あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

鈴木侍從長の帷幄上奏阻止

2021年10月01日 18時31分48秒 | ロンドン條約問題


 
鈴木貫太郎           加藤寛治

昭和四年一月
海軍軍令部長鈴木貫太郎大将は侍従長となり天皇の側近に奉任することになった。
翌 昭和五年浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約にからんで、
政府と統帥がその兵力量について対立紛糾したとき、
浜口首相は全権団よりの請訓案をのんで回訓を発しようとし、
天皇に上奏のため拝謁を願い出たのに対し、
加藤軍令部長はこれが反対上奏を行うために、同じように拝謁を願い出た。
ところが鈴木侍従長は
浜口首相の拝謁方を取り計らい 加藤軍令部長の拝謁方はこれを阻止した。
これがため鈴木侍従長の風当りはつよく、
彼は統帥権を干犯したというのでごうごうたる非難にさらされた。
これが彼がニ・ニ六に斬奸に遭う主たる原因であった。
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ロンドン軍縮条約
     
左から
ロンドン会議前、首相官邸に於て懇談  浜口首相と海軍将星 昭和4年11月6 日
ロンドン会議 開会式で挨拶する 若槻全権  昭和5年1月21 日
ロンドン海軍軍縮会議 全権とその随員 
谷口軍令部長    加藤前軍令部長    東郷元帥

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民間団体の反対運動
ロンドン条約紛糾のおり、
軍事参議官として政府と統帥部との間に介在して
条約取りまとめに奔走した岡田海軍大将の回顧録によると、
「 ---十時頃 ( 筆者註、四月一日 ) になって加藤から
『 きょう上奏のため拝謁を願い出ているが 側近のものに阻止されそうだから、
侍従長からその辺の消息を聞いてみてくれ 』
と わたしにいってきた。
侍従長の官邸へ行って聞いてみると、
『 今月は御日程がすでにいっぱいだから
たぶんむつかしいかろうと思うが上奏を阻止するようなことはしない 』
といっているので、わたしも安心してそのことを加藤に伝えておいた 」
とある。
だが、今日の日程がすでに一杯だということはどういうことか、
統帥部からの上奏ができないほどに忙しい日程であったのか、そうとも思われない。
このあたりに鈴木侍従長の心底がうかがわれるのではないか。
もちろん岡田大将にしても加藤の上奏は反対だった。
「 陛下は円満におさまるようにお望みなのだ、
上奏などをしてご心配をおかけするようなことがあっては申しわけのないことだと思った 」
・・( 『 岡田回顧録 』 )
と 書いている。
加藤の上奏は政府の上奏に対する反対上奏なのである。
政府と統帥部の紛争を天皇に持ちこむのだから恐れ多いというわけだ。
ところが鈴木侍従長の回顧録 ( 『 嵐の侍従長八年 』 ) によると、
「 ある日その条約のことについて浜口君から上奏するという申出があった。
私は早速陛下にご都合を伺い明日何時という御指定があった。
そこへ軍令部長からも何か上奏をお願いするということを、武官長の方にいってきた。
それで先に御指定になった総理大臣の拝謁の後に軍令部長の上奏のことを御指定になった 」
とある。
ここに 「 ある日 」 とは三月三十一日のことである。
浜口の上奏は四月一日に指定になったが、加藤の上奏の指定はそのあとになったというのである。
ところが鈴木の右の回想によると、
三月三十日に山梨勝之海軍次官が侍従長官邸に来訪して、
ロンドン条約にからむ紛糾と混乱を説明し、加藤軍令部長が反対上奏をするらしいと伝え、
翌三十一日になると案の定どちらも上奏を願い出てきた。
「 明日 ( 筆者註、四月一日 ) 君は上奏するということだが、一方では総理からも上奏する。
噂に聞くと君は反対上奏をするということだが、そういうことがあるのか、
と聞くと、加藤は実はその通りだと答えた 」
そこで鈴木は、
「 それは変ではないか、
兵力量の事で軍令部長と総理が違ったことを上奏するのは私には判らない。

