あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 武官長はどうも眞崎の肩を持つようだね 」

2018年04月07日 04時51分22秒 | 眞崎敎育總監更迭


齋藤實内閣の陸軍大臣だった荒木貞夫大將が體調を崩したため辭任し、林銑十郎が陸相に就任した。
昭和九年の一月のことであった。
そのことが人事面などで反荒木色が強かった中央の幕僚たち及びその中核ともいえる永田鐵山に絶好の反撃チャンスを与えた。
直後の三月五日、
さっそく要の軍務局長には自他ともにその手腕を認められている永田鐵山が就任した。
統制派が林陸相を掌に載せながら人事をほしいままにし、首相は齋藤實から岡田啓介の時代へと変る。
その總仕上げでもやるかのように
林陸相、永田軍務局長というコンビは突如 敎育總監だった眞崎甚三郎大將を罷免、更迭してしまった。
十年七月十六日である。
後任の敎育總監に就いたのは渡邊錠太郎だった。
かつて齋藤瀏が旭川の第七師團參謀長として赴任していた際、大正十五年に師團長として旭川へやってきた人物である。
蛍雪の軍人というのがふさわしいかもしれない。
苦学の末、上り詰めた軍人だった。
渡邊はヨーロッパ駐在が長かったこともあろう、外國の書物を獨むのが趣味だった。
毎月の給料が丸善の支払いで消えるほどだとの噂もあった。
そんなところも國家の危急存亡を訴える皇道派靑年將校には誤解されやすかったのかもしれない。
眞崎更迭までの經緯はおおよそ次のような順序で進んだ。
陸軍將官級の人事は通常、陸相の原案があってそれを參謀総長、敎育總監という
いわゆる三官衙さんかんが ( 陸軍省、參謀本部、敎育總監部 ) の 長が協議し決定することになっていた。
この時期、參謀總長は閑院宮だったので、
陸相と敎育総監二人が相談してから宮總長に見せるというのが慣例である。
八月の定期異動人事に際して大掛かりな皇道派追放を畫策していた林陸相は、
眞崎敎育總監に相談する前に永田軍務局長と渡邊軍事參議官という同志にまず相談を持ちかけ、密かに周邊を固める工作を優先した。
永田、渡邊らの強い支持を得て林が考えた異動案は、
眞崎直系の秦真次第二師團長の豫備役編入をはじめとする皇道派錚々の一掃だった。
主なところでは、柳川平助第一師團長の豫備役編入、山下奉文軍事調査部長は朝鮮へ轉出、
山岡重厚整備局長を第九師團長に出すなど 徹底したものだった。
代わりに小磯國昭や東條英機など皇道派に睨まれていた人物の中央復歸が人事案としてまとめられた。
七月初め、
永田軍務局長とともに満洲、朝鮮巡視に向っていた林陸相は歸國するや眞崎敎育總監に會って辭任を迫った。
はたして眞崎は林が示した人事案を烈火のごとく怒りをあらわにし、
斷固として辭任はしない、秦、柳川の豫備役編入には絶對反對と言い出した。
十日に再び會談がもたれたが、眞崎は承知しない。
こうしている間に、林陸相の弱腰が周邊の心配を誘い始めたのだろう、
岡田首相をはじめ財界や元老など皇道派を危險視している方面から眞崎を追い込む作戰がとられた。
岡田啓介首相と西園寺の秘書原田熊雄が林の苦境を察し、この間に會っている。
これは重臣クラスが陸相を支持し、皇道派追放人事を期待していた證しともいえる。
例えば 『西園寺公と政局』 には 次のような記述がある。
「 林満鐵總裁も最近來て いろいろ話していたが・・中略・・なほ現在の様子では、
陸軍大臣は両兩方から責められて困っているやうである。
で、結局内閣に累を及ぼすかもしれんから、さういう場合には、
陛下から一言 「 その儀に及ばない 」 といふ お言葉があれば、
その機會に陸軍大臣は ばっさり思ひきつたことがてきるかもしれない。」
「 歸京後、十四日の朝、總理を訪ねて公爵の意を傳へたところ、
「 現に十三日に拝謁して、陛下に現在の陸軍大臣の狀況---萬一の場合についてもいろいろ申上げておいた。
とにかく陸軍大臣を鞭撻して、できるだけ一つの全幅の援助をするつもりであるから、どうか公爵も もう少し見ていて戴きたい。」
と くれぐれも 言つてをられた 」
「 十五日の朝、總理は陸軍大臣に電話をかけて、「 この際、陸軍大臣として一つの思ひきつてやつてもらひたい。
内閣の生命とか、或は内閣が幾つ倒れても、そんなことは問題ぢやあない。
寧ろこの際、八月の異動において、一つできるだけ軍の思ひきつた覺醒をやつてもらひたい。
即ち その禍根である眞崎を動かすことを主たる目的にして、
どうしてもやつてもらひたい。」 と 話したとのことで、「 非常に激励した 」 と 言つてをられた 」
こうして外堀を埋められた眞崎が辭任に追い込まれたのは十五日の三長官會議でのことだった。
林に代わって閑院宮參謀長から最後の決斷を突きつけられた眞崎は遂に抵抗をあきらめた。
 閑院宮   林陸相   眞崎甚三郎大将
相手が皇族であるから眞崎は反論の無駄を知っていた。
林陸相は會議の結果を天皇に上奏し その裁可をもって眞崎の罷免はようやく決着し、
七月十五日夕、眞崎は一介の軍事參議官となったのである。
新總監には豫定通り 渡邊錠太郎軍事參議官が補せられた。
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・・・挿入・・・
「 武官長はどうも眞崎の肩をもつようだね 」
と 昭和天皇が鈴木貫太郎侍從長に述べたことが本庄の耳に入る。
林銑十郎陸相が推進しようとした眞崎更迭案について、
本庄が 「 閑院宮總長 梨本宮元帥と善後策を協議されては 」
と 林の建議を再檢討するよう天皇に進言したことを指す。
それを受けて 『 本庄日記 』 には、
「 宮中では軍の立場を忘れて一切沈黙するしかない 」 と 述懐するに到る。

