唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 定について、その(4) ・釈尊伝 (99)

2010-09-09 23:06:32 | 心の構造について

   釈尊伝 (99) 仏陀の弟子たち その(5)

        ー 阿含の意義 ー
 しかし、経典そのもののもっている意義は、けっして出家ということだけが仏の道ではない。仏の道はやはりもろびとの利益・安楽・世間に対するあわれみということです。そういう意味で、どこまでも仏陀と比丘とを区別して、比丘は仏陀の徳の象徴であるといえるわけです。したがって世間を利益するという一面、その一面は小乗経典においては、単に浄らかな教え、あるいは伝えられたところの教え、阿含という言葉でしかないわけです。阿含という言葉の意味は、大乗の意味から申せば、法蔵という意味になるわけです。あるいはまたその他の大乗の意義をあらわす意味になります。法に帰するという意味に、昔中国で解釈せられたものでありますが、言葉そのものは、伝えられたところの教えであると、しかしこの教えられたというのは、どこに伝えられたか。世俗を捨てた出家によって伝えられたといたしましても、出家は一生、家庭、妻をもたないのいですから、子が生まれないわけです。それじゃ伝わらないわけです。どうして伝わったか、どこに伝わったか。そういう意味で、阿含という経典では、仏陀の教えというものは、世俗の快楽にすりかえられるものではないという意味では、出家という形をもって伝わったが、やはりあくまでも世間を利益し、あわれむほかにないという意味において、そこに仏陀は比丘と区別せられてあるということです。こういう意味で、やがて“菩薩”という言葉が生まれるわけです。

  第三の能変 別境 ・ 定について、その(4)

 前回のつづきになります。『二巻抄』の記述から伺っていますが、見道位(通達位)において、はじめて「真如の理を悟り」、「よく分別のニ障を断ず」。是を見道と名づく、といわれていました。前者を理証・後者を断惑といい、この断惑・理証が見道における具体的な心のはたらきであると、いわれています。五十一位の段階で十信・十住・十行・十回向と修行の階位が述べられているのですが、これまでは、世第一法の位にいくまでの、資糧位・加行位としての凡夫としての智慧が磨かれる段階とされています。私は、五位における修道と『浄土論』に述べられる五念門との関係を考えているのですが、その私見を又の機会に述べてみたいと思っています。結論からいいますと、「仏果ノサワリ早々断ジ終リヌレバ、速ニ究竟位ノ道ニ入ル」という仏果から、『浄土論』で語られる「回向門」という。出第五門が凡夫に開かれた道として、その功徳が「無空過」、人生が空しく過ぎることのない、大楽が煩悩成就の凡夫の上に燦然として開かれているということに成るのではないか、と、思っているわけです。

     - 定が遍行でないという説明 -

 「若し心を繋して境に専注せざる位には、便ち定いい起こること無し。故に遍行に非ず」(『論』)

 (意訳) 心が散乱している状態には、定は起こらない。「心を繋して」(認識対象につながず)、認識対象に専注していない状態である時には、定は起こらない。よって定は遍行ではない、という。