兵力量の決定は軍令部長の任務じゃないか、
軍令部長がいかんというたら総理はそれに従わねばならぬ。

自分で決めた兵力量を総理に上奏さしておき、
それをまたいけませんと上奏するのは矛盾のように考えるが、

君はどう思うか。
総理が軍令部長の決めたことを上奏し
軍令部長が反対上奏をしたら陛下はどうなさればよいか。

この問題は上奏し放しとはいかん問題だ。
上奏からもひいて各々の責任問題が生ずる。

よくその辺を考えたらどうか 」
と 加藤に忠告した。
加藤は、
「 なるほどそうだ。よくわかった。
早速これから武官長のところに行ってお取り下げを願う 」

といってかえった、と 鈴木はかいているのである。

そして、これで加藤軍令部長の上奏は中止され、
この問題は一段落ついたのだが、
これが世間に誤伝され加藤の上奏を阻止したと宣伝され、
ことに、政友会が倒閣にこれを使い悪宣伝したので、広くこれが信ぜられている。
そして加藤もこれを訂正しようともしなかった、
とも、鈴木は回想しているのである
ともかく鈴木によれば、
自分の説得で加藤は心よく上奏を取り止めたというのであるが、
これは少々おかしい。
なぜなら、
右の鈴木と加藤との話が三月三十一日だとすると、
四月一日の十時頃に加藤が岡田に上奏が阻止されそうだが確かめてくれなどというわけがない。
すでに上奏を中止することをきめているのだから。
また、これを三十一日の午前十時頃とすれば、
その日の午後にも加藤と鈴木とが話し合ったとして、
ことは一応つじつまが合う。
しかし、また
加藤は鈴木の説得によって反対上奏は中止したが、回訓兵力量は依然不同意を固執していた。
そして六月十日
今秋の大演習の件で拝謁を願い、
大演習の上奏のあと、
「 ロンドン条約の兵力量には軍令部長は同意しない 」
旨をふくめた辞表を読み上げて骸骨を乞い奉っているのである。
( 谷口軍令部長と交代 )
ともかくもこの場合
加藤軍令部長が鈴木の説得にしたがったとしても、
天皇側近に奉仕して軍事や政治の圏外にあるべき侍従長としては、
出すぎた行動であり 軍令部長の行動を制止したことに間違いはない。
その頃の鈴木侍従長の思い上がりは相当のものであったらしく、
やはり 『 岡田回顧録 』 には、
「 五月三日お呼びによって御殿 ( 伏見宮博恭王邸 )へ行った。
鈴木侍従長のことに話が及んで、鈴木も出過ぎているとのお話なんだ。
殿下が拝謁をもとめられるため侍従長にお会いになっており、
鈴木が、
『 潜水艦は主力艦減少の今はさほど入用ではありません。
駆逐艦のほうがよろしいと思います。
兵力量はこんどのロンドン条約でさしつかえありません 』
といったのが殿下の御気にふれたらしく、
『 鈴木は軍令部長になっているもののいい方をした 』
と おっしゃる。
そのうえ拝謁に対し鈴木は
『 陛下に申し上げられるとのことですが、それはもっての外ではあります。
元帥軍事参議官会議は奏請なさっても、たぶんお許しにならぬでしょう 』
といったので、殿下は、
『 お前らが奏上するときは直立不動で申し上げるから意をつくして言上することはできない。
わたしなら雑談的にお話ができるので、十分意をつくすことも可能だ、
だからわたしが申し上げるといっているので、とりちがえては困る 』
と 鈴木をきめつけられたということをお話になった 」
とも書かれている。

鈴木侍従長の軍事や政治への干渉ともみられる行動それ自体に問題があったようで、
これが軍人や右翼に与えた刺激は大きかった。
こうして彼は君側の奸臣として暗殺者のリストにのせられていたのだ。

大谷敬二郎著  ニ・ニ六事件 から


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