ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

健康食品

2006年10月18日 | 今日この頃
           プルンパゴ(ルリマツリ)
          10℃在れば年中咲くそうだ
         我家でも春から、そして今、花盛り

ジムの玄関の花、やっぱり!私と同じ考えの人も居て「バラ」だけ抜かれていた。「ヒマワリ」や「ユリ」も明日には無くなっているかな。

「ジョーバ」勇んで駆けつけた。スタッフに「使い方教えて」って喜び勇んで「ヨイショ」と跨った。ビクとも動かない。スタッフが入れ替わり立ち代り来るが駄目。スタジオの時間が迫るし、今日は残念ながら諦めて、2階のスタジオへ。

「健美繰」新しい教室を嫌って、3ヶ月ほど抜けた。緩やかな動きなのに私の体が悲鳴を上げる。先生の指導の下体の色んな部分を動かすのが良いようだ。これから以前の通り、スタジオと器機の組み合わせで行きたいと思った。年を重ねると爪先、指先に至るまで緩やかに動かさないと動き難くなるのだと痛感した。

今の時期が体力を蓄えるいい時期だそうだ。体を動かす事もいいが、内臓を動かす事がもっといい。即ち深呼吸だ。太極拳もそうだが「逆複式呼吸」が内臓に良い。深呼吸で吸う時にお腹を膨らまさず、へっこめて、吐くときにお腹を膨らませる。普通の「深呼吸」とお腹の動きが逆になる。私は10年間太極拳をしている内に習慣で、私の「深呼吸」は自然に「逆複式呼吸」になっている。

元気やる気の「気」は暖かいものだ。折角動いて「気」を体内に集めても、運動して喉が乾いたからと、冷たい飲み物を飲むと折角の体内の暖かさが失われるので、常温水を飲むようにと言われた。これは真夏でも守っている。冷蔵庫で冷やす事はない。慣れてしまえばなんともない。

健康といえば、今は「サプリメント(栄養補助食品)」が花盛り。「これは肝臓にいいです」「これは胃腸に・・・」とあれもこれもと飲んでいたら、それだけで満腹になりそう。これは日本だけの状況なのだろうか?世界中なんだろうか?

夕刊に「世界一安全な野菜」完全無農薬地下室で栽培と大見出し。野菜といえば太陽をさんさんと浴びたものこそ栄養価も高く美味しいと信じて疑わなかった。そんな地下で栽培したら、無農薬で安心だが栄養価は半減だろうと思った。そうではないらしい。栄養素は通常の11倍あるそうだ。参った!

まだ品数はレタスやミズナ等7種類だけ。値段は高くレタス一個が360円だ。しかし天候不順等で取り入れ量が少なく、高値になった時もそのぐらいの値が付く時もあるから、そんなに高~いと言う感じも無い。

企業秘密のかたまりの地下野菜工場は特殊なフィルターで空気中のゴミや埃を排除した無菌室で、肥料から照明調節まで全てコンピューター制御されている。

インターネットや全国約15の百貨店で発売されている。インターネットでの受付は24時間対応で、希望の日時に配達してくれる。

モットーは1.安心 2.清潔 3.長持ち 4.高い栄養価 5.健康とダイエット 3.の長持ちと言うのに心引かれる。通常のスーパーの野菜は売り場でもしゃっきりしていないし、翌日にはしなびてしまう。百貨店系のスーパーで買うと値は張るが新鮮度が高い様な気がするので、近頃はそちらで買う事が多くなった。

この会社は京都の府立植物園のそばにある。社長は43歳と言う若さ。こういうのをベンチャー企業(ビジネス)と言うのだろう。

地下で収穫されたばかりの野菜がその場で食べられる、併設のフレンチレストランも連日にぎわっているそうだ。又行きたい病が出た! 





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待ちに待った今日の日

2006年10月17日 | 今日この頃
             (見~つけた)
         別名:大紅団扇(おおべにうちわ)
         一度は育ててみたいと思いながら
           ジムのお祝いの鉢の一つ

一週間のご無沙汰でジムへ。今日は「グランドオープン」です。6ヶ月近く少々不自由をした。まずは正面玄関から入れた。玄関先もフロアーもお祝いのお花で一杯。でも全て平凡で私の気を引かなかった。奥の方にある休憩室のテーブルの上にちんまりと置かれた「アンスリュームの鉢」今日の題材に頂いた。

お店の開店祝いなら、玄関前の花は持ち帰り自由なんだが、ジムはそうは行かないんだろうな~と横目で見ながら帰ってきた。

3階のジム、大勢の人が居る感じ、スタッフ総動員。「???」一番の器機の前に行って初めて気が付く。機器が全て新しい。使い方自体は同じでも、セットの方法が違っている。スタッフが近づいてきて指導してくれる。3番まで行った。

