ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

ドロシー・ロー・ノルト先生

2006年10月08日 | 備忘録より
             萩(江戸絞り)
       小粒の花です。今年は沢山花をつけました
    日陰の花かと思っていましたが、お日様が大好きとか
       夏、日によく当てたのが良かったのかも

        「子供」

批判ばかりされている子どもは、非難する事をおぼえる

殴られて大きくなった子どもは、力に頼る事をおぼえる

笑いものにされた子どもは、物を言わずにいる事をおぼえる

皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心の持ち主となる

しかし激励を受けた子どもは、自信をおぼえる

寛容に出会った子どもは、忍耐をおぼえる

賞賛を受けた子どもは、評価することをおぼえる

フェアプレーを経験した子どもは、公正をおぼえる

友情を知る子どもは、親切をおぼえる

安心を経験した子どもは、信頼をおぼえる

かわいがられ、抱きしめられて子どもは、世界中の愛情をおぼえる

どの言葉も真実を突いている。私が一つ選ぶとすれば「安心を経験した子どもは、信頼を覚える」子どもだけではない、大人にも当てはまると思う。信頼はコミュニケーションの中心であると思う。

ドロシー・ロー・ノルト博士:1924年、アメリカ・カリフォルニア生まれ。40年以上にわたり家族関係についての授業を多くの大学や病院を中心に行っている。3人の子供、2人の孫、ひ孫も5人いる。著書「子どもが育つ魔法の言葉」は国境を越えて親しまれ、特に日本では200万部近いベストセラーになっている。

皇太子さまが2005年2月23日お誕生を迎えられるにあたって記者会見されたお言葉の中に、一遍の詩がありました。(愛子さまの教育問題のお話の中)それがこの詩「子ども」です。

私はこの言葉に感銘を受けた。本屋さんに行って調べたが、見つけ出す事が出来なかった。そしてネットで調べだし、数枚プリントし、当時属していたクラブの方々に差し上げた事を思い出した。

ある雑誌の取材の記者がドロシー先生にお会いした時(2000年頃)語ってくださったという言葉:「子育てには愛が一番大切だと言う事です。子育てには愛が一番大切だということは誰でもわかっていますが、がむしゃらに愛を振りかざすと、バランスを失ってしまう」そしてその時に教えてくださったのがドロシー先生の[3A]
accept (アクセプト):ありのままを受け入れる
appreciation (アプリシエーション):その子の存在に感謝する
affection(アフェクション):大切だと思う気持ち

この頃の「親の子殺し」「暴力の後の死」その親自身が親の愛を受けずに育ったケースもも多いと聞く。無意識の内に自分の受けた「愛のない生活」がむくむくと頭をもたげてきた結果の行動だろうか?私にはそうとしか考えられない。

これとは反対に「子を道ずれにする心中」これも間違っていると思う。後に残す子が不憫と道連れにするのだろうが、この親子心中の話を聞くたびに私は思う、道連れにされる子ほど不幸な事はない。不幸にして一人で生きていけない頃に親を亡くしたとしても、子は生きていれば長い人生又良い事も巡って来る。「命あってのものだね」ではないか、残す不幸より、短い人生を終える事の方が不幸であると。へその緒を切ったときから、子は親と別の人生を歩んでいるのである。

私の心の中にも色んなものに対する愛はふんだんにあるけど、その分配が難しい。与えすぎると相手は重荷と感じるだろうし、控えると冷たいと取られるだろう。しかし子どもを育てる時だけはべつなんだ。一杯与えていいんだよね。あ~もう一度やり直せるものならやり直したい。

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相乗効果

2006年10月07日 | テレビから
              (神戸花鳥園)
           天井から吊り下げられた花々
             見渡す限りのお花畑
               癒しの場

第一回の植え替えをした。小さな本葉が一生懸命生きようとしている。同時にまいた種でも、早、差が出ている。しかし早く大きくなった苗がそのまま大きくなり、花をつけるとは限らない。小さかった苗が沢山花を付けることがある。花にも「大器晩成型」がある。

