あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』

2021年11月18日 09時06分21秒 | 暗黒裁判・幕僚の謀略2 蹶起した人達


香田大尉外十四名
本官を免ぜらる
けふ内閣より發令
二十九日午後零時四十五分内閣より左の如く發令された
陸軍歩兵大尉    香田淸貞        陸軍歩兵少尉    林 八郎
同                    安藤輝三        同                    池田俊彦
同                    野中四郎        同                    高橋太郎
陸軍歩兵中尉    中橋基明        同                    麦屋淸済
同                    栗原安秀        同                    常盤 稔
同                    丹生誠忠        同                    清原康平
同                    坂井 直          同                    鈴木金次郎
陸軍砲兵中尉    田中 勝
免本官 


關係二十將校免官
今次事件の關係將校等に對し廿九日付左の如く免本官の辭令が内閣から發表された
内閣發表 ( 二月廿九日 ) 
陸軍歩兵大尉    香田淸貞        
同                    安藤輝三        
同                    野中四郎        
陸軍歩兵中尉    中橋基明        
同                    栗原安秀        
同                    丹生誠忠      
同                    坂井 直          
陸軍砲兵中尉    田中 勝

陸軍歩兵少尉    林 八郎
同                    池田俊彦
同                    高橋太郎
同                    麦屋淸済
同                    常盤 稔
同                    清原康平
同                    鈴木金次郎
免本官  ( 各通 )
左の五將校の免官も同日内閣から發表された
陸軍歩兵大尉    河野 壽
陸軍歩兵中尉    對馬勝雄
同                    竹嶌継夫
陸軍砲兵少尉    安田 優
陸軍工兵少尉    中島莞爾
免本官  ( 各通 )

山本少尉  免官さる
今次事件に關係の山本陸軍歩兵少尉に對し二日午後内閣からつぎのごとく發表された
陸軍歩兵少尉    山本 又
免本官 

宮廷の人々  此処では西園寺、木戸、原田、侍従長、内大臣、宮内大臣 等を謂う

内閣は叛乱将校二十名に対し、
二月二十九日免官を発表。
三月一日、
それぞれ位の返上、勲等功級記章の褫奪ちだつの件など御裁可があった旨を發表した。
宮内省もまた位の返上を命じたことを公表したが、
返上命令の理由を
「 大命に抗し 陸軍将校たる本分に背き
 陸軍将校分限令第三条第二号該当と認め

 目下免官申請中のもの 」
とした。
即ち 宮内省は明確に 大命に抗し  と公表し、
叛乱であり 逆賊 と 認定したわけである。
これは不当のことである。
事実は命令は伝達されず、彼等は大命に反抗する意思は少しもなかった。
軍法会議でも奉勅命令が下達されたとは言ってなく、叛乱でなく反乱として処置している。
この誤れる認定が、彼等および遺家族をいかに苦しめたか。
残酷なことである
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・・・挿入・・・
十一年三月一日
宮内省の発令で大命に抗したりとの理由により同志将校は免官になつた、
吾人は大命に抗したりや、吾人は断じて大命に抗していない
大体、命令に抗するとは命令が下達されることを前提とする
下達されない命令に抗する筈はない
奉勅命令は絶対に下達されなかつた、従って吾人は大命に抗していない
・・・中略・・・
奉勅命令については色々のコマカイイキサツがあると思ふが
如何なるイキサツがあるにせよ 下達すべきをしなかつたことだけは動かせぬことだ
下達されざる勅命に抗するも何もない、吾人は断じて抗してゐない
したがつて 三月一日の大命に抗し云云の免官理由は意味をなさぬ
又二月廿九日飛行キによつて散布シタ国賊云云の宣伝文は不届キ至極である
吾人は既に蹶起の主旨に於て義軍であり ( このことは大臣告示に於ても明かに認めている )
大臣告示戒厳群編入によつて義軍なることは軍上層さえ認めてゐる、
勅命には抗してゐない
だから決して賊軍などと云はる可き理由はない。
・・・
獄中手記 (1) 「 義軍の義挙と認めたるや 

二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなつた最大の理由は、
三月一日発表の 「 大命に抗したり 」 と 云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、
北等が首相官邸へ電ワをかけて
「最後迄やれ」と煽動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞(トンジ)です
青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば
軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです
即ち、
アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、
更に三月一日大アワテにアワテて「大命に抗したり」の発表をしました。
所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。
下達しない命令に抗すると云ふことはない。
さァ事が面倒になつた。
今更宮内省発表の取消しも出来ず、
それかと云って刑務所に収容してしまった青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、
加之、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるのでどうにも、
かうにもならなくなった。
軍部は困り抜いたあげくのはて、
① 大臣告示は説得案にして行動を認めたるものに非ず、
② 戒厳命令は謀略なり、
との申合せをして、
㋑ 奉勅命令は下達した。と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
㋺ 大命に抗したりと云ふ宮内省の発表を活かして、
一切合財いっさいがっさいの責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです。