「XXさ~ん。スタジオ元に戻ったよ。出ようよ。場所とって在るよ」と声が飛ん出来る。新しい建物の4階に新しいスタジオが出来た。でもなんだか気乗りのしない部屋で受ける気がしなかった。仲間が行こうと誘ってくれても「元のスタジオに帰ったら又出るわ」と行かなかった。これは私だけではない「嫌だ」と言う人は案外多い。見つかったのでしぶしぶ行く事にした。新しい機器に心を残しながら。

私は時間が早かったので、直ぐ指導を受けることが出来たが、後からの時間帯全ての器機に人の列が出来たそうだ。人が待っているので長くは出来なく今日は器機の使用方法を教えてもらってお終いらしい。

今まで無かった器機も入ったらしい。カーボーイの荒馬こなしの様な器機(安倍総理夫人も使っているそうだ)も3台入ったらしい。乗った人は「もっと激しく動くのかと思ったのにゆるかった、遊園地のメリーゴーランドのほうがましや」と言う感想。怪我をしないように調節しているのだろうか?それとも高齢者向き商品?人の意見を鵜呑みにするより、まず明日1番に試してみよう。

私が古いほうのスタジオが好きなのは、全ての窓から緑が見えるからだ。南隣は公園だし東側は高い街路樹、ちょこっとお空も見える。部屋の中に居ながら季節を天候を感じる事が出来るって素晴らしいと思いませんか?

「気功」のレッスン十数年ぶりです。入会当時は入っていたが、10年一日の如きレッスンに嫌気が差して行かなくなった。それを知っているグループの人たちが「新しい先生はいいから」と誘われていたが、新しい教室に難癖をつけて行かなかった。今日は逃げようが無かった。

私には始めての先生、以前のぷっくり先生と対照的にスラリ型。何だか「気功」をすれば先生のように「スラリ」となりそうな錯覚。動作が何処に効くか説明がある。これは良い。「気の流れ」「気の出し入れ」を説明し重視している。

私が太極拳を習っていた頃、準備体操は「気功」だった。初めは「気の流れ」と先生が言われてもさっぱり分からなかった。でも何時しか「気」を感じるようになっていた。一番解り易いのは、両手のひらを離したり近づけたりしていると、その手の間がほんわかと暖かくなり何か手ごたえを感じる。「昔取った杵柄」今日も弱かったが「気」を感じた。

「嫌な動作はしなくていいですよ。遊んでいてください。いやいやするとストレスになるだけですから」この言葉もありがたい。今更体を鍛えるわけではない。足腰丈夫で身内に迷惑を掛けないように、介護保険を使わなくて済む様に、それだけの為にジムに通っているんです。
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代理出産

2006年10月16日 | 新聞から
            ツルヒメソバナ
        1センチくらいの小さなお花です
        山野草ですので、お店では高級品
      換算するとウン万円、いえいえ十数万円分
          びっしりと咲いています

栗を頂いたので久し振りに栗御飯を炊いた。この頃は邪魔くさいので剥いた栗を買ってくる事が多い。熱湯につけて鬼皮を剥いて、又つけて渋皮を剥いてと中々の手間である。根気がなくなって、やっぱり剥いた栗を買った方が楽だな~と思ってしまう。

えらい世の中になってきた。母が娘に代わって孫を生む時代だって。子供夫婦に出来た子供を「孫」って言うのじゃないんですか?母親が娘の代わりに生んでも「孫」って言うの?一寸変じゃない?

推進論は「子供がもてない夫婦の問題については、社会は解決できない。代理出産を禁止したら、家庭は子供が出来なくて一生不幸を背負う。社会はこうした家族の問題を決める権利があるのか」と指摘し、家族の幸せを優先すべきと言う。

慎重論は「生殖補助医療(生殖機能や器官に何らかの問題があるときに試みられる医療で、人口受精、体外受精などがある)問題は必ず『社会的コンセンサス(合意、意見の一致)がない』と言う。先進国では禁止論が主流になっている。代理出産は原則として禁止し、例外的に認めるケースについて社会が受け入れられるルール作りが必要」と言う。

子供が欲しいという気持ちは分かる、むしろ「結婚はしてもこんな不安な世の中に、子供は欲しくない」と言う方が理解できない。しかし「家庭は子供が出来ないと不幸」とも思わない。「子は鎹」と言う言葉も力を失ってきている今、子供が無いならないで違った生き方はあるはず。自然の摂理に逆らってまで「代理出産」するのは「エゴイスト(自己中心)」以外の何物でもないと思う。