「一期一会」と言う番組を始めてみた。異なった道を歩んでいる、同世代の人達の出会いの場を作り、お互い相手から何かの刺激を受けようと言う事らしい。25歳以下であれば応募できるようだ。訪れる人を「いちごさん」受けてたつ人を「いちえさん」と呼ぶ。

今週は「いちごさん」は教師になりたくて、受験するも2浪しているA さん。迎えるは辺鄙な田舎町の跡継ぎのない旅館の跡継ぎに入り女将をやっているBさん。

Bさんは旅館は週末だけの営業で、他の日は、従業員として雇った若人と、自然資源として沢山ある竹やぶの竹を切って、炭にする仕事をしている。私のところの竹もお願いすると頼まれる事が増えていると言う。地域のお年寄りのお相手をしたりと、地域密着型の生き方をしていて、一つ成功を見れば、又、新しい事を考える。

その生き方を見てAさんは自分は子供が好きだが、その仕事が「教師」だって考えるだけで、それが自分の天職であると考えるには迷いがある。次々と自分のしたいことを見つけ、実行に移していくBさんの生き方を羨ましいと見ている。悔しいとも思う。

3日と言う期限が来た時、Aさんはやっぱり教師になる事を決心する。迷いが解けて、教師になる決心をして帰る。教師になったら、子供達に学校は愉しいところだと教えたい。色んな事を考えて実行に移したい。学校の教師で輝いていたいと思う。

同世代同士、相手に触発されて前進する。その場を与えて、相手を探してあげる良い番組だと思います。

若い時は迷って迷って良いのではないか。真剣に自分の生き方を見つめれば、迷いが出て当然と思う。彼女が教師の試験に通って、先生になれば、きっと良い先生になるだろう。一度もすべる事無くなっていたら、弱者の心の分からない先生になっていたかも知れない。「人生に無駄はない」の言葉通り良い先生になってくれると思う。

私大の小学校が次々とオープンする。年間100万円は一寸大きな出費だが、ある程度の成績であれば、大学までエスカレーターで行けるのて塾に行く必要もない、とすれば案外安いかもしれない。高い競争率と言うのも頷ける。

ネットで見ると、お月謝が高い分30人学級で先生が二人、教室や施設もゆったりと作られている。情操教育にも力をいれているようだ。進学校の様な必要以上の競争もないだろうし、ゆったりと成長できるのではないかと思う。

私学はお金持ちの家の子の学校だけれど、少子化となれば、学級単位の人数も減るし、先生の目も届くようになるだろうし、少子化は悪い事ばかりではないような気もする。少ない子供をしっかりと育てていけばいいのではないかと思う。そうする為にはもう一度今の制度を見直す必要はありそうだ。

私達のひ孫が良い環境で愉しくお勉強できるように、しっかりした土台作りを、安倍さんたのんまっせ!



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曽野綾子さんの「正論」

2006年10月06日 | 新聞から
            (神戸花鳥園)
         こんな大株を見たのは初めて
          やはり専門家は違うな~

雨上がりの今日の空は真っ青な色、久し振りに見たようで、何度も見上げてた。

唱歌の学校で野菜作りをしている方が皆さんにと「紫・・・」と言ううまい菜の様な、今朝取りの菜っ葉をくださった。スーパ-では見られないその新鮮な菜っ葉を、おあげさんと炒め煮にした。美味しかった!ありがたい夕食の一品でした。

曽野綾子さんが「”読み書き”不自由になった日本人(恐れる深刻な「知的格差」の発生)と言う文を書いておられた。曽野さんは過って「教育審議会の委員」をしておられた。

★ 突き詰め考える哲学なし:日本の教育の現状は、悪い意味でマイナスの飽和点、どん底まで来ている。・・・日本人は頭は悪くないと思われるのに、日常生活では単純で幼稚で、教育は普及しているのに読み書きも十分でない・・・突き詰めて考える哲学を持たない。

手厳しい。学生を家庭内に持たない私でも、そのことは何となく感じている。通知表も3段階ぐらいの分かり難さである。人が2人以上集まれば自ずから上下が出来る。こんな簡単な事を無視して一列に並べようとする。