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本庄は翌十六日、天皇に呼ばれ概略、次のように問われた。
林陸相は眞崎大将將が總監の位置に在りては統制が困難なること、
昨年十月 士官學校事件も眞崎一派の策謀なり。
( 恐らく事件軍法會議処理難を申せしならん乎、
まさか士官學校候補生事件を指せしものにはあらざるべし。) 
其他、自分としても、眞崎が參謀次長時代、熱河作戰、熱河より北支への進出等、
自分の意圖に反して行動せしめたる場合、
一旦責任上辭表を捧呈するならば、氣持宜しきも 其儘にては如何なものかと思へり。
自分の聞く多くのものは、皆 眞崎、荒木等を非難す。
過般來對支意見の鞏固なりしことも、
眞崎、荒木等の意見に林陸相等が押されある結末とも想像せらる。
・・・・と 仰せられたり 」

天皇が西園寺や岡田首相をはじめとした統制派系からの情報を極めて具體的に入手していたことがうかがえる。
ただ、
「 士官學校事件も眞崎一派の策謀 」 の くだりには 本庄も驚き、
注釋で軍法會議の經緯のことを指すのだろうが、と 書き留めている。

それから三日後の二十日、
渡邊敎育總監と眞崎軍事參議官が天皇に挨拶のため參上することになった。
二人の拝謁に先立って本庄武官長は天皇に一言、願い出た。
「 新任者には 『 ご苦勞である 』、前任者に 『 御苦勞であつた 』
 との 意味の御言葉を給はらば難有存ずる旨 内奏す 」
だが、天皇はこれに不快感を示した。
「 眞崎は加藤 (寛治軍令部長) の如き性格にあらざるや、
 前に加藤が、軍令部長より軍事參議官に移るとき、自分は其在職間の勤勞を想ひ、
御苦勞でありし旨を述べし処、
彼は、陛下より如此御言葉を賜はりし以上、御信任あるものと見るべく、
従て 敢て自己に欠点ある次第にあらずと他へ漏らしありとのことを耳にせしが、
眞崎に萬一之に類することありては迷惑なり 」

と 仰せらる。
結局、本庄は眞崎が御言葉を惡用するようなことは斷じてございません、
と 申し上げたため、
眞崎にも 「 在職中御苦勞であつた 」 との 御言葉があった。
だが 本庄は日記に、
陛下は自分が眞崎を弁護しているとの ご感想を鈴木侍從長に對しお漏らしだったが、
自分は いずれにも偏してはいない、ただ軍の統一を願うだけだ、
今回の眞崎更迭人事ほど不愉快なものはない
と 記している。
この人事移動をめぐる動きは元老西園寺とその秘書原田熊雄と岡田啓介を結びつけた。
さらに 木戸、原田の宮廷側近グループと永田、東條ら統制派の接近をも促進する結果となる。
天皇に渡る情報が二・二六事件以前から既に反皇道派に絞られていたことも浮かび上ってくるようだ。
また、皇道派に通じていたため西園寺から警戒されていた平沼騏一郎樞密院副議長とともに
眞崎とも親交があった近衛文麿は、この時期から西園寺、木戸との間に距離が生じるようになる。
工藤美代子著  昭和維新の朝  から


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