ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

曽野綾子さんの「正論」

2006年10月06日 | 新聞から
            (神戸花鳥園)
         こんな大株を見たのは初めて
          やはり専門家は違うな~

雨上がりの今日の空は真っ青な色、久し振りに見たようで、何度も見上げてた。

唱歌の学校で野菜作りをしている方が皆さんにと「紫・・・」と言ううまい菜の様な、今朝取りの菜っ葉をくださった。スーパ-では見られないその新鮮な菜っ葉を、おあげさんと炒め煮にした。美味しかった!ありがたい夕食の一品でした。

曽野綾子さんが「”読み書き”不自由になった日本人(恐れる深刻な「知的格差」の発生)と言う文を書いておられた。曽野さんは過って「教育審議会の委員」をしておられた。

★ 突き詰め考える哲学なし:日本の教育の現状は、悪い意味でマイナスの飽和点、どん底まで来ている。・・・日本人は頭は悪くないと思われるのに、日常生活では単純で幼稚で、教育は普及しているのに読み書きも十分でない・・・突き詰めて考える哲学を持たない。

手厳しい。学生を家庭内に持たない私でも、そのことは何となく感じている。通知表も3段階ぐらいの分かり難さである。人が2人以上集まれば自ずから上下が出来る。こんな簡単な事を無視して一列に並べようとする。

ゆとり教育とかで勉強時間を減らし、ゆとり時間だけを与えて、ほったらかし。私が「ゆとり教育」と聞いた時イメージしたのは、その時間は勉強以外のその子の好きな事をする時間だと思っていた。其処にはそれを指導する人が居て教える。主任は教師でも指導するのは地域の老人の力を借りればいい。

私は野外講座の様な感じで教える時間に招かれた事があった。私は編み物を教えたが、他にマジック、竹とんぼ、折り紙、布の小物等自分の好きなものを選ぶようになっていて、体育館でグループに分かれて指導を受けるのである。編み物を選んでくれた子は7~8人居たと思う。後日、夫々が感想文をかき、学校から纏めて送ってくれた。嬉しくて大切に残してある。

★最近の私の驚きは多くの若者、中年達が本を読まなくなった事だ。彼らはほとんど自分の考えを自由に文章で表現する事が出来なくなってしまっている。つまり教育が普及していれば当然できるはずの「読み書きそろばん」のうち、すでに国民の多くが読み書きも不自由になっている。

昨日のブログで私も「読み書きそろばん」と言う言葉を使ったが、今は「そろばん」の時間は3年生でちょっぴり習うだけで、教室に電卓を持参する「算数」の時間だと聞く。

★手抜き教育の弊害顕在化:作文能力は読書の量に比例する。敬語も読書によって学ぶ。人権や個人の思想行動の自由を求めるなら、自己が自己であって他人とは違う点を認識し、述べなければならない。作文教育を重視して、しすぎる事はない。長年の○×式答えでよしとしてきた手抜き教育の弊害がようやくはっきりしてきた。

作文や国語の答えを○× でなくすれば先生の質も問題になろう。入試に小論文を重視でもしない限り駄目なような気がする。

★作文と読書の習慣付けを:「ノー・テレビ、ノー・ケイタイ・デー」も必要。週に一度の作文の時間と月1冊の読書感想文提出を習慣付ければ、子供達も変わると思うが、強硬な反対に遭うだろう。

夏休みに纏めて6冊読めと言う宿題より、月一冊の方が効果があるだろう。読書を好まない子に暑い夏に週に一冊は拷問に近い。本の選択は自由となれば、読書嫌いの子は年齢相応のものではなく易しい物を読もうとするのではないか。効果が薄いような気がする。








コメント (6)
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