ゆとり教育とかで勉強時間を減らし、ゆとり時間だけを与えて、ほったらかし。私が「ゆとり教育」と聞いた時イメージしたのは、その時間は勉強以外のその子の好きな事をする時間だと思っていた。其処にはそれを指導する人が居て教える。主任は教師でも指導するのは地域の老人の力を借りればいい。

私は野外講座の様な感じで教える時間に招かれた事があった。私は編み物を教えたが、他にマジック、竹とんぼ、折り紙、布の小物等自分の好きなものを選ぶようになっていて、体育館でグループに分かれて指導を受けるのである。編み物を選んでくれた子は7~8人居たと思う。後日、夫々が感想文をかき、学校から纏めて送ってくれた。嬉しくて大切に残してある。

★最近の私の驚きは多くの若者、中年達が本を読まなくなった事だ。彼らはほとんど自分の考えを自由に文章で表現する事が出来なくなってしまっている。つまり教育が普及していれば当然できるはずの「読み書きそろばん」のうち、すでに国民の多くが読み書きも不自由になっている。

昨日のブログで私も「読み書きそろばん」と言う言葉を使ったが、今は「そろばん」の時間は3年生でちょっぴり習うだけで、教室に電卓を持参する「算数」の時間だと聞く。

★手抜き教育の弊害顕在化:作文能力は読書の量に比例する。敬語も読書によって学ぶ。人権や個人の思想行動の自由を求めるなら、自己が自己であって他人とは違う点を認識し、述べなければならない。作文教育を重視して、しすぎる事はない。長年の○×式答えでよしとしてきた手抜き教育の弊害がようやくはっきりしてきた。

作文や国語の答えを○× でなくすれば先生の質も問題になろう。入試に小論文を重視でもしない限り駄目なような気がする。

★作文と読書の習慣付けを:「ノー・テレビ、ノー・ケイタイ・デー」も必要。週に一度の作文の時間と月1冊の読書感想文提出を習慣付ければ、子供達も変わると思うが、強硬な反対に遭うだろう。

夏休みに纏めて6冊読めと言う宿題より、月一冊の方が効果があるだろう。読書を好まない子に暑い夏に週に一冊は拷問に近い。本の選択は自由となれば、読書嫌いの子は年齢相応のものではなく易しい物を読もうとするのではないか。効果が薄いような気がする。








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給食費未払い

2006年10月05日 | 新聞から
            チェリーセイジ
          花自体は小さいが多産系
       暑い夏は力を蓄え、今又咲き始める

「義務教育」だから「頼んだ覚えがない」と小学校の給食費を払わない親が居るそうだ。信じられない!それも会計が苦しいなら分かるが「高級外車を乗り回し、携帯電話に何万円も払っているのに、給食費は払わない」

投稿者は茨城の52歳の男性で小学校の事務員。給食費未払い問題は、全国の学校事務職員の共通の頭痛の種で、同業者の集まりでも良くこの問題が語られるそうだ。

「義務教育」だから?学校の義務教育とは生きて行くのにこれくらいの知識があった方が良いと昔風に言えば「読み書きそろばん」を習う所ではないの?

「頼んでいない」?自分の作ったものを食べさせたいなら、先生の許可を得てわが子に昼は家に食べに帰るように言えば良い。子供はなんと言うだろう。皆と同じものを食べたいと言うだろう。

給食費は子供が決められた日に持参したと思ったが、良くスターの思い出話でも、家が貧しくて給食費が払えなかった。と聞く事はある。でも自分から払わない人があるなんて考えもしなかった。その親の親も支払いを拒否していたのだろうか?

給食費を払わない家庭は、学用品費やPTA会費、卒業アルバム代金も支払わないケースが多いようだ・・・給食費未払いの家庭に対して「修学旅行は費用を支払わないと連れて行きません」と言うと給食費はさておいて、修学旅行の費用だけは支払ってきたそうだ。

お父さんはこの事実を知っているのだろうか?祖父母は?本人は?給食費を払っていない事は本人も知っていると思うのだが、どんな気持ちで給食を食べているのだろう?