今回は出産を決めるまで「代理母の夫妻と女性夫妻の4人に3,4回にわたって出産の危険性などを伝えた。致命的なことが起こりうる事も説明した。代理母は『自分は人生を十分に生きてきた。娘の為に命をかけても』と(相談から2,3ヶ月で実施したと思う)言っていた。

父になりたい夫の両親が出てこないのは何故?嫁が母に代理出産を頼むのをむげに反対できない立場であるが、どのような反応だったのだろう?それとも夫の両親はこの世にいないの?医師もこのことに一言も触れていないのが片手落ちだと思う。

生まれた子供が出生の事実を知ったら、『おばあちゃんのおかげで生まれた』と子供にその意味が分からない段階でも説明するように言っているし、両親も了解している。最後は親子の関係で決まる。と医師は言う。

子供にその意味が分からない段階でも説明する必要があるのだろうか?理解できる時期でいいと思う。「子供が欲しかったから・・・」との説明はしても、あえて「おばあちゃんのおかげで生まれた」と言う必要もないような気がする。代理出産はあくまで当事者の問題であり、子の感謝の対象を作る必要もない。全てをさらりと受け止める子ならいいが、複雑な出生に悩む子かもしれない。

今後実の母親による代理出産が定着し「親が子供の子を生まないのは愛がない事」と言うような話にならないか心配だ。第三者による代理出産は「姉妹間でも意見の食い違いで、関係がギクシャクした例がある。他人はさらに難しい。母子にはこうした問題がない」

母子は前例がないからで、親子と言えども別の人間、問題が起きないと言う保障はない。私は他人の方がまだいいと思っている。

嫁の母の代理出産した孫、私は望みません。







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いじめ

2006年10月15日 | 気にかかる
            シュウメイギク
          今を盛りに咲いています
       長~い茎の上でゆらゆら揺れています

小学生と言えば「孫」の時代の私達の会話にも「いじめ」の話が出るよう仁なった。それだけ「いじめ」とだけではすまない「自殺」にまでいってしまう件が増えたからだ。

北海道の少6の女の子、去年の9月に自殺を図り今年1月に死亡した。4ヶ月の間の学校や市教委の応対は如何だったのだろう。「自殺」する直前に行われた修学旅行の部屋割りで女児だけが決まらなかったそうだ。担任はこれをどのように処置したのだろう。楽しみにしていた修学旅行、もしかしたらこれがきっかけで皆の中に溶け込めるかも知れないと期待する心があったかもしれない。それが裏切られて「自殺」を実行してしまったのだろうか。

今年の1月まで命はあったわけだから、その間に修学旅行は行われたのだろう。小学6年生の同級生は修学旅行を楽しんだのだろうか。病床にある友の事はさっぱりと忘れたのだろうか。口には出さないが心痛めて、彼女を想った子も居たと思いたい。彼女をかばう事は今度は自分が「いじめ」に遭うと実行に移せなかった子が・・・。

後半年待てば卒業、中学校に行けば又状態は変わったかもしれない。これは第三者の言い分であると承知の上で言っている。毎日が針の筵、半年なんて永遠の時間だっただろうが、でも生きて欲しかった。私は考える「自分の命を絶つ心」と「耐え忍ぶ心」とどちらが強いの?

長い人生「死にたい」と思った事は誰でも一度や二度ははあるだろう。実行に移したこの女の子は「強い子」「弱い子」どちらなんだろう。「いじめ」を受けて我慢している子に言いたい。「永遠に続く辛さ」は無いと、いつか笑える日が来ると・・・

長期間ではないが「いじめ」を私も受けた経験がある。私の場合は1対1だった。集団疎開から帰って転校した時だ。終戦間もなくで、まして焼け出されて何もかも失った時代。母が自分の着物を私の服に仕立て直してくれた。今でこそ和服を洋服にするのはしゃれているが。そして転校した小学校の子供達は幸せな事に焼け出されていなかった。私の服装が目立ったのだろう、休憩の時間になると私のそばにやって来る。にやっと笑いながら近づいてくる彼女を今でも、髪型、額に出来ていたおできの位置、着ていた服まではっきりと覚えている。

学校に行くのが嫌だった。行かないと母が心配する、母には知られてはならないと思っていた。私は一人悩んだ。ある日決心した。相手にぶつかってみようと。「窮鼠猫をかむ」の心境だ。「放課後お話しよう・・・」とそれまで一言も言葉を返さなかった私の申し出に彼女は驚いただろう。どのような話の内容かすっかり忘れているが、校庭で砂に何かを描きながら(お互いに相手の顔を見ないで)話し合った。そして私達は毎日一緒に遊ぶ程仲良しになった。

