比丘の徳の方をあらわすということになるのでしょう。仏陀の徳ということは、単に師なくしてさとったという以外には、なにも区別がないわけです。

 それで、南伝の方では、もう世間の利益ということは、たんにこの世間の生活の利益ということに自然になってしまって、出家ということのほかに仏教というものがないということになったわけです。南伝仏教がその典型ですね。ですから南方では、僧というものが仏教なんです。一般人はその僧を世俗から離れているがゆえに尊敬する。われわれは世俗の者だから、いろいろな快楽にはしり、したがって苦痛というものを受けねばならん。けれども、そういうものをすててしまって、清浄な生活をしているから僧は尊敬される。それから、だれでも一度はあこがれるから、一生に一度は出家するというようなことがあります。

 そういうような意味で、出家を供養し、供養することによって、世間の幸福ということでしか考えないわけです。そうすると、今度は行き詰まりがでてくるのです。しかしそれでも出家というものによって、仏教が保たれているのですから、南方では出家の力というのは強いでしょう。

 漢訳の方になりますと、仏教というものが、むしろ南方圏というものよりも東方圏に移ってくる。南方の方はインドとあらゆる面において生活もほぼ似ている。しかし中国、日本にくるとがらりと変わる。人種も違うというところに仏教が伝来するのです。南方の仏教が日本にくるということはないのです。いかにきてもダメです。しかし、中国から日本にきたということには、仏教というものがもっているところの国際性ということがあります。ちょっと語弊がありますけれども、とにかく仏教と生活とがなんの関係もないところにでも、仏教が伝わったという意味があるのです。しかし、それが南方の仏教の方にははたしてあるかというと、出家ということに固定してしまったのですね。出家ということ以外にないのです。

 中国にも日本にも出家ということは伝わってきた。そこに仏教によって得たものはなにかというと、現代的にいえば、やはり人間の主体性という言葉ででもいうと片鱗がわずかにつかめるかと思います。けれども、なにもないところででも仏教というものが伝わったと。なんでかというと、そこに仏教があったからでしょう。なにかそれに応ずるものがあったから。それはなにかというたら、つまり仏教のもっているものと、人間の失っているものです。いわゆるいつもきめられておるものに対するところの望みです。解脱ということはなにも死ぬものが死なないようにということではない。そういう意味に決められてしまっていることからの独立というか、そういう意味で、主体性というものをもつことが仏教によってできたという、こういうものならば、どこにでもありうるわけです。その証拠が中国へ翻訳されたときに、世俗において仏教が受容せられ、日本にきたら日本でも受け入れられたということです。普通は、インドの仏教が中国仏教になって、日本仏教になったというけれども、これは形式であって、そういう見方ができるということです。

 外国の方では仏教というものをそうはみないのです。南方仏教の範囲でしかみません。ですから仏教そのものに対する受けとり方というものが、西洋の方ではできないのです。また西洋の方へもってゆく人がいないです。せいぜい鈴木大拙博士ぐらいのものでしょう。ともかくも仏教ということの意味で信者をつくったのは鈴木博士ぐらいでしょうね。

               - ・ -

  第三能変 別境 ・ 定について、経部師の説を論破

 初めに、経部師の説を挙げる、後に論破します。

 「有るが説かく。此の定は体即ち是れ心なり。経に説きて心学とも心一境性とも為せる故に」(『論』)

 (意訳) 経量部の経部師の説は、定の体は心である、というもので、経に、「三学の中に説いて心学と為す。静慮支の中に説いて心一境性と為するを以て。心に離れては無しという」(『述記』)。を根拠として、定の体は心であると述べています。経量部の主張は心王と別の心所である定が存在することは無いとしています。その根拠が先に述べた通りなのです。法相唯識では心王とは別に心所をたてることは周知の事です。

 「彼は誠証(じょうしょう)に非ず。定いい心を摂し、心を一境になら令むるに依りて、彼の言をば説けるが故に(『論』)

 「述して曰く。今破す、然ず。心学とは心を摂するが故に。心一境性とは心を一境に住せ令むるが故に、説いて心と為す。体即ち心に非ず」(『述記』)

 (意訳) 経部師の説は誠証、即ち、正しい証とはならない。何故なら、定は心を摂し、心を一境にならしめることから、心と為すのであって、定の体が即ち心であるというのではない。『論』の「彼の言」は心学と心一境性にかかる言葉で、「心を摂し」が「彼の言」の心学を指し、「心を一境になら令むる」が「彼の言」の心一境性を指します。以上から伺えることは、経典に戒学・定学・慧学の三学の中、定学を心学といっているのは、定の働きである、心を摂するということ、と心を一境に住せしめるということ(ならしめるものを定という。ならしめられた「心一境」によって、ならしむる定をあらわす。 『選集・巻三p314))、をいっているのであって、定の体は心である、と主張する経部師の説は誤りであるといっています。 尚、今一度、因明の立量(りゆうりょう)を立てて経部師の説を論破しています。次回は勉学の為に因明について調べてみたいと思います。