お金を払わなくても、子供に罪は無いから食べさせる、こんな温情主義が給食の未払いを増やしている、結局は、給食費を払わなければ給食を食べさせないとするより方法は無いと言う。

何故こういうことが起こるのだろう。私にはとても理解できない。保護家庭の子は給食費は払わなくても良いと聞いた事があるが、そこに端を発しているのだろうか?「あの子が払わないなら、私の子も払わなくてもいい」何事も平等であるべきと言う教育の間違った面ではないか。

栄養士さんが子供の発育に必要なものを計算して作っている給食、昼食の手間を肩代わりしてもらっている給食、月額いくらか知らないけれど、個人ではとてもその値段で子供に同じものを食べさせられない、安い金額であろうと想像する。感謝こそすれ「「頼んだ覚えは無い」なんて言葉がどの口で言えるのだろう。

食のついでに言うと「お箸の持ち方」どうしてあんなに変なんですか?食べ物をこぼさないようにと、スプン・フォーク?スプンの先がギザギザになっていて、スプンとして汁をすくい、フォークとして物を突き刺して食べる。息子達の少し後位から使用し始めたように思うが「こんな事しているとお箸が使えなくなる」と思っていました。「案の定ね」。時には握り箸に近い人を見かけます。どんなに美人でも、着飾っていても幻滅を感じますが、日本の文化である「お箸の」の正しい使い方は何処に行ったのでしょう、悲しく、残念な事です。

「お箸」が変なら、もっと悪いのが鉛筆の持ち方です。あんな持ち方でよく字が書けるな~と思うほど変な持ち方の人が居ます。字を書く美しい手元なんて、とんとお目に掛からなくなりました。こんな事古い考えでしょうか?「灯台元暗し」わが家族は如何だったかしら?今度良く観察してみます。
                            (180回)

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インスタントラーメン

2006年10月04日 | 新聞から
             (見~つけた)
            昔、葉鶏頭と言えば
           鶏のトサカの様な赤だった
        それが姿を消してこの種が全盛である

だんだん涼しくなって、汁物が欲しいと思うようになった。温かいうどんの出番だ。関西ではうどんはおかずと言う感覚でご飯と一緒に食べる。関東人は不思議らしい。うどんを主食と思っているかららしい。

うどんをつるつると食べた後ご飯を一口ほおばり、ご飯がまだ口の中にあるうちに、お汁又はうどんを放り込む、こんな美味しい食べ方をしないなんて、関東人は損してるよ。

我家では「鍋焼きうどん」が主だ。ぐつぐつと音を立てている鍋を食卓に出すのだ。七味をふり掛けてふうふうしながら食べる。勿論、その間には熱々のご飯を食べる。

昼には残りご飯が少なかったりした時に、ラーメンハーフサイズを量を補う為にも食べる。昔はカップ麺を(もっと昔は一つずつ)二人で分け合ってたべていたが、今はハーフサイズを一人一個に替わった。大きいカップ一つの値段よりハーフサイズの方が割高になるけれど、一つずつの方がマイペースで食べられるので好評である。

唯、カップめんは手抜き、体によくないなどが世間では言われているようだが、先日こんな記事が目についた。

ジャンクフード(カロリーは高いが栄養価の乏しいスナック菓子等)のイメージが強いインスタントラーメンだが、色の安全を確保し、栄養価や機能性を高める為に、様々な改良が加えられ、日々進歩している・・・面に含まれる油脂の酸化を防ぐ為にビタミンEが用いられているが、これは大豆油を精製する時に得られる自然のもの、着色料にもブドウ糖や砂糖を熱処理して得たカラメル、植物の紅花やくちなしの色素の自然素材が使われている。このほか現代人に不足しがちと言われているビタミンB1、B2、カルシュウムなどもくわえられ、保存料、合成着色料不使用で、揚げ油は100%植物性が使われている・・・原料も厳しい検査をクリアしたものが・・・検査や分析の技術にも日々研究がかさねられ、高い技術力によって色の安全は守られている。インスタントラーメンは知恵と工夫で作り上げられて居る・・・。