・・・獄中手記 (一) 「 一切合財の責任を北、西田になすりつけたのであります 」

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三月二日、軍法会議に事件送致され、予審開始。
四月中旬、予審終了。
四月二十八日、公判開始、
六月五日、求刑。
七月五日、判決。
右のような日程にて、超スピードで裁判は行われた。
三月一日では、未だ軍法会議が審理開始せざる時期である。
叛乱と認定するには過早ではないか。
五月四日、特別議会開院式の勅語の中で、
「 今次 東京ニ起コレル事件ハ朕ガ憾うらみトスル所ナリ 」
と、ニ ・ニ六事件にふれたお言葉があった。
橋本徹馬は右の文句を捉えて、湯浅内大臣を宮内省の内大臣府に訪ねた。
湯浅は
「 あの勅語の奏請は政府の責任であって、私の与あずからぬところである 」 と。
橋本は
「 遺憾ながら出来事に相違ないが、それが国民に対し軍部に対し、
 如何なる影響を与えるかを考えて、勅語は奏請すべきものである。
・・・・
朕の憾みとするところというお言葉の代りに、 
皆朕の不徳によると仰せられたならばどうであるか。
・・・・
相剋が治まる方向にむかうでしょう 」
湯浅内府は
「 陛下が遺憾に思われたということがどうして悪いか 」
と つぶやいた。
そこで橋本はさらにいった。
「 国家に不祥事が起った場合には、わが国柄のうえからいえば、如何なる場合にも、
 朕の不徳によるという勅語を譲られた方もある 」 と。 ・・・橋本徹馬著  天皇と叛乱将校 ・・・リンク→  『 朕の憾みとする 』 との お言葉
この勅語の影響は、直ちに軍法会議に現れた。
検察官の論告求刑にあたり、この勅語を引用して、
「 畏くも上聖上陛下の宸襟を悩まし奉り、 下国民の信望を損じたることは許容し得ざるところなり 」
と 厳しく断じた。
既述の
虎ノ門事件の時の奈良武官長の輔佐の態度・・・リンク→ 
虎ノ門事件 
桜田門事件における木戸の意見 ・・・リンク→ 桜田門事件 
などとは、
今度の対応処置は大なる差異がある。
否、逆の方向である。
 湯浅倉平
湯浅は虎ノ門事件の時の警視総監。
懲戒免官になったが、
間もなく内務次官に就任し、大助の弁護人今村力三郎から批判されたのは記述の通り。
今次事件の時は宮内大臣。
三月六日、横死した斎藤実のあとの内大臣になった。
安部源基の 『 昭和動乱の真相 』 によると、
「 湯浅氏が天皇のお側におる限り、
 天皇は叛乱軍に対し断固たる態度を採られるであろうと確信したが、
 果してその通りであった 」 と。
 安倍源基
安部は事件当時は警視庁特高部長。
湯浅とは同じ山口県出身で湯浅を最も尊敬している大先輩とし、
謹厳強直、至誠の士であったという。
安部が昭和十年十一月中旬、
湯浅内大臣を訪ねた時、
「 今頃の時局混乱のもとは、全く陸軍の驕慢にある 」
と 厳然たる態度で湯浅は断言したという。
宮内省がこの事件を判定する機関でもないのに、しかも 「 大命に抗し 」 という文句が、
一般国民に与うる影響を如何に思ったか。
大したことはないと仮に思う湯浅であれば、その忠誠心が疑われる。
剛直は認められるが謹厳と至誠はどうであろうか。
湯浅は昭和八年二月から十一年三月六日まで宮内大臣、
続いて十五年六月まで内大臣を務め、
天皇の陸軍への風あたりが強かったのは、湯浅の影響であったと言われている。