これを「いじめ」と言うのかどうか私には分からないが、私が学校に行きたくないと悩んだのは事実だ。私が彼女と話そうと思ったのは、考えに考えた挙句「彼女は私に興味があるのかもしれない」と思ったからだ。しかしそれ以後仲良しさんは沢山出来たが「この話」はした事はない。

遠い昔の話だが「いじめ」と聞くと思い出してしまう。だが決して私が今でも彼女を恨んでいるのではない。彼女の事は大好きだし、それ以後の良い思い出の方が沢山ある。「いじめ」とはこの様に心の底に沈んではいるけれど、決して消える事のないものだと言う事です。
                        (190回)
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おおさか川柳

2006年10月14日 | 新聞から
         夏の間中青々としていました
      秋の紅葉が美しい。枯れた後、庭箒にした
        種子は「とんぶり」と言い食べる
             秋田の名産

お題は「橋」  入選作は

☆ 平和だな秋が絵になる渡月橋
   沢山の人の笑顔が行き交うのを見る観光地に行くと思います。

☆ 飛行機と吊り橋が駄目怖がり屋
   思えば怖いですよね、鉄の塊が海に浮かんだり空に浮いたり。

☆ 復員船桟橋に悲喜ものがたり
   舞鶴の岸壁に立つ句でしょうか。私も埠頭に立って思いました。

☆ お世つぎお世継ぎ騒がしいぞと二重橋
   安心したのか。世間も静かになりました。

私の好み「川柳」

☆ お上りさん真っ先に行く二重橋
   昔はそうだったのでしょうね。今は如何でしょうか。

☆ 古里に似合う土橋がコンクリに
   耐久年数や自動車も通したいとコンクリになるのでしょうね。

☆ 胸がキュンマディソン郡の橋の恋
   10年前世界のベストセラー。読みました。映画も見ました。

☆ 本四橋よっしゃよっしゃで橋三つ
☆ お遍路のバスがお世話になる架橋
   バスで行く遍路の事を土地の人は「観光遍路」と呼ぶ。私は「歩き遍路」

☆ 老いの身に登山と思う歩道橋
   急勾配の階段ゆえ、横断歩道があれば敬遠される歩道橋

☆ 憧れの余部鉄橋見てみたい
☆ カメラ向け余部鉄橋の撮り納め
   私も余り寒くならない内に行きたいと思っているが、初めで最後だ。

☆ 橋のない三途の川は渡れない
   三途の川は浅いのか?現世で身分のある人も庶民も、差別なく歩いて渡るの   でしょうね?

☆ 渡り賃高いと思うかづら橋
   徳島の「かづら橋」と思いますが、怖い目をするのに高いと思いました。

「俳句」と違って「川柳」はストレートに瞬時にその情景や心を感じる事が出来ます。

「古里に・・・・」のどかな田園風景に突然現れる立派な橋、旅人の私にすれば景色に溶け込んだ木の橋で在ってくれればと思いますが、生活している人にすれば道幅も取れる「コンクリート」の橋が喜ばしいのでしょうね。「コンクリ」と言う言葉に時代を感じます。

「胸がキュン・・・」本棚を目で追いました、ありました。震災後は本はなるべく買わないようにしていますから、買ったのは、もう十数年前になるでしょうか。
読んで、「秘められた思い」に憧れて、映画も見ました。映画になってからアメリカのアイオワの1833年に立てられた屋根つき橋は火事でほぼ全焼した。1998年にたてかえられ、小説がベストセラーになり、映画化されてからは、毎月数千人の人が訪れ、観光地となった。「何処も同じ・・・」人間の好奇心。

「渡り賃・・・」私が訪れたのは朝早かったので、誰も居ませんでした。お金を徴収するおじさんが居て記念撮影をしてくれました。顔が引きつって見えます。木の蔓を編んだ橋ですから、川底が丸見え、足元も荒く編まれて居ますので足がすっぽりはまりそうな恐怖心、一歩一歩へっぴり腰で渡った思い出。私が「怖~い」と叫ぶ度に暇なおじさんが此方を見て笑っていました。渡った対岸の石垣に見事に咲いたシュウカイドウ忘れられない思い出です。秋だったのです。そのとき初めて「紙漉き」も経験しました。免許取立ての頃のたびの思い出の一つです。

言葉で色んな事を思い出せるのは、長い間生きてきた者の特権ですね。



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プロフェッショナル

2006年10月13日 | テレビから
             (見~つけた)
       私は食べた事がない、甘酸っぱいとか
         見て楽しむ物の様な気がするが