昼ご飯にはカップではなく普通の袋入りの時でも、一袋に野菜をたっぷり入れて卵でとじると二人分に十分である。

神戸でお気に入りの店の焼き豚を買って来た時はラーメンを晩御飯にする事もある、勿論ご飯つき。

インスタントラーメンは災害時の常備食としても買いおく、1ヶ月も置けばそれを徐々に食べて新しいものを補充して置く事にしている。まさかの時だけではない、風邪で寝込んで買い物に行けない時にも重宝する。我家の亭主は私が寝込んでも買い物に行く事を嫌がる。故に缶詰、インスタントラーメン、冷凍食品はは常備しておくように心掛けている。

病んで床に就いている時は「今度結婚する時は、買い物や料理をしてくれる男性とするぞ!」と心に誓うのに、元気になれば反対に「今度生まれ変わったら、料理上手に生まれたい」と思ってしまう。

生まれ変わっても女が良いわ。バリバリ働いて、勿論子供も生んで育てて、鳥飼久美子(同時通訳のはしり)さんの様に、子供一人じゃないよ4人いるよ。この間久し振りに「徹子の部屋」に出ておられた。お子さん皆成人されたそうだ。映画の翻訳、戸田奈津子さんも憧れるな~。映画スターにも直接あえるし・・・。

優れた女は優れた男より偉いよ!仕事もバリバリ、その上に子供まで生み育てるもの・・・
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尼崎白井市長のお話

2006年10月03日 | 今日この頃
              ランタナ
      5色ほどあったが今は白とこのピンクのみ
         色が変化しない白は珍しいが
            このピンクは平凡

先日まいた種が双葉から本葉を出し始めた。そろそろ一回目の植え替えをしなければならない。春咲きの球根達も植えてやら無くては、気ばかり焦って行動が遅れている。

尼崎白井市長の市政報告会があり出席しました。市長はベージュ色のスーツ、今風に言えばアース色と言うのでしょうか、インナーはグリーンでした。髪形が変わったのか少し感じが変わっていました。

報告会に先駆けて、「のじぎく国体」の開会式(尼崎に国体競技用プールがある)にご出席の天皇皇后両陛下の先導役を無事済ませて、その時のエピソード等語ってくださった。

会場に着くまでに長~い通路と階段があるそうだ。その長い道を無言で歩くべきか、どうか悩まれたそうだ。先導している時、皇后様の方から市の老齢化、介護保険等のことについてお尋ねがあったそうだ。それにお答えをしながらのご先導であったとか。
階段では天皇様が手すりを持ち片方で皇后様のお手をしっかりと握っておられたそうだ。なんと微笑ましいご夫婦のお姿だろう。テレビで拝見するときは天皇さまの腕に皇后様がそっと手を掛けられている。裏と表では反対なんだな~、仲むつまじいご夫妻なんだな~と感じ入った。たとえ市長と言えども、在職中にこのようなお役目に当たると言う事は白井市長の徳である。

四年前の当選の日から今日までで、800億の借金の700億の借財の返済をなした経過報告。その金銭収支の監査は今まで職員OBが就くのが慣例だったが、「なれあい」の危惧を避けるためにも民間の公認会計士に任せた。子供の教育、救急医療、障害者の自己負担をせず今までどうり市の負担にも力を入れた等話された。

尼崎の市長選挙が11月19日行われる。継続して職を遂行する為に「立候補表明」をされた。先回は選挙事務所が近かった為お手伝いをしたが、このたびは一寸離れて居るし、その時より年齢も4歳増えているわけで、お手伝いは出来ないかも知れない、心の応援だけになるかも知れないと思っている。

もう一人の立候補者は自民党の後ろ盾のある男性。家系から言っていつかは立候補するであろうと想像はしていたが、案外早かった。市議会議長の職を早々に下りた時、えっ!何故?と思ったが市長選出馬とは想像外であった。市議会でも最大派閥から出ている方。尼崎市議会は公明党の台頭が著しい。ふゆしばさんが安倍内閣の大臣になられたので公明は自民との繋がりを強固なものにするだろうし、その点で対抗馬の力は侮れないなと思っている。

