唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 定について、その(5) ・ 釈尊伝(100)

2010-09-10 23:32:30 | 心の構造について

 釈尊伝 (100) 仏陀の弟子たち
         ー 涅槃・成道 ー
 そういう意味がありますからして、仏陀の一生のはたらきは
今申しあげたことでつきるのです。大乗の緒々の経典、小乗の諸々の経典、あるいは律、いずれも今申しあげたことからでて、今申しあげたことに帰するわけですが、仏陀は最後に涅槃に入られる。

 涅槃と申しますのは、その教化が終わったということです。度すべきものを度し終ったというときに、“自らを灯明とせよ”といい残されて涅槃に入られた。その年八十才であったと伝えられます。

 以上が釈尊伝の概略であります。この釈尊伝は、それでありますから、通りいっぺんの人物の伝記としてもみられます。また、われわれの生存の意義を照らす意味をもっているものともみられます。いろいろなポイントでみられますが、根本的には、仏陀となったというところ、成道というところが根本でありまして、われわれがまたこれをいかにうけるか。人間に生まれてきまして、われわれの成道という意味においては、どううけとってよいか。そういう意味において、また新しく見開いていける意義をもっております。

           ー 自分の成道 -

 親鸞聖人の述べられた言葉も、みなこの意義をわれわれに伝えるものでありまして、われわれはそれを、聞いた言葉として、その意義を解釈をしますけれども、自分の成道ということにならないかぎり、同じ言葉を用いて同じような気持ちになっても、なかなかそれが我が身にのものになったといえない。そういうことをどうしても感ぜずにはおれないものがあるということに、きわめて大切な意義があるわけであります。それこそ、自分の本当の意味の主体性を求めているしるしであると、こういうふうに考えてみまして、あらためてまた見直していただきたい。そういう意味では、「釈尊伝」はくりかえしくりかえし仏教の歴史となってきたと言えるのであります。 (完) 『仏陀 釈尊伝』より 蓬茨祖運述

 講義は以上で完了です。最後に先生が述べられておられます、「自分の成道ということにならないかぎり」ということですが、聞法といっても、いろいろな聞き方があります。しかし、自分にとってという視点が欠落しますと、仏教の学びも、「外儀は仏教のすがたにて、内心外道に帰敬せり」という姿に転落してしまいます。仏教はあくまでも、「内観の道」なのです。お念仏を頂いて自己を明らかにする。お念仏を頂いて浄土往生するのではなく、念仏を頂いて浄土往生する必要のない身を頂くのです。親鸞聖人の言葉をいただきますならば、「地獄一定すみかぞかし」の身をいただくのですね。

 第五章に質疑応答が出されています。きわめて大切な質疑が出されていますので、次回より若干掲載したいと思います。

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      第三能変 別境 定について、その(5)

 安田理深述『唯識三十頌聴記』より引用(選集p308~315)

 「定というのは何か。「令心専注不散」とする。これが定の心理である。・・・定は心に起こる。この場合に六識である。第六識に定が起こると第六意識が専注不散になる。・・・定になろうという意欲が定にならしめるのではない。我をとって考えねばならぬ。意識に我があるなら、なろうと思えばなれる。なろうとおもってなれぬのは、無我の証拠である。どうしてなれるかといえば、心所法という法がある。しむるものを法という。心をして特定の心ならしめる法として心所法が見いだされた。定という作用の本質をあらわす。性とは本質である。そういうことによって間接には、次の慧の根拠になる。これが他に対する用き(業)である。・・・

 見道というものに十六心ということがある。見道の過程を十六と立てる。そういうところから見ると、一境ではない。見道において四聖諦の真理を観ずる。次第に境が展開して行く。その展開す境に従って専注する。ただ心一境性というだけなら、見道というものには定が無いことになり、散になったことになる。定の境が一つだということになる。前後の境、展開に従って、その境に従って専注する。茶を飲む時には茶だけ飲めばよい。それが定である。・・・定ということは、ものそのものとなることである。耳をもって声を聞くというより、全身が耳になる。眼で見るというよりも全身が眼となる。」と、定について述べられておられます。