あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平 『 二 ・二六をぶっつぶしたのは天皇ですよ 』

2020年12月29日 08時20分34秒 | 後に殘りし者

天皇と二 ・二六事件
あれだけのことをやりながら 二 ・二六事件は成功しなかった。
「 他の国でならば、あれでクーデターは完全に成功ですよ 」 
と、河野司氏は言う。
それも一理ある見識であろう。
しかし失敗した。
良くも悪しくも天皇制があったからである。
日本におけるクーデターの、そして革命の難しさもここにある。
明治維新の時ならば、皇居に入り、「 玉を奪い 」 強引に、成功させていたであろう。
木戸孝允などが生きてたらきっとそうしたに違いない。
自分達がモデルとした明治維新の忠士連よりも、青年将校の方がより純粋だったからなのか。
あるいは幼稚だったからなのか・・・・。
二 ・二六事件の挫折は、天皇が 「 人間天皇 」 になられ、
「 人間の怒り 」 を持って蹶起者に対したからだとも言われる。
一時は、青年将校のリーダーが失敗を自覚し、全員自決しようとする。
その時、栗原は 「 せめて勅使をあおぎたい 」 と言う。
しかし、本庄を通して伝えられた天皇の言葉は冷たかった。
「 勅使などはもっての外だ。死にたければ勝手に死ね 」 
その言葉が青年将校に伝わらなかったのだけは幸いであろう。

また天皇は
「 日本もロシアの様になりましたね 」
といわれたという。
獄中で人伝てにこのことを聞き、磯部は 「 私は数日間気が狂ひました 」 と言い、そして叫ぶ
「 今の私は怒髪天をつくの怒にもえています。
 私は今は、陛下を御叱り申上げるところに迄、精神が高まりました。
だから毎日朝から晩迄、陛下を御叱り申して居ります。
天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか、何と云ふザマです。
皇祖皇宗に御あやまりなされませ 」 ( 「 獄中日記 」 )
天皇はもういちど 「 人間天皇 」 になられた時がある。
終戦の和平を決める時である。
和平に反対し、厚木航空隊の反乱を起こした小園安名司令は絶叫する。
「 天皇陛下、お聞き下さい。
 あなたはあやまちを冒されましたぞ。
あなたの言葉で戦争をお始めになったのに、何ゆえ降伏なさるのでありますか 」
そしてこの怨念の声は、磯部、小園、さらに三島由紀夫へと至る。
「 天翔けるものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲あざ笑う
 かかる日に、などてすめろぎは人間となりたまいし 」  ( 「 英霊の声 」 )
・・・鈴木邦男著

鈴木  二・二六事件の時は、皇居に入って 「 玉を奪う 」 というか、そんな計画はなかったのですか。
松本清張の 「 昭和史発掘 」 などには皇居占拠の計画があったように書かれていますが。

末松  そんなものはないですよ。
  そんなことを考えていたら、年寄りを殺すよりも、先きにそっちをやっていますよ。
 為し得れば、ということで門を押える位のことは考えたらしいけれど。
それに今さら、そんなことを推測してみても仕方がないんじゃないか。
磯部なんかを墓から起こして聞いてみるわけにもゆかないし。

鈴木  天皇のために蹶起した人間が、天皇の名のもとに鎮圧され、裁かれますね。
  「 これから鎮撫に出かけるから、ただちに乗馬の用意をせよ 」 
と天皇は激怒されたと聞きますが。

末松  その天皇の御言葉によって全ては、つぶれてしまうんですよ。
  この天皇の御意思がわかったから、皆将軍連中も手の平を返した。
二 ・二六事件をぶっつぶしたのは天皇ですよ。
そのウラミは私にもありますよ。
眞﨑や荒木などばかりせめてもかわいそうです。

鈴木  しかし、眞﨑、荒木、山下なんていうのはずい分と将校をおだてておきながら、
  いざ奉勅命令が出ると、彼らを裏切っていますね。

末松  まァ、大体に於て革命する人間が、革命される側の人間を信頼するというのが間違いの因もとですよ。
  僕は眞﨑、荒木等は前からハシゴだと思っていた。
屋根に上ってしまえば、もういらないんですよ。
だから別に裏切ったとも思っていません。