立候補の白井文さんの基本政策「みらいのあなたへ」と言う声明文を書かれた。

   1.みがく市民力  
   2.大切な人を失わない  
   3.「おたがいさま、おかげさま」の地域づくり  
   4.あまあさきの子はあまがさきで育てる  
   5.工都・匠都・商あまがさき  
   6.公害のまちは環境の町へ」  
   7.もう「お役所」とは呼ばせない。
 
 各項の中身は「政策」「実績」とに分けて述べている。

内容が内容だけに少し難しい所もあるが、きわめて優しく書かれていて、理解しやすい。尼崎青年会議所主催で11月10日には相手との政策討論会があるそうだ。比較できる事が最大のメリットの様な気がするので、なるべく出席して聞いてみたいな~と思っている。

何はともあれ白井文さんのご健闘を祈ります。
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病児保育

2006年10月02日 | 新聞から
              ダリア
           春秋二度咲きます
           春のピンクは華やか
        秋のピンクはしっとり匂うよう
         同じ木なのに、こうも違う

何時もの夏なら編物をしますが、今年はさすがに毛糸を手に取る気にはなりませんでした。義妹が「お歳暮」は私の編んだ物がいいと言うので、編んでいます。もう何十枚もあって「皆大事に着ていますよ。私は冬は衣装持ちだ」と言って喜んでくれます。昔のように早く編めませんので今から編み始めます。

急な発熱などで保育園に通えなくなった子供を預かるNPO法人「フローレンス」病児保育園と言うのがあるそうです。昔から保育園は熱が出たりすると電話で引取りを要求されると聞いていました。働くお母さんにとってどんなに心丈夫でしょう。

東京の江東区、中央区に「フローレンス」はあります。年内にもう2ヵ所増えるそうです。会員制で入会金20,000円、月会費が5,000円~13,000円(月一回の病児保育出勤保育料が含まれる)良い制度に違いないが、この金額はやはり金銭的に余裕が無いと駄目かな~と言う気がしますが、病気は待ったなしにやってきますし、朝7時~夜も5時半まで(最高6時半)だそうですからまだまだ一時しのぎの感は否めないが良い会が出来たと思います。関西にも出来るといいのにとは思います。

会員になると、子供が病気(風邪の類)になると「フローレンス」に電話する→会が患者の地域の子供レスキュー隊に電話します→レスキュー隊が会員さんの元に駆けつける→子供の掛かり付けの病院に連れて行く、預かれる病気か如何かを判断するのだろう(親は会社)。→レスキュー隊の家でお預かり(求めに寄れば患者の家で見ることもある)と言う仕組みらしい。

地域の小児科とも提携しているそうです。患者の為に移動はタクシーを使用するので大手タクシー会社とも提携している。

レスキュー隊員とはどんな人:子育て経験、保育師経験を持った人、年齢は問わない。子供が好きで条件が合えば「病児」と言うのが一寸気持ちに重いが、病気も風邪程度とか病後とかなので、まさかの事は起きないだろうと思う。年寄りの知恵が生かせそうだし、「おばあちゃん」レスキュー隊員も多いようだ。研修会や交流会もあるらしいので心丈夫だろう。

世の中が変わって、職種も多くなってきた。別居が普通になって「孫の面倒を見る機会」もないし、その気持ち愛情のある人なら別に血が繋がっていなくとも親身に看病してくれると思うので「おばあちゃんレスキュー隊員」とは良い目の付け所だと思う。子供にしても日頃は若い親しか知らないのだから、年寄りと接する事は良い事だと思う。

季節によって変動があるので、部屋を構えるとどうしても採算が合わないことになるし、レスキュー隊員の家で預かるとなれば部屋代がうくし、何よりも患者の家に近い人が見てくれるので、病気の子を遠くまで連れて行くことが無い。入会金等は地域に新しいレスキュー隊員を求める為にも使われるそうだ。

