あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」

2018年02月05日 15時51分05秒 | 十月事件


末松太平
前頁 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」 の 続き

井上日召はこのときから軍人の行動とは別に、一人一殺を考えていた。

後の血盟団はこのときからすでに準備されていた。
二・二六事件の関係者の渋川善助や加藤春海は将校の軍服を着て、
知っている将校のいる部隊に、くっついていくといっていた。
こういったなかで同志の往来は繁くなった。
霞ヶ浦航空隊の古賀清志、中村義雄中尉らも、
暇をみては、和服に袴姿で東京に現われていた。
橋本中佐は、西田税 との提携が成ったとき、
これで霞ヶ浦との連絡がとれたことを喜んで、
「 それじゃ空からボラを落して貰おうか 」 と 冗談をいったが、ボラとは爆弾のこと。
古賀、中村中尉と会うたびに私は、
橋本中佐のいったように、この連中は爆弾を国会議事堂にでも落す気だろうかと思った。
井上日召はよく暗殺の要領を伝授していた。
「 みなは殺人鬼じゃないんだから――それどころか、人一倍仏心を持っているんだから、
殺すときめたら、ものをもいわず拳銃を発射しなければ失敗する。
話をかわしたら、なかなか懐ろの拳銃に手がかからないものだ。」
と、いうのを私も西田税のうちで、一緒に火鉢を囲みながらきいたことがある。
五・一五事件のときの山岸 (宏) 中尉の 「 問答無用 」 がこれである。

そのある日曜日、西田税が、後の血盟団の一人、
東大生の久木田裕弘を伴って私の下宿に訪ねてきた。
西田は
「 参謀本部の連中の持ってきた暗殺計画には驚いたよ。
警察署長クラスの小物までやろうというんだから・・・。
うんとケズって大物だけ残すようにいっておいたがね 」
と いって笑ったが、
こんな話から私が
「 牧野伸顕をねらうつもりだが 」
と いうと、
これまで控え目に西田のかげに坐っていた久木田が
突如にじり出て
「 私では間に合いませんか 」 と 真剣な顔でいった。
私は
「 久木田さんが是非にというのなら、別のでかまいませんよ」 と いった。
井上日召が
「 久木田は一度どこかを打つと内出血して、それが用意にとまらない体質なので可哀想だ。
早く死に場所を探してやるほうが本人のためにも功徳だ 」
と いっていたが、
この繊細な白面の学徒の、つきつめた語気には、西田も私も、はッとしたことだった。

私の連隊の士官候補生と、対馬少尉の薫陶をうけた三十一連隊の士官候補生が、
そろって私の下宿に訪ねてきたのもこの頃の日曜日だった。
私は東京に起りつつある事態を、ある程度話した。
その次の日曜日には、
私の連隊の杉野候補生から紹介されたといって、
朝鮮の竜山の連隊の西川武敏候補生が訪ねてきた。
私は菅波中尉のもとの連隊、鹿児島の四十五連隊の士官候補生と連絡するようにいった。
菅波中尉のアパートで私は四十五連隊の士官候補生と会ったことがあるからである。
この西川候補生と先に訪ねてきた士官候補生のうち、三十一連隊の野村三郎候補生が、
あとで五・一五事件に参加するのである。
この士官候補生らは四十四期生で、これが六ケ月の隊付を終って
再び市ヶ谷台に戻ってきたのが十月一日であるから、
十月二十日と予定されたクーデターの時期はいよいよ切迫していたわけである。
深夜私の下宿を訪ねて
「時期は?」 と耳に口をつけて聞いて 「二十日」と聞くと、
あとは何もきかず、そのまま帰っていく民間人のいたのも、この頃だった。

が、その二十日が近づくにつれ時期があいまいになってきた。
殊に神楽坂の料亭梅林での会合から、それがさらにあやしくなった。

以降
末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」

戸山学校では明治節をはさんでの神宮競技場での体育祭に備えて
毎日、下士官学生全員が軍楽隊と共同で例年出場する体操の練習をしていた。
私はある日それを一人でぼんやり眺めていた。
その日は将校学生は夜間の体操があるので、夕食をして出直すため皆下宿に帰っていた。
私は夕食は学校の食堂でするつもりで、ひとり下宿にかえらず残っていた。
下士官学生の体操は低地になっている運動場でおこなわれていた。
自然の地形を利用してスタンドがつくられてある。
その最上段から私は、
上体裸の筋肉たくましい日焼けした下士官学生が、軍楽隊の奏楽に合わして行進し、
ついで体操にうつるのを見下ろしていた。
その体操の指導者の大蔵(栄一)中尉もクーデター参加者の同志である。
体操をしている下士官学生のなかにも、何人か参加するものがいるときいていた。
クーデターが先なのか、神宮外苑での体操が先なのか。
私は空を仰いだ。
暮れるに間のある秋の空は抜けるように晴れていた。
私はその空に抜けていくような軍楽隊の勇壮な奏楽をききながら、
 ああ 二十六才、東京のこの空の下で死ぬのかと思った。
別に悲壮感はわかなかった。
死ぬという感慨が、こうも平静でいいものかと思っただけだった。
抜けるような空に抜けていくだけのことのように思った。


末松太平著 私の昭和史
十月事件の体験 より


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