地上は花の絨毯「此処にも金木犀があった?」落花を見てその在を知る。金木犀は咲いて2~3日しか匂いはない。鹿児島の主人の従兄弟の家には一人では抱えられない太さの幹を持った金木犀がある。花時に見たことはないが、枝が葉が黒々とした影を作っていた。

プロフェッショナルと言う番組で今週は「ベストセラーはこうして生まれる」と題する「編集者」だった。登場人物は幻冬舎の石原正康さん。私は幻冬舎の本をよく読む。この出版社は何時出来たのだろう。どんな人が作っているのだろう、と考える事があった。今日図らずも知る事になった。

石原さんは「自分の言葉で仕事をすることって大事だと思うんですよな、借りてきた言葉ではなくて。上手くいかないときに、裸になって自分の言葉で人に接していく。それができる事がやっぱりプロフェッショナルではないでしょうか」と言う。

石原さんは作家希望で5度挑戦して、全て落選。せめて本に関わる仕事をしたいと思い、大手出版社に入る。「編集者助手」をしている時に「山田詠美さんの小説」に衝撃を受け、便箋10枚に心を託し作品依頼をする。石原さんはこの頃に仲間と「幻冬舎」を起し、経営者であり、編集の最高責任者として、今、驚異的なペースでミリオンセラーを連発している人である。

山田さんの作品は泉鏡花賞の「アニマルロジック」しか読んでいないが、凄い筋書きを考える人だな~と思ったし、長編だったが一気に読んだ記憶がある。文芸賞、平林たい子賞、女流文学賞、読売文学賞そして直木賞を取っている凄い人なんだ。

この世界だけではなく、自分はヒーロー・ヒロインになれないけれど、育てる事の上手な人はいるもので、本の世界では石原さんは育て上手と言う事らしい。作家にとって作品は子供、命である。その作品を世に出すのが編集者(助産婦)だと言う。執筆中の作家は孤独だ。その苦しい時に電話し、時には手紙を書き心を尽くして励ます。

山田詠美さんのほかに吉本ばなな(キッチン:泉鏡花賞だけ読んだ。若い人に圧倒的な人気と聞く)渡辺淳一さん(失楽園他多数読んでいる)村上龍さん(限りなく透明に近いブルー、13歳のハローワークは孫に買った。今「半島を出よ」を図書館に申し込んだのが1年まえ、まだ順番まで30人いる、何時になるやら)天童荒太さん(永遠の仔:日本推理作家協会賞、長編、他を読んだ)白川道さん(読んでいない。間もなく「斜光の午後」と言う3年かかりの長編が出るらしいので、読んでみようと思っている。)の本を世に出した人だ。

作家との接し方は「全身全霊で褒める」:作品を一番に目を通すのが編集者で、原稿を受け取るとすぐさま読んで感想を伝える。本当に良いと思った所を言葉を尽くして褒める。決して嘘は言わない。

「熱を広げていく」:「熱が広がっていくのは口コミしかない。時には書店廻りをして店長に直接作家のその本に対する気持を伝える、広告を打つ事もあるがそれはあくまで告知である。読者が感想を友人知人に知らせる、いわゆる口コミが熱を広げていく最高の方法である。

本が好きで良く読んでいるが、「編集者」とは原稿の間違いをチェックする人ぐらいに思っていた。売り出すのが「編集者」の仕事とは思いもしなかった。これから本を読むときは、この本を世に出した人はどんな人かと「編集者」を思い浮かべるかも知れない。私が幻冬舎の本を多数読むと言う事は、間接的に「石原正康編集者」のファンと言う事になるのだろうか。









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日本語と英語どちらが大切?

2006年10月12日 | 気にかかる
              金木犀
         良い匂いに誘われて見上げると
            金色の花が一杯
    今の子供はこの匂いを「アッツ!トイレの匂い」と言う
              苦笑もの

安倍内閣は「論功行賞内閣」「スネに傷持つ強面軍団」とか言われている。そういえば何となくフレッシュと言う言葉とは無関係な面々と言う感じは受ける。

でも安倍さん変わられた。総理の顔、態度になられた。変わり身の早さに、幹事長時代から鏡に向かって「総理になれば・・・」と練習しておられたのではないか?と思うほどだ。

安倍総理が「教育問題」を柱の一本に掲げておられるからか如何か伊吹文明文部科学大臣も走り出した。伊吹大臣はインタビューで「小学校の英語教育の必須」を「必要は全くない」と切り捨てた。

小学生の時から習った方が良いという理由として「発音」の問題がある。流暢であるに越した事は無いとは思う。しかし生きていく為に英語が必要な人はほんの一握り、そのために皆でゆとり教育で基礎の学問の時間が削られている上に「英語」をと言う所に無理があるのかな~。

日本人である限り、生きている間中、日本語が必要である。だから日本語をもっと読み書き自由に出来るようにして欲しい。伊吹さんが「国民として生活する最低限の能力と義務を考えるのが義務教育。これが果たせてないのに別のことをやってもいけない」と言われるのはご尤も。しかし思いつきの様にコロコロ変わるのも如何なものだろうか?