宮廷グループは、この事件をいつ知ったであろうか。
『 木戸日記 』 を見ると
「 二六日午前五時二〇分 小野秘書官よりの電話 」、
「 六時四〇分頃西園寺公邸に電話を以て事件を御知らせす。
 公爵始め一同未だ御休み中との女中の返事にて大いに安心す 」
とある。
『 西園寺公と政局 』によると
昭和十一年三月十四日、原田は寺内陸軍大臣に会っている。
その時 陸軍大臣は
「 ・・・鵜沢博士の話によると、公爵は、二十五日に、既に二十六日の事変を知っておられたさうだが
  この点も、憲兵を熊谷氏 ( 西園寺家執事 ) の所にやるから、熊谷氏から忌憚なく充分話してもらいたい 」
と 言っている。
大隅秀夫著 『 昭和は終った 』 の八十九頁に、「 『 旧制高校青春風土記 』 の取材で興味深い話を聞いた。
 いまの東宮侍従長黒木従遠は、当時学習院高等科の二年生だった。
わたしどもより五、六歳年長者である。
ニ ・ニ六事件が起きる前夜、黒木は級友の木戸孝澄から電話を受けた。
木戸は内大臣 ( 内大臣秘書官長・・註 ) 木戸幸一の息子である。
今夜あたりからいよいよ決戦になるらしいぞ
黒木は親友の巽道明を誘い、暮夜ひそかに寮を抜け出して市谷方面へむかった 」
とある。
また、『 木戸日記 』 の昭和十二年二月二十二日の項に、
「 陸軍法務官伊藤章信来訪、ニ ・ニ六事件に関し聴取せらる。
 要点は事件を知りたる経路、時期、陸軍方面の連絡等にして、
其目的は反乱軍若しくは其同乗者と情報連絡あり、
時局収拾につき何等かの働かけを受け居るにあらざるかとの疑を以て、問われたる様推測した 」
と 記されている。
右の伊藤章信が戦犯容疑にて巣鴨にいる時、
「 ニ ・ニ六事件の指導者の一人から重臣に通するものがあって失敗に終った。
 もしあの事件が成功しておれば、日支事変は あるいは起きなかったかもしれぬ 」
旨を児玉誉士夫に語っている。 ・・児玉誉士夫著 『われかく戦えり 』
デイヴット ・バーガミニは その著 『 天皇の陰謀 』 で左のように述べている。
「 決行日二日前の二月二十四日朝、
 情報屋亀川は相澤公判で弁護人となっている民間法律家を訪れ、
陰謀計劃の全容を打ち明けるとともに、
西園寺公を説いて追放された真崎将軍を次期首班に推挙させるよう助力してくれと頼んでいる。
西園寺の友人で鵜沢聡明という名のこの法律家は、
亀川にできるだけのことはしようと約束したあと、西園寺に暗殺の計画があることを教えた。
この警告は、西園寺の輩下で国会議員の津雲国利、
西園寺の私設秘書をしばしばつとめた実業家中川小十郎を中心とする
極めてこみいった仲介者の連鎖を通じて興津に届いた。
西園寺は、この警告の重要さに疑念を抱かず、警告にしたがって即時行動に移った。
・・・・西園寺は雇人たちに電話ではごく自然に応対し、老主人は平静に在宅しており、
自分たちは何も知らないようにふるまえと命じた。
・・・・人気のない径路に来たところで自動車が待っており、西園寺は防備厳重な静岡県知事官舎に入った 」
なお憲兵隊が鵜沢を陰謀の共犯にしようとしたが
「 鵜沢を裁判にかければ西園寺を巻き込むことになるのが明らかになったため。
 鵜沢に対する告訴は取り下げられた 」
と バーガミニは記している。

右の諸項から判断されることは、
木戸も西園寺も事件を事前に承知していたということである。
昭和十一年六月十三日の 『 木戸日記 』 に、
「 松平宮内大臣より内務大臣秘書官長免官の辞令拝受、後任は松平康昌侯、
 ・・・・最後のニ ・ニ六事件に当っては真に思ひ切って働くことを得たので、
此思出を最後として官を退くことを得たことは官吏として真に幸福だと思う 」
と 記している。
その思い切った働きは、当然事件前からの働きを含めていることであろう。
誰々に予報して、如何なる対応策を講じたか、未だ歴史の闇の中にある。

あの当時の情況から、何か起りはせぬかとの疑念は多くの人が抱いたであろう。
二月初め森木憲兵少佐は、青年将校が月末に行動蹶起を予定していると東京憲兵隊長に報告。
二月中旬、三菱本社は独自の情報で、反乱の具体化を練る会合を開いていると憲兵隊に報告。
二月中旬 「 日本評論三月号 」 に青年将校グループの会見記が掲載され、
将来思い切った行動を考えているかとの質問にイエスと答えている。
右のような情報に対し、そのまま放置したのは何故か。
当局の無策か、それとも策謀の一部か。
色々の説がある。
確実な情報を摑んだ木戸が、岡田首相、斎藤内大臣、鈴木侍従長に警告したか否か。
警告を受けても避難しなかったのか。
これは重大にして興味のある問題である。
『 西園寺公と政局 』 の十一年四月六日の項の中に
「 ・・・結局叛乱軍の処罰なんかも、思ったよりよくやったというように、
 速く重く刑に処した方がいいんじゃないか
と、しきりに西園寺が言い、原田は十一日に総理に会い、
右のことを寺内陸軍大臣に伝えているように言づけしている。
寺内も同じ意見と返事する。
速く重く処刑することに宮廷グループでは、それこそ早くから決定していたのだ。

次頁 君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」 に続く
佐々木二郎著  一革新将校の半生と磯部浅一 
宮廷グループの動き  から