ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

いじめ

2006年10月15日 | 気にかかる
            シュウメイギク
          今を盛りに咲いています
       長~い茎の上でゆらゆら揺れています

小学生と言えば「孫」の時代の私達の会話にも「いじめ」の話が出るよう仁なった。それだけ「いじめ」とだけではすまない「自殺」にまでいってしまう件が増えたからだ。

北海道の少6の女の子、去年の9月に自殺を図り今年1月に死亡した。4ヶ月の間の学校や市教委の応対は如何だったのだろう。「自殺」する直前に行われた修学旅行の部屋割りで女児だけが決まらなかったそうだ。担任はこれをどのように処置したのだろう。楽しみにしていた修学旅行、もしかしたらこれがきっかけで皆の中に溶け込めるかも知れないと期待する心があったかもしれない。それが裏切られて「自殺」を実行してしまったのだろうか。

今年の1月まで命はあったわけだから、その間に修学旅行は行われたのだろう。小学6年生の同級生は修学旅行を楽しんだのだろうか。病床にある友の事はさっぱりと忘れたのだろうか。口には出さないが心痛めて、彼女を想った子も居たと思いたい。彼女をかばう事は今度は自分が「いじめ」に遭うと実行に移せなかった子が・・・。

後半年待てば卒業、中学校に行けば又状態は変わったかもしれない。これは第三者の言い分であると承知の上で言っている。毎日が針の筵、半年なんて永遠の時間だっただろうが、でも生きて欲しかった。私は考える「自分の命を絶つ心」と「耐え忍ぶ心」とどちらが強いの?

長い人生「死にたい」と思った事は誰でも一度や二度ははあるだろう。実行に移したこの女の子は「強い子」「弱い子」どちらなんだろう。「いじめ」を受けて我慢している子に言いたい。「永遠に続く辛さ」は無いと、いつか笑える日が来ると・・・

長期間ではないが「いじめ」を私も受けた経験がある。私の場合は1対1だった。集団疎開から帰って転校した時だ。終戦間もなくで、まして焼け出されて何もかも失った時代。母が自分の着物を私の服に仕立て直してくれた。今でこそ和服を洋服にするのはしゃれているが。そして転校した小学校の子供達は幸せな事に焼け出されていなかった。私の服装が目立ったのだろう、休憩の時間になると私のそばにやって来る。にやっと笑いながら近づいてくる彼女を今でも、髪型、額に出来ていたおできの位置、着ていた服まではっきりと覚えている。

学校に行くのが嫌だった。行かないと母が心配する、母には知られてはならないと思っていた。私は一人悩んだ。ある日決心した。相手にぶつかってみようと。「窮鼠猫をかむ」の心境だ。「放課後お話しよう・・・」とそれまで一言も言葉を返さなかった私の申し出に彼女は驚いただろう。どのような話の内容かすっかり忘れているが、校庭で砂に何かを描きながら(お互いに相手の顔を見ないで)話し合った。そして私達は毎日一緒に遊ぶ程仲良しになった。

これを「いじめ」と言うのかどうか私には分からないが、私が学校に行きたくないと悩んだのは事実だ。私が彼女と話そうと思ったのは、考えに考えた挙句「彼女は私に興味があるのかもしれない」と思ったからだ。しかしそれ以後仲良しさんは沢山出来たが「この話」はした事はない。

遠い昔の話だが「いじめ」と聞くと思い出してしまう。だが決して私が今でも彼女を恨んでいるのではない。彼女の事は大好きだし、それ以後の良い思い出の方が沢山ある。「いじめ」とはこの様に心の底に沈んではいるけれど、決して消える事のないものだと言う事です。
                        (190回)
コメント (4)
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