確かに外国では小さい時から異国の言葉を習う国も多いようだが、自国語が他国ごと同様、荒っぽい言い方をすれば「しゃべる文字を書くだけ」の国語の様な気がする。だから容易にしゃべれるようになるんじゃない?

日本語は「カナ、かな、漢字、音読み、訓読み、敬語、丁寧語、現代語、古典」等々複雑に入り混じったり離れたりしている。これを身につけるのは、曽野綾子さんじゃないけれど「読書」と「作文」を習慣付けるのが大切だわ。「読書」は重ねていくと「字面」の言葉だけではなく、所謂「行間を読む」事が出来るようになり、そうすれば、自分の感じた事を素直に書けるように成れるのではないか。何も美辞麗句を使った文章を書くのではなく、自分の思いを相手に伝える言葉を書ければいいだけなんだわ。そのために時間を使って欲しいと思うのだわ。

しかし「字面」だけでないとすれば、小学校の国語の先生は大変な事になるかもしれない。音楽の先生が別に居られる様に「綴り方教室」は別の先生が必要になるかもね。でも「英語の先生」を雇う予算があるなら可能だわね。

新聞は言います「教育現場で何よりも急がれるのは、国際化ではなく、教師の質の向上だろう。いまだに「日の丸」「君が代」を目の敵にしている教育労働者の皆さんは論外としても、教師が凡庸なら子供達の才能が開花する可能性はぐっとひくくなる。指導者がいかに大切かは野球やサッカーの監督を見れば一目瞭然だ。教育改革はつまるところ教師改革に尽きる。

英語は中学・高校6年も習えば。老年になって「また英語勉強しようかな~」と思った時も、「昔取った杵柄」と取っ掛かり安いと思う。

歴史から外国を知るのも大切かな~。日本の歴史も、現代から遡って習うのはいけないのだろうか?外国の歴史も然り、今を知って過去を知ると言うのも案外覚えやすい気がするのですが、如何でしょうか?



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真山青果「元禄忠臣蔵」

2006年10月11日 | テレビから
            (神戸花鳥園)
      その時々によって展示される主の花が違う
       行った日はストレプトカーパスだった
            今は何だろうか?

東京国立劇場で今月から12月まで、中村吉右衛門、坂田藤十郎、松本幸四郎の3人が月替わりで大石内蔵助を演じる「元禄忠臣蔵」は青果版忠臣蔵だと言う。私は「忠臣蔵」大好き人間だ。映画になれば見に行くし。小さい頃は舞台で見た。戦後は「忠臣蔵」があだ討ちの話である事から、アメリカの命により上演禁止の時代が長く続いた。

禁が解けてからの「忠臣蔵」は登場人物の名前が変えられていた。大石内蔵助が大星由良之助に変えられていた。私はまだ物事を深く考えられる年でもなかったし、「進駐軍に気兼ねして名前をかえた」と教えられ今日まで来ている。

「気兼ねして云々・・・」は当たらずとも遠からずらしい。私が見ていたのは「仮名手本忠臣蔵」で、これは「忠臣蔵」の語源で、全11段の長編歴史物。二代目竹田出雲(初演した大坂竹本座座長)並木千柳、三次松洛の合作。元々は人形浄瑠璃の作品だったが、歌舞伎にうつされ、最近では狂言での上演もあり、不況の時でさえ、これを上演すれば必ず成功する(私もその様に聞いていた)といわれた。作品内では、大石内蔵助が、幕府の咎めを避けるため、「大星由良之助」と表現されている。寛延元年(1748年)義士討ち入りから47年目の年に大坂竹本座で初演。

浅野内匠頭の刃傷や吉良邸討ち入りの場面がないのが、青果「忠臣蔵」の特徴だそうだ。それ故に、浅野内匠頭が何故刃傷に及んだか分からない。勿論この見せ場がなくとも沢山の見せ場はある。南部坂雪の別れ:討ち入り前日、内蔵助が内匠頭の未亡人瑤泉院に暇ごいに訪れるが、敵の間諜の気配を察し「他国に雇わて・・・」と嘘をつき血判状を渡して去る。又、赤垣源蔵徳利の別れ:兄に別れに訪れたが、生憎の不在、兄嫁は仮病を使い会わない、兄の紋付を借り、紋付に別れの杯をして帰る。人によって好みの場面はあるだろうが、上記は私の涙の洪水の元でお気に入りの場面である。