鈴木  しかし眞崎や荒木将軍達のみならず、天皇にも裏切られた磯部の叫びは凄惨ですね。

末松  いゃア 私はそうは思わないがね。
  あれは赤ん坊が泣いて 「 お母ちゃんのバカ、バカ 」 って言って胸をたたいているようなもんですよ。
それだけにまた悲しいことともいえるが。

鈴木  そうですか。ところで今の問題と関連しますが、北は、あまり、天皇のことなど考えていなかったという説もありますが。

末松  あの頃読まれていた本で、遠藤無水の 「 天皇信仰 」 〔 先進社、1931 〕 という本がありますが、
  それには、北の改造法案を 「 赤化大憲章 」 だと書いてある。
また、北の思想を共産主義だという人も、ずい分いた。
僕なんかは北からはそんな話はあまり聞かなかったが、ただ東郷平八郎大将の 「 天壌無窮 」 というと、
青銅でつくった明治天皇の像をいつも部屋にまつっていた。
僕らよりも、北の方が、ずうっと天皇を崇拝していましたよ。

鈴木  ただ北の思想の中には、社会主義的なものはずい分あったんじゃないですか。

末松  それは確かにありましたよ。
  しかし社会主義だろうと共産主義だろうと、日本に国の思想とは矛盾しないと思うんだな。
何故なら虐げられたものが幸福になるということでしょう。
これは大御心と同じですよ。
マルクスま考えたことも大御心にかなうことですよ。
金持ちだけがいい目を見、働くものがバカを見るのは大御心じゃないでしょう。
ただ、日本の天皇は外国の帝王のようにブルジョアになってはならないというのが北の考えなんですよ。
ヨーロッパの帝王は、狩りをする時、ウサギの味が落ちるから、畑に肥料をやるのを禁じたなんてのがある。
百姓が困ろうと一向に構わない。
そういう王室とは全然違うんだと言ったんですよ。
皇室財産はいらないという北の主張もそこから出て来るんですよ。
西田税が笑って言ってましたよ。
「 日本でブルジョアといったら、天皇陛下が一番ブルジョアだよ。
 木曽の御料林に行って御覧、(当時の金で) 一本何万円もかる杉や桧が、ぼんぼん立っている。
百万長者じゃきかないよ 」 ってね。
我々が当時、そんな事をいうと不忠者と思われたが、マッカーサーによってそれがやられた。
青年将校がやり残した事をマッカーサーがやり遂げたなんて全く皮肉ですがね。

北一輝と青年将校
末松太平氏の著書 「 私の昭和史 」 には、
末松氏が北一輝を訪問した時の様子が次のように書かれている。
「 (北は) 『 軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかった。
 おかげで腐敗した政治に染まらなかった。いまの日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。
しかも若いあなたがたです 』 と、キラリと隻眼を光らしていった。
それは意外なことばだった。今の自衛隊そっくりに無用の長物視されていた軍人が、日本を救う唯一の存在であり、
特に若いわれわれがその再適格者だといわれたからである 」
そして、北にそう言われた感銘は 「 クラーク博士における 『 ボーイズ・ビー・アンビシャス 』 だった 」 という。
さらに、西田税は末松氏らに言う。
「 北さんは日本の革命はあきらめていたが、君らの出現によって考え直すようになった 」 と。
末松氏は前掲書の中で、こうも言う。
「 北一輝の 『 日本改造法案大綱 』 には、日本改造勢力の主体として、在郷軍人の動員は言っているが、
現役軍人のことには一言もふれていない。
それが私達の動向によって、現役軍人をつかめる目安がついたとすれば、
あるいは西田の述懐が北一輝の本心だったのかも知れない。・・・鈴木邦男

鈴木  北ノ言葉が  『 ボーイズ・ビー・アンビシャス 』 のように聞こえたと言いますが、
  当時は軍人の評価というのは、そんなに低かったのですか。ちょっと信じられませんが。

