昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

佐々木二郎大尉の八月十五日

2015年08月15日 14時02分30秒 | 9 昭和の聖代


広島に原爆が投下された。
冷酷無惨なこの兵器の使用に心からの憤りを覚えた。
続いて長崎にも投下、
ソ連の条約を無視しての参戦、
状況は悉く非で最悪の状態となった。
師団では特攻機の準備演習が行われ、私も見学にいった。
演習のやり方は、飛行場からだいぶ離れた林のなかで整備をし、夜間翼を畳んで道路上を飛行場に運搬、
最後の整備点検を終って、黎明れいめい飛び立って敵艦船に体当りするという計画である。
終夜の整備演習が終り、朝、講評を待っていると、「 至急帰隊して待機せよ 」 といわれ、講評もなく帰隊した。
後で思うと、ポツダム宣言受諾決定の日で、動揺を慮ってのことであった。
八月十四日、私は法華経を読み、その従地湧出品第十五の大地震裂して菩薩出現のところが強烈に頭に泌みた。
大都会に対するジュウタン爆撃、その地帯に住む人をことごとく殺そうとする原爆投下、
米国のやり方は畜生道である。
ソ連参戦は条約無視の無頼のやり方である。
われわれは勝った。
人間として勝った。
たとえ戦いには敗れても人間として勝った。
原爆にて大地震裂したのだ。
血湧の菩薩とは草沢に住む名もなき民のことだ。
押し迫る決戦に牢固たる決意を持つよう、明日、兵に話そうと考えを練った。
副官小川兵二中尉は下士官出身で、志操を堅持する気骨ある人物である。
後記するが如く敗戦に伴う混乱のなかで、私は法令規則を超えて、
かくすることが日本および日本人に有利と判断したことをドンドン断行し、
それがために自由に飛び歩いた。
かくのごとき行動がとれたのも、隊務経験の深くかつ一本差している小川副官が、
留守を守ってくれるという信頼があったからだ。