私の見ていたのは「刃傷の場面」も「討ち入りの場面」もあったから「仮名手本忠臣蔵」の方である。何故「仮名手本」と書くのかと気になっていた。「仮名手本」は「かな文字47字」と「47人の義士」を掛けているそうだ。シャレてるね。

真山青果の「元禄忠臣蔵」連作10篇こそはその頂点に立つ傑作である。周密堅固な構成、重厚な台詞回し、そして論理と論理が激しくぶつかり合って火花を散らす登場人物の対話。力強い緊張感が深い感動を呼び起こす。

益々見たいな~。歌舞伎は夜の部が昼の部より良いので、私の好きな「南部坂雪の別れ」「徳利の別れ」等は「夜の部」の様な気がするので日帰りは難しそう。若い頃からの希望としては「東京国立劇場で忠臣蔵の昼夜通し」を見ると言う事だった。希望の絶好のチャンスが来ているわけだが、昼夜通しは体力的にきつく、折角の夜の場面で寝てしまいそうな予感。あ~ぁ年は取りとみない!

☆真山青果:作家であると同時にまた、西鶴語ひょう研究、江戸地誌研究の第一人者。「元禄忠臣蔵」連作の抗争にあたり、とりわけ徹底した資料調査を行ったと言う。その周到綿密な史実考証・言語考証が全編に独特の風格を漂わせ、そのなかで血の通った人間のドラマが展開される。

3ヶ月に渡る上演場面には私の大好きな場面はなさそう。行きたい気持ち半減。青果の「元禄忠臣蔵」は岩波文庫に在るらしい。今度探してみよう。そしてせめて文字で雰囲気を感じてみようか・・・




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世界の子供の俳句の世界

2006年10月10日 | テレビから
            アイビーゼラニューム
         四季咲きなので思い出したように咲く
            やはり秋花は色が濃い

神戸に行く電車に外人さん3名が乗ってきて私の隣に座った。英語でぺらぺらお喋り、分からないながら目を瞑って集中して聞いていた。日本風に「センター街」「元町」と地名が出てくるのは当たり前、「スベリドメ」と単語が出てきたのには驚いた。「スベリドメ」は「スベリドメ」で外人さんにも通じるんだと、変に感心、納得する。外人さんにもお喋りの人と相槌だけの人が居るんだな~。

            ・・・・・・・・・・・・

11月の小学校の同期会の最終打ち合わせだった。集まったり11名。

欠席者の葉書を見せていただく。一番多かったのは「足腰弱って遠出が出来ない・・・」が一番。次が「持病」。「親の看護」も多かった。老々看護だ。一人だけ、ご主人が書かれたのでしょう「認知症の為、一人で出歩けません」とみちこさんの葉書。皆に衝撃がはしった。私のクラスなので私達は知っていた。如何しているかと気にはなっていたが、現在まだ進行中と分かった。とてもはきはきした人で、しっかり者だっただけに皆の驚きは大きかった。たった一ヶ月前に亡くなった人も居る。

結局、出席予定者は30名、先生3人になりそうだ。私達のクラスは割りと多いのだが、一応電話攻勢をかける事になった。わがクラスは仲良したまちゃんがその任に当たってくれる事になった。

何時も思う事だが、ウンともスンとも言ってこない人がある。返送は2通だけなので、着いている事になる。この人たちは今度から通知しない事に決める。

食事をしながら私はみなの手元をそっと見た。全員及第。お箸は正しく手に握られていた。それなら、何時頃から今の乱れた箸の使い方になったのだろうか?

            ・・・・・・・・・・・・

今年の7月、俳句の世界的イベントが松山で開かれた。大人ではありません、子供です。俳句が世界で認められている事は知っていましたが、子供の世界でもとは知りませんでした。

1989年から2年毎に(一寸計算が合わない、ま~いいか)日本で開かれている。場所は、日本の俳句に関わりのある土地で開かれるようだ。今年は何故松山か?正岡子規の生地だからである。

17カ国、2万2000人応募の難関を勝ち抜いた子供達の集まりである。

香港からの子供:小学3年のときから詠んでいる。

アメリカの子供:小学校の選択科目で選んだ(日本ではどうなっていますか?私の時代はほんの少し中学で習って、作ったような記憶、アメリカでは選択科目にあるんだって、日本でも古くからあるものをもっと大切にすべきではありませんか?)

