あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

『 二 ・二六事件 』 そのとき私は小学校五年生でした。

2021年11月29日 10時55分07秒 | 安田優

阿蘇神社の 「 御前迎え 」 俗に 「 火振り祭り 」 がすむと小川の水もぬるみ、
日とともに阿蘇は早春らしくなり 「 野焼き 」 がくるといっぺんにハルノ装いとなります。
その年は例年になく冬が長く二月も終りになってから雪が降り、山は一日じゅう白銀に輝いていました。
そんな日の夜、わが家の土間では女御衆おなごしたちが集まって炭俵編みの内職をしていました。
その傍らコンコン婆しゃんが、大声で喉をゼーゼーいわせながら喋っています。
コンコン婆しゃんは、村落随一のラヂオ所有者であり、情報にうといこの村落では随一の情報屋で、
村の人たちは 『 伝書鳩 』 とも呼んでいました。

「 ちょとまあ 聞きなはり。 東京じゃ兵隊が大勢して剣付鉄砲で暴れだしてな。
政府のえらか衆ば、片っぱしから撃ち殺してしまったげな。東京は上を下への大騒ぎちゅう話たい 」
「 へえ、婆しやん、そりゃいつのこつじゃうか 」
「 なんでも四、五日まえのこつばい。
 兵隊が鉄砲で撃ち合いばしてな、新聞社も放送局も全部おさえてしもうてな、
夕方儂が聞いたニュレスじゃ、初めてのこつだつたな 」
内職の小母しゃんたちは、一斉に手仕事をとめてコンコン婆しゃんを注視しています。
私も炭俵にする萱を一本ずつ揃えながら母しゃんの傍らにいました。
「 えらか衆たちなら話せばわかろうもんに、
 なんでまた鉄砲撃って人殺しなんぞ恐ろしかこつばするとじゃろか、
兵隊ちゅうのはむごかこつするもんじゃな 」
母しゃんが、えらい見幕でまくしたてたので、みんなが一瞬黙ってしまいました。
「 それがな、騒ぎ起こしたのは陸軍の若え将校さんげなたい。
 いま日本じゅうがこうした不景気じゃろ。
どこの百姓もみな飯の食えんこてなつとるたい。阿蘇の百姓ばつかりがきつかつじゃなかもん。
そいで若い将校たちあ、こうした世の中真っ暗うなつたんは政治家の責任たいちゅうて、
剣付鉄砲で騒ぎば起こしたちゅうこつたい 」
さすがに新智識を仕入れているだけにコンコン婆しゃんの話には説得力があります。
女御衆たちも 「 そげんな 」 「 百姓の味方ちゅうわけたい 」 とうなずきながら聞いています。

昭和十一年二月二十六日の、
いわゆる 「 二 ・二六事件 」 は阿蘇の村里にも、恐ろしい事件として伝えられました。
私に初めて 「 二 ・二六事件 」 を伝えてくれたのは 『 拝み婆 』 ことコンコン婆しゃんだったのです。
しかし情報が伝達されたのは二月二十六日から四、五日経ってからでした。
それは阿蘇というところが、文化果つる僻遠の地というだけでなく、陸軍が事件とともに戒厳令を布き、
事件関係の報道を禁止したからです。
そのとき私は小学校五年生でした。
思い出されるのは、コンコン婆しゃんの話を聞いた直後、
学校で五、六年生の生徒を全部、にわづくりの講堂に集めて、
校長先生や六年の男子組担任の坂本先生の特別講和があったことです。
坂本先生は体躯は小さいが威勢のいい先生で 「 二 ・二六事件 」 の首謀者のひとりである安田少尉と、
中学時代に同級だったとかで、涙をポロポロこぼしながら熱弁を振るわれました。
坂本先生が壇上で興奮の余り絶句されたのがとても印象的でした。
「 ・・・二月二十六日の朝早く、大雪の中を二十一人の将校が、千四百人の兵隊をひきいて雪を蹴たてて
岡田首相、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、鈴木侍従長らを襲撃しました。
そして鉄砲や機関銃によって重臣たちの多くを殺し、陸軍省をはじめ参謀本部、警視庁などを占領して
しばらくは日本の政治を制圧したのです。
・・・・どうしてこんなことをしたかといえば、
この数年間、日本の社会が不景気で行き詰まっているのは、
天皇陛下を助けて政治をしている重臣や役人が、自分勝手なことをしているからだ。
これらの人間を取り除いて昭和維新をやらねばならんと思ったのです。