子供好きのお年寄りにしても、好きな事をして少ないとは言えお金が頂けるのだからこんな良い事は無い。それに9時までに電話がなければその日は自由にしていいそうだ。

インターン生募集の広告もあった。この道に進む人(経営者)を育てようと言うのでしょう。

仕事と子育ての両立をしている親が育児支援で期待する事の一位は「病気の子供を預かってほしい」と言う事だそうだから、全国に広がればいいな~と思っている。



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読書の秋

2006年10月01日 | 読みました
             (見~つけた)
       三宮の店先、店長の許可を得て・・・
     活花は見たことがあるが、鉢植えは初めて
      葉は芙蓉のように大きいが、取ってある
        こうすると水なしで2ヶ月は持つ

久し振りに熱いお茶を入れる。濃いお茶が欲しくなった朝。やっぱり美味しい日本茶。お茶請けも欲しい。体重増加にご用心、食欲の秋。

    晩年の美学を求めて  曽野綾子  朝日新聞

曽野さんの本何となく違和感があるのに何となく読み続けている。曽野さんが敬虔なカソリック信者である事に起因があると分かっている。

このたびは「晩年の美学を求めて」あ~固そう!と思いつつ手にとって終った。28文からなっている。所々抜書きしてみる。

★その存在が、自然でおもしろく、輝いて見える人間と言うものは、やはりさまざまな意味で、自立している人、個人で毅然として生きている人。

★「分相応」を知るということは生きてきた者の知恵の一つである。逆の言い方をすると、すべてしたいことをして生きた人など、1人もいないのだということを体験的に知るのである。

★人間が生涯の設計を計画するなどということは不可能に近い、むしろ思い上がりだと思うようになったのである。晩年の便利さは確かにある。晩年になれば仮に100歳まで生きたとしても、年間幾らずつお金を使って死ねばいいという計算が出来るようになる。

★人は孤独な時間を持たない限り、自分を発見しない。人は二つの場面で自分を見つけるのである。群れの中に居る自分と、自分一人になる時とである。

★外国人から聞いたもので「人は皆、その年齢ほどに見える」・・・一瞬若く見えても、数分見ていると身のこなしなどに何処か老いの匂いがしてくる。うんと老けて見えてもじっと見ているとひそかに残された若さが吹き出る事もある。

★「単純労働の重い意味」と言う文。此処が一番「そうだそうだ」と思った。
50代ですっかり老け込む人も居れば、幾つになっても頭も体もしっかりしている人が居るが、その健康や頭脳の明確さを何時までも保持していると信じる甘さはいけない・・・つまり高齢者は責任ある仕事を続けられる保証が無い・・・故に高齢者は原則として責任ある立場についてはいけない。

★ごくありふれた、平凡で何時でも代替のきく仕事。その手のものは若者ではなく、高齢者が引き受けるべきものだ。若者の数が減り、高齢者が溢れる時代になったらなおさらのことだ。それを屈辱的な作業だと思うようなおろかな姿勢は徐々にではあっても排除しなければなら無い。そしてそのような平凡な仕事の中でこそ、経験も読書も重ねてきた高齢者のみが、もしかすると単純労働にかかわりながらあらゆることを考える能力を発揮できるのではないか。

社会でなくとも、一つの集まりにも言えることだと思う。同じサークルに長い事居ると本人も周りも「出来る人」と言う錯覚が起きる。唯何度も経験しているが故の知識で、特別その人が優れているのではないのに優れていると錯覚してしまう。そしてリーダーになろうとする、そうする事は後輩の経験(経験は一番の勉強であると考える)のチャンスを奪う事になる。経験は援護射撃的に使われるべきもので、後輩の道を絶ってはならない。

人を育てる事はたいへんな事だが、豊かな経験はそちらに使うべきだと考えている。私もその時々に良い先輩に育てられて、新しい経験をさせていただいた有難さは忘れない。これこそコミュニケーションの一つの形だと思うが、如何でしょうか?
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