ロシアの子供:日本文学が好き。(嬉しい事を言ってくれるね)

芭蕉は100カ国で知られているとか、日本の小学生は芭蕉知ってる人どの位かな~

三日間を俳句に関係する場所で、自然の中で経験俳句を作る。最小限の言葉で表現する俳句は表現力を磨くのに良い。

ロシア アントン君
     青い海 投網と赤い 萩の花  
(ロシアの海は凄く冷たい、大方氷だ)

ニュージーランドのザイカリ君
     夏の蝶 美しく咲く 音もなし  
(短いから難しいけど、気持ちを俳句に素直に表現できた時は愉しい)

特にザイカリ君の句、私好みで、だ~い好き。

勿論、彼らは自国語で書くわけだから5 7 5ではない。俳句に詳しくないので分からないけれど、外国でも、季語は入れるようになっているのだろうか?

日本で培われた言葉の芸術が世界を結ぶ。 (英語でしゃべらナイトより)
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与 勇輝 人形芸術の世界

2006年10月09日 | 一寸そこまで
             たますだれ
        もう咲かないと諦めていましたら
         ひっそりと8輪咲きました

庭の木の上で「ピョピー ピョピョピー」聞きなれない鳥の声。声はすれども姿は見えず、あそこと思われる枝の辺りをじーっと見つめる。網戸を少しずつ開ける。見えない。もう少し開ける。気配を感じてのか黒っぽい小さな鳥があっという間に飛び立った。はるか向うの屋根の彼方に・・・鳥の飛行速度は時速何キロ?

与 勇輝(あたえ ゆうき)さんの人形展(布の彫刻と呼ばれている)が大阪の高島屋で10月23日(月曜日)迄開催されている。「徹子の部屋」で与さんの人形の事は知っていた。見たいと思っていた。富士山の麓の河口湖のそばに「河口湖ミューズ舘」があると知っていたので、いつかは行って見たいと思っていた。

今回は小津安二郎監督の名作映画にまつわる作品約20体を中心にした新作と代表作である。

お人形はグループ毎にケースに入れられ、バックには鏡が据えられて後姿も見えるようになっていた。お澄ましの顔、悲しみの顔、勝気な顔、賢そうな顔、同じような顔なのにどうしてちがうのかしら?目と口元の微妙な違いで表現されていると感じた。子供の何気ない姿をよく研究されていると感心する。

人形本体だけではなく、着物も、足袋も、わらじも、下駄も、靴も、そして全ての小物も手作りだと言う。お人形は40センチ程の小さいものだから、小物は尚小さい。なんて器用な方だろうと思う。

昔の子供のお人形は皆着物を着ているわけで、当時大きくなっても着れる様に肩、腰に身上げがしてある。肩上げはそんなに多くないが、背は伸びるので、腰からお尻の辺りまで身上げがしてあって、伸び盛りであることを示している。

1/3ぐらいは、与さんが、最近、妖精に心引かれて、妖精の感じに作られている。私は「昔の子供」の方が好みだが、妖精シリーズでも今風の携帯電話でメールを打つ子、電話で話す子は大好きだ。孫娘を思い出した。彼女が携帯を操る姿がそのまま其処にあったから。観察力の凄さに「凄い!」の一言。

今年(2006)2月、パリのバカラ美術館でも個展をされたそうだ。パリの人の目にはどの様に写ったのだろうか。2000年にはニューヨクでも個展を開かれ会期を2週間も延長するほどの人気だったそうだ。

与さんは1937年9月生まれ、69歳、同世代と言える。

彼の言葉:私の育った時代は子供達が皆それぞれ個性を持ち日々を仲良く、楽しみを共有し、一体感を持っていた。パリに連れて行けなかった子、未発表の作品、およびこれまでほとんど見ていただけなかった作品を120体展示した。

主人は与さんの人形の存在さえ知らなかった。しかし人形の表情の豊かさ、身のこなしの実写には感心していた。これで私の希望「河口湖ミューズ舘」行きが容易になった。嬉しいお土産が付いて来た。

大阪の人出の多さ、心斎橋は若者の町と化していた。ここでも老舗が姿を消し、何だかちゃらちゃらした町になった気がする。昔は電車賃を使っても南に出たいと言う気になったものだが、これでは北に取って代わられるだろう。昼食もなんだか北に帰って食べたくなって、帰ってきた。「ブルージィーン」と言うお店のパンがとても美味しく気に入った。しかし人ごみは疲れる。二人とも帰宅後は一眠り、老夫婦の貴重な、そして大切な一日は終わった。





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