ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

読書の秋

2006年10月01日 | 読みました
             (見~つけた)
       三宮の店先、店長の許可を得て・・・
     活花は見たことがあるが、鉢植えは初めて
      葉は芙蓉のように大きいが、取ってある
        こうすると水なしで2ヶ月は持つ

久し振りに熱いお茶を入れる。濃いお茶が欲しくなった朝。やっぱり美味しい日本茶。お茶請けも欲しい。体重増加にご用心、食欲の秋。

    晩年の美学を求めて  曽野綾子  朝日新聞

曽野さんの本何となく違和感があるのに何となく読み続けている。曽野さんが敬虔なカソリック信者である事に起因があると分かっている。

このたびは「晩年の美学を求めて」あ~固そう!と思いつつ手にとって終った。28文からなっている。所々抜書きしてみる。

★その存在が、自然でおもしろく、輝いて見える人間と言うものは、やはりさまざまな意味で、自立している人、個人で毅然として生きている人。

★「分相応」を知るということは生きてきた者の知恵の一つである。逆の言い方をすると、すべてしたいことをして生きた人など、1人もいないのだということを体験的に知るのである。

★人間が生涯の設計を計画するなどということは不可能に近い、むしろ思い上がりだと思うようになったのである。晩年の便利さは確かにある。晩年になれば仮に100歳まで生きたとしても、年間幾らずつお金を使って死ねばいいという計算が出来るようになる。

★人は孤独な時間を持たない限り、自分を発見しない。人は二つの場面で自分を見つけるのである。群れの中に居る自分と、自分一人になる時とである。

★外国人から聞いたもので「人は皆、その年齢ほどに見える」・・・一瞬若く見えても、数分見ていると身のこなしなどに何処か老いの匂いがしてくる。うんと老けて見えてもじっと見ているとひそかに残された若さが吹き出る事もある。

★「単純労働の重い意味」と言う文。此処が一番「そうだそうだ」と思った。
50代ですっかり老け込む人も居れば、幾つになっても頭も体もしっかりしている人が居るが、その健康や頭脳の明確さを何時までも保持していると信じる甘さはいけない・・・つまり高齢者は責任ある仕事を続けられる保証が無い・・・故に高齢者は原則として責任ある立場についてはいけない。

★ごくありふれた、平凡で何時でも代替のきく仕事。その手のものは若者ではなく、高齢者が引き受けるべきものだ。若者の数が減り、高齢者が溢れる時代になったらなおさらのことだ。それを屈辱的な作業だと思うようなおろかな姿勢は徐々にではあっても排除しなければなら無い。そしてそのような平凡な仕事の中でこそ、経験も読書も重ねてきた高齢者のみが、もしかすると単純労働にかかわりながらあらゆることを考える能力を発揮できるのではないか。

社会でなくとも、一つの集まりにも言えることだと思う。同じサークルに長い事居ると本人も周りも「出来る人」と言う錯覚が起きる。唯何度も経験しているが故の知識で、特別その人が優れているのではないのに優れていると錯覚してしまう。そしてリーダーになろうとする、そうする事は後輩の経験(経験は一番の勉強であると考える)のチャンスを奪う事になる。経験は援護射撃的に使われるべきもので、後輩の道を絶ってはならない。

人を育てる事はたいへんな事だが、豊かな経験はそちらに使うべきだと考えている。私もその時々に良い先輩に育てられて、新しい経験をさせていただいた有難さは忘れない。これこそコミュニケーションの一つの形だと思うが、如何でしょうか?
コメント (6)
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