ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

日本語と英語どちらが大切?

2006年10月12日 | 気にかかる
              金木犀
         良い匂いに誘われて見上げると
            金色の花が一杯
    今の子供はこの匂いを「アッツ!トイレの匂い」と言う
              苦笑もの

安倍内閣は「論功行賞内閣」「スネに傷持つ強面軍団」とか言われている。そういえば何となくフレッシュと言う言葉とは無関係な面々と言う感じは受ける。

でも安倍さん変わられた。総理の顔、態度になられた。変わり身の早さに、幹事長時代から鏡に向かって「総理になれば・・・」と練習しておられたのではないか?と思うほどだ。

安倍総理が「教育問題」を柱の一本に掲げておられるからか如何か伊吹文明文部科学大臣も走り出した。伊吹大臣はインタビューで「小学校の英語教育の必須」を「必要は全くない」と切り捨てた。

小学生の時から習った方が良いという理由として「発音」の問題がある。流暢であるに越した事は無いとは思う。しかし生きていく為に英語が必要な人はほんの一握り、そのために皆でゆとり教育で基礎の学問の時間が削られている上に「英語」をと言う所に無理があるのかな~。

日本人である限り、生きている間中、日本語が必要である。だから日本語をもっと読み書き自由に出来るようにして欲しい。伊吹さんが「国民として生活する最低限の能力と義務を考えるのが義務教育。これが果たせてないのに別のことをやってもいけない」と言われるのはご尤も。しかし思いつきの様にコロコロ変わるのも如何なものだろうか?

確かに外国では小さい時から異国の言葉を習う国も多いようだが、自国語が他国ごと同様、荒っぽい言い方をすれば「しゃべる文字を書くだけ」の国語の様な気がする。だから容易にしゃべれるようになるんじゃない?

日本語は「カナ、かな、漢字、音読み、訓読み、敬語、丁寧語、現代語、古典」等々複雑に入り混じったり離れたりしている。これを身につけるのは、曽野綾子さんじゃないけれど「読書」と「作文」を習慣付けるのが大切だわ。「読書」は重ねていくと「字面」の言葉だけではなく、所謂「行間を読む」事が出来るようになり、そうすれば、自分の感じた事を素直に書けるように成れるのではないか。何も美辞麗句を使った文章を書くのではなく、自分の思いを相手に伝える言葉を書ければいいだけなんだわ。そのために時間を使って欲しいと思うのだわ。

しかし「字面」だけでないとすれば、小学校の国語の先生は大変な事になるかもしれない。音楽の先生が別に居られる様に「綴り方教室」は別の先生が必要になるかもね。でも「英語の先生」を雇う予算があるなら可能だわね。

新聞は言います「教育現場で何よりも急がれるのは、国際化ではなく、教師の質の向上だろう。いまだに「日の丸」「君が代」を目の敵にしている教育労働者の皆さんは論外としても、教師が凡庸なら子供達の才能が開花する可能性はぐっとひくくなる。指導者がいかに大切かは野球やサッカーの監督を見れば一目瞭然だ。教育改革はつまるところ教師改革に尽きる。

英語は中学・高校6年も習えば。老年になって「また英語勉強しようかな~」と思った時も、「昔取った杵柄」と取っ掛かり安いと思う。

歴史から外国を知るのも大切かな~。日本の歴史も、現代から遡って習うのはいけないのだろうか?外国の歴史も然り、今を知って過去を知ると言うのも案外覚えやすい気がするのですが、如何でしょうか?



コメント (4)
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