・・・・この将校の中に 安田 優 
という少尉がいますが、
彼は天草郡の出身で、私と中学済々黌で机を並べて四年間勉強した仲です。
彼も私も家が貧しかったので、彼は中学四年から、陸軍士官学校に学び、私は師範学校に入ったのです。
安田は中学時代から純粋で一本気な男でしたし、
貧しい農家の出だったからこそ 今の世の中のことが黙って見ていられなかったのでしょう。
・・・・彼は二月二十六日の朝、斎藤内大臣の家を襲って機関銃を撃ちこみ、
その後は渡辺教育総監の家を襲って渡辺大将を軍刀で刺し殺したといわれます。
・・・・事件が起こってすぐは安田君たちは、尊皇討奸の愛国者だといわれていたのに、
日も経ったら天皇の命によって反乱軍、逆賊の汚名を着ることになりました。
早ク原隊ニ帰レ!と命令が出され、命令ニ背ク者ハ、断乎武力ヲ以ッテ討伐スル、
と放送されました。
天皇のために一命を賭して騒ぎを起こしたのに、
天皇から反乱軍だといわれ、討伐されることになったのです
坂本先生はそこで涙を拭かれました。
そして言葉を詰まらせながら話をつづけられました。
あの純粋な安田君は忠義のつもりが不忠になり、 なぜこんなことになるのかわからなかったでしょう。
将校たちは天皇の御命令が出た以上、それに背いたら本当に逆賊にされてしまうので、
何人かはその場で自決し、多くの人たちは抗戦をやめたのです。
・・・・きっとこの青年将校たちは、真崎大将や荒木大将が天皇にとりついでくれると期待していたのでしょうが、
事件が予想以上に大きくなったら、そんなえらい人たちは自分の身がかわいいし、
青年将校たちを見殺しにしたのですね・・・・安田君たちはさぞかし無念だったことと思います・・・・」
坂本先生の講話は山の中の軍国少年たちの興奮を誘いました。
坂本先生の同級生の一人がこの事件に加わったということで 「 二 ・二六事件 」 というものが、
私にとって にわかに身近なことに思えたものです。
坂本先生の話を聞いてから 「 二 ・二六事件 」 の若い将校のことがとても崇高に思えたり、
やはり母しゃんのいうような 「 人殺しはいかんばい 」 とも思えたりしたものです。
そのうちに日が経つにつれて若い将校たちは後ろから操られただけの犠牲者で、
純粋でかわいそうな人たちだと思うようになりました。
どうしてこんなふうに思ったのでしょう。

三月に入ってから 、「 二 ・二六事件 」 の軍法会議による裁判が始まりました。
緊急勅令によって、この事件は反乱罪だから 「 一審のみで、上告なし、弁護人をつけず、公開もせず 」
いうまさに暗黒裁判の名のとおりでした。
宮地館の映画のあいまのニュースで 「 いよいよ軍法会議開かる 」 というのを見ました。
悪びれる風もなく胸を張って軍法会議に赴く若い将校たち二十名余りが映っていましたが、
なかには白い歯を見せている人もいました。
安田少尉という人もいたのでしょうが、どの顔もみな同じに見えてよくわかりませんでした。
写真の解説に
天皇陛下におかせられては、このたびの事件は国法を侵し、
 国体を汚すきわめて憂うべきじけんである。
このさい関係者には厳粛にのぞみ、以て粛軍の実を上げ、
再びこのようなことの起らぬようにすべきである。・・・・との勅諭を発せられました 」
と荘重に言葉がはいりました。
ニコニコして会議場に消えていった若者たちの顔は
子供にもそれとわかる重たい言葉とはまるで違った雰囲気のものでした。
その段階では、
この若者たちはそれほど厳しい罪に問われることは夢想だにしていなかったのかもしりません。
七月にはいって急に暑くなりました。
七月の何日だったのでしょうか、六日か七日のことだったのでしょう。
ブリキ屋の小母しゃんが熊本の町に用事に行った帰りにわが家に立ち寄りました。
「 熊本じゃ号外売りがリン、リンと鈴を打ち振るってとんでまわってな。
 一枚二銭で買うてきたばい。なんでん東京じゃ兵隊しゃんが死刑になったげなたい 」
小母しゃんは手提げの中から折りたたんだ一枚のビラを私にくれました。
それは大きな活字で
「 反乱軍遂に断罪、十五名に銃殺刑、事件の青年将校ら天皇陛下万歳を唱和、
従容として死につく 」 と書いてありました。
事件から四ヶ月、短い間に審理をして死刑の判決を言い渡し、早くも銃殺にしてしまったのです。
何か早く死刑にしてしまわないと、面倒なことでも起こるとでも思っているようなあわてた事の運びようでした。
事件との関係があれこれ取沙汰されていた荒木、真崎、柳川などという将軍は無罪とされ、
直接に行動をした若者たちだけが、『 言い分 』 に封印されたまま処分されたのです。

この青年将校たちは、昭和維新をやってのけて、
軍部の力で腐った政治をたて直そうとしいたのですが、「 二 ・二六事件 」 の結果、
皮肉にも将校たちが思い描いたような軍部独裁が成立したのです。
こうなると この若者たちが生きていることはかえって厄介なのです。
全部を死刑にすることで真相を永遠に闇の中に封じこめてしまったのです。
きっと誰か、大きな軍隊を動かす力が青年将校たちをこんな行動に走らせたのでしょうが、
秘密のうちに事件は片付けられたので、国民は真相を知ることができませんでした。
青年将校たちは銃殺されましたが、この将校の起こした騒ぎを十分に利用するかのように、
その後は軍部が横暴になり、誰にも遠慮することもなく中国大陸での戦火を拡げていきました。
「 雀追いにしても同じりくつ。
 いつもバケツばガランガランやかましゅうやると、 雀も馴れてしもうてびくともせんごてなる。
兵隊さんが東京のど真ん中で鉄砲撃って人殺しばさしたけんな、
人殺しが当たり前になってきたばい。
こるかる戦争がどんどん拡がって、若い衆が何人も死ぬるごてなるとじゃろたい。
ほんとに困ったこつばい。どけんしたらよかもんじゃろ 」
母しゃんは石臼で豆をひいて黄粉を作りながら私に語りかけるようにいったものです。
事実、私が六年生になってからというものは、
坂道を転げ落ちるように日本は戦争への道を駈けおりたように思います。

『 二 ・二六事件と安田少尉 』  丸木正臣 著