末松  軍人が今の自衛隊のように税金ドロボーと同じように見られていた時代ですからね。
当時の中学校では戦争は絶対に無いって教えていた。
国際連盟が出来ていたからね。
これからは全ては話し合いで決まるんだから、軍人なんかいらないと思われていた。

鈴木  それほどひどかったんですか。今の風潮と似ていますね。

末松  大正自由主義の風潮はあったし、今よりひどかったですよ。
  今なんか戦争がないなんて言っても誰も信用しないでしょう。現にやっているんだから。
しかしあの当時は実際なかったんだ。
第一次大戦から満洲事変まではシベリヤ出兵や済南出兵はあったけれどもね。そんな時代ですよ。
僕なんか幼年学校うけるのにも片身の狭い思いをしたもんですよ。

鈴木  それで、きたの言葉がそれほど感銘深く響いたわけですか。
  ところで 二・二六事件と北の關係はどうだったんですか、いろいろ言われてますが。

末松  事件には直接関係ありませんね。
  ただ、青年将校に影響力のあったことは確かだ。
僕なんか、たまにしか会わなかったから、かえって北のことを、きれいにとらえられるんじゃないかな。
あっさりして感じのいい人だったし、ともかく勉強家だし博学だった。
「 支那革命外史 」 の一行は、普通の本一頁に匹敵するだけのものがありますね。
文がうまいというより、内容の深さですね。
若い時は図書館にばかり、閉じこもって万巻の書を読んだらしいね。
しかし年をとって勉強したかどうかはわからないね。
大仏次郎おさらぎじろう の「 忠臣蔵 」ともいわれるし、また、それでよかったのかもしれないね。
もう知識なんていらなくなったんじゃないかな。

年とってからの北は本を読まなくなったばかりでなく、革命家たることもやめていたのではないかと推測する向きもある。
「 昭和史発掘 」 で松本清張は言う。
「 五十四歳の北はすでに直接的な国内革命運動の情熱を失っていた。
 生活のために受けていた三井、三菱の金銭的援助が身に沁みつきすぎた 」 と。
そして北は政界黒幕型を志し、その面からの秩序改新を目指したのではないかと、推理する。
来してどうだったのだろうか

鈴木  松本清張のような推測もありますが、どうですか。

末松  そんな推測は、勝手にさせておけばいいでしょう。
  二・二六が失敗に終って、お偉方もずい分とひっぱられた。
そして、泣いている連中もいたんだ。
そんな中でも北、西田は悠然としていたしね。
北は法華経ばかりあげているし、二人とも
、死刑を宣告されてもケロッとしていた。
判決後、帰ってきたのを僕はみたんだが、西田は亀川との別れぎわに 「 やァまたね 」 なんて声をかけて、
普段と全く変わらないんだ。
僕ら口では強がりを言っていたが、内心、刑の軽いことを願っていた。
しかし 北、西田は違う。
北は、かりそめにも、自分の書いたものによって青年層が影響を受けたのだとするなら、
まず私を死刑にすべきだ と言っているしね。
こりゃア立派なものですよ。
死ぬ時まで、革命家でしたよ。
机の上で革命を書いている評論家とは違いますよ。

鈴木  北は三井などから、ずい分と金をもらっていたとききますが。

末松  北が三井から金をもらったっていうけど、じゃア他の連中はどこから金をもらっているんですか。
  やはり、金のあるところから引き出してるわけでしょう。
北が三井から金をとってたのと大差はないですよ。
今の政党だって、どっかから、かすめとってるんじゃないですか。
将校なんかは、月々のものを貰って生活が安定しているし、
こりゃアプチブルですよ。
失うものは鉄鎖以外にいっぱいあったし、プロレタリアートじゃない。
その点、北、西田は浪人ですよ。
その浪人に僕は同情し、価値を認めるるですよ。
・・・以下、略


末松太平
二・二六事件について証言
島津書房編  『 証言 ・昭和維新運動 』  島津書房1977
「 証言  私の昭和維新 」 の 「二 ・二六事件 ・ 末松太平氏に聞く 」 聞き手は、鈴木邦男
・・出展 ・・・
礫川全次のコラムと名言 ・・・というタイトルのブログから転載


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