 

 


第三能変 別境 ・ 定について、他学派の説を論破す

2010-09-12 02:19:45 | 心の構造について

  第三能変 別境 ・ 定について 、他学派の説を論破

  初めは正理師(『阿毘達磨順正理論』による学説)の説・   後に経量部の説を挙げ、護法が論破し、自らの説を述べる。

 「有るが説かく、爾の時にも亦定の起こること有り、但し相微隠(そうみおん)なりという。応に誠言を説くべし」(『論』)

 「(正理師等なり) 乱心等の時にも、また定の起こることあり、但し相は微隠なるを以て、相は知り難しといえば、いま彼を詰して曰く、誠言を説くべしと。誠とは謂く、誠諦なり。言虚を以て有と説かば、理いまだ通ずべからず。実言を説いて我に有りと知らしむべし」(『述記』)

 (意訳)正理師等はこのように説いている。心が散乱している時にも定が起こることがある。ただし、その相は微隠であって、定が起こっていても知り難いのである、と。誠言は真実を明らかにする言葉ですね。今、まさに真実を明らかにする正しい説を述べる。

 正理師等の説はどのような状態であっても(心を繋し境に専注していない状態の時)、相微隠ながら定は存在するから遍行であると主張している。それに対し護法は、その説は誤りであると否定し、誠言をもって論破する、と宣言しています。

 次に「言虚を以て有と説かば、理いまだ通ずべからず」と、理にかなわないことを論破します。第一段が和合救・第二段が不易縁救・第三段が取所縁救と称され、それぞれにわたって、論破します。(新導本『成唯識論』による。傍注に「これは転救を破す」と記されています。-『述記』には有義と護法とによる問答が述べられ、正義が示されていますが、その折、有義、即ち護法以外の異説の主張者が、護法に論破された場合、その反論として、自説が正しいと防御的補足説明をしています。この反論を「救」という、とされます。)

 第一段 和合救

 「若し定いい能く心等を和合して同じく一境に趣か令むるが故に、是れ遍行なりといわば、理亦然らず、是は触の用なるが故に」(『論』)

 「若し彼が救して、定は能く心等を和合して同じく一境に趣かしめ、心が起こる時に、みな有り、故に是れ遍行なりと言わば、理い、また然らず、これは触の用なるが故に。触は能く心心所法を和合して離別せしめず。同一所縁なるが故に」(『述記』)

 (意訳) もし、正理師等が救して(自説を防御・救援するために、新たに論理主張を述べる、補足的説明)定は能く心等を和合して同じく一境に趣かしめ、心が起こる時に、みな有り、故に是れ遍行なりと言うのであれば、これは理に適わない。何故なら、認識主観である心王は、さらに心の働きである触の働きによって、認識対象に触れさせられるといわれ、触は心王が起こる時には必ず働く遍行であるとされますから、正理師等が主張する説は理にかなわず、同一所縁は触の働きに他ならないのです。よって定は遍行ではないと論破しています。触と定とを混乱して理解しているのです。ここはきちんと整理をしていかなければならないところです。

 第二段 不易縁救(此定令刹那頃心不易縁

 「若し謂く、此の定は刹那の頃(あいだ)に心に縁を易(か)えざら令む。故に遍行に摂むといわば、亦理に応ぜず。一刹那の心は、自ら所縁の於(うえ)に易うる義無きが故に」(『論』)

 「(理に応ぜず)一刹那の心は自然に一境において改易する義なし。何ぞ定を須いて爾らんや。」(『述記』)

 (意訳) もし、正理師等が主張する、この定は、刹那の間に心に所縁をかえさせない働きをもつ。よって、定は遍行に摂められるというのであれば、これもまた誤りである。何故なら一刹那の心は、自ら所縁をかえることがないからである。ここにですね。(救)といわれる論法をもってくるわけです。和合救で、それは触だといわれて、それならば、不易所縁であるというわけですが、最初の一刹那については、どのような意識であっても所縁をかえないのですから、あえて定を待つ必要はないと論破します。

 第三段 取所縁救(由定心取所縁)

 「若し言く、定に由って心に所縁を取ら令むるが故に遍行に摂むといわば彼は亦理に非ず。作意いい心に所縁を取ら令むるが故に」(『論』)

 これが駄目なら、つぎはこれという論法です。ここは、定に由って、心に所縁を認識させるのであるから、定は遍行であるというのは、亦誤りである。何故ならば、その働きは作意の心所だからである。心に認識対象(所縁)を取らせるのは、定の働きではなく、作意の働きである、と論破しています。

 「心に境を取らしむるは作意の功なり。定の力に由るに非ずという。」(『述記』)