運命の八月十五日が来た。
副官に本部全員の集合を命じた。
小川副官は正午に重大放送がある旨を告げたので、ではその後で皆に話そうと答えた。
重大な放送とは、多分陛下が決意をお示しになるものと思い、その後で私の考えをいうつもりであった。
正午少し前、全員は校庭に集合した。
放送が始まった。
リンク→敗戦の日
よく聞きとれなかったが、ポツダム宣言受諾ということはわかった。
脳天に大鉄槌を喰ったようであった。
しばらく呆然としたが、やがて涙が流れて止まらない。
あちらこちら兵の間から啜り泣きが起きた。
私は泣き濡れたまま兵に対し何かいった。
そして自室に帰り一人で泣いた。
机の上に頬杖ついて、涙に曇る瞼のなかに、血汐を流しながら這って前進する石原の姿、
孫を抱いた老母の顔が浮ぶ。
李家巷の山々が浮ぶ、何か叫ぶ真隅中尉、坂田軍曹の顔が浮ぶ。
何事かを訴えるような顔、顔、顔が浮ぶ。
とめどもなく涙は流れ泣けるだけ泣いた。
シーンと静まりかえっている----この静寂は二・二六の銃殺前のそれと同じようであった----
この静寂を破って流れるような蝉の鳴声が聞えて来た。
泣けるだけ泣くと、不思議に落ちつきが出て来た。
「 大命は謹んで承る 」
「 問題の最後の一点は陛下である。
米軍が万一手を触れるようなことをすれば一撃を加えよう 」
と 決意した。
具体的にどうなるかを考え始めた。
一番最初に上司から来た命令は、 「 書類を焼け 」 であった。
この後にいろいろの書類提出を要求して来たが、肝心の書類焼却後とて いかんともし難い。
このことは他部隊でも同様であって、後に団隊長会議に出席した際、部隊間の話題にもなり、
上司に対する不信を植えつけた大きな原因の一つであった。
《 国体護持の為に 》
軍の一部に混乱動揺が起きた。
宮城と外部との通信を遮断して近衛師団長を殺害する。
首相官邸の焼打ち、上野公園の占拠、比島に行く代表団の乗機を襲撃するといきまく者、
太平洋の防波堤となると叫んで海洋に突入する者、
死して国土を護るといって飛行場に向けて自爆する者 等々、
若き青年の血汐が奔騰する。
ある将校の兄の家に少年航空兵の写真を飾ってあるのを見た。
「 兄は終戦直前に戦死したと思っていますが、
実は直後に、少年航空兵同志が編隊を組んで敵艦隊に突入し、
戦果確認に行った偵察機も、結果を飛行場に打電して 自らも突入、
それを基地で受信した通信兵も自決したのです。
甥もその組の一人です 」
と その将校は語った。
そのような状況の二十日、お茶の水の日仏会館に大岸頼好を訪ねた。
ここは陸軍省の軍事課の分室か何かで、時刻は夕方近くであったと思う。
若い将校連が幕僚の不謹慎な言動を怒りを籠めて語っていた。
帰って来た大岸と対座した。
「 佐々木君、使いの者と会いましたか 」
「 否 」
「 至急貴方と話したいことがあって、学生を使いにやったのです 」
「 ----」
「 貴方は日本の国体をどう思いますか 」
「 ----」
「 万世一系が尊いのですか、天皇が尊いのですか、皇室が尊いのですか 」
真剣な面持ちで大岸は質問を発して来た。
「 今の陛下が大切です 」
と 答えると、彼は私の手を握り、
「 ホントにそう思いますか、実は一部の者が明早宮城を攻撃して陛下を迎え、
抗戦を続けんと謀っているようです。
私は今、首相の宮に、国体護持には方策と自信ありと放送し、国民、特に強硬分子を慰撫する。
聞かないときはお討ちなされといって来た。
最悪の場合、幸い近衛に同志が一名いる。
戦車にて陛下に宮城を脱出していただき、貴方の隊にお伴いしたい。一緒に死のう 」
これは重大問題だ。
承諾必謹が具体的になったのだ。
軍人の習性で直ちに私は決心した。
「 承知しました。道案内に野田中尉を残します 」
大岸は時計を見て、
「 放送が始まります 」
といって、傍らのラジオのスイッチを入れた。
これが首相の
「 臣稔彦不敏なりといえども国体護持については・・・・」
の 放送であった。
野田耕造中尉に注意を与えて大岸の許に残し、急いで帰隊した。
( 東久邇日記には、大岸や明石少佐を、この反乱計画の首謀者と見ているように書かれている )
帰隊してみると学生が一人、私を待っていた。
大岸の話した使いの者であった。
私はそのまま部隊に泊り、信頼する中隊長小川要中尉にも隊に宿泊を命じた。
その夜は万一の場合に備えて
御座所、側近の宿所警戒配備、所要兵力、武器弾薬、食料、燃料等の調査研究で眠れなかった。
しかし 今度は天皇がわが方だという絶対の強味を胸中に抱いた。
幸い事は起らずに済んだが、忘れ難い思い出となった。

和服で腰に一本打ち込み、草履ばきで来た下士官があった。
たしか横浜からだと憶えている。
私の隊は補充隊のようなもので、戦地から帰って来た者の籍があるのだ。
「 部隊長殿、任務を与えて下さい。女房子供は処分して来ました 」
驚いて私が、「 どう処分したのか 」 と 聞くと、
「 栃木の田舎にやりました 」
「 アアそうか、それならよい、まあ一、二日休んでからだ 」
落ちついてから帰宅させた。
忠臣蔵の不破数右衛門を思わするが如き愉快な男であった。
「 部隊長殿、死に場所を与えて下さい 」
これは陸士出の若い大尉。
胸の病で自宅療養中、国家の一大事とばかり駆けつけた。
顔色がよくない。
軍医に診断させ、将校集会所で休ませた。
数日経って帰郷するとき
「 部隊長殿、お仕事が済んだら、田舎の私の家に来て下さい。まだまだ食料はありますから 」
といった。
気質の優しい将校であったが、その後どうしているやら?
士官候補生数名が訪ねて来て
「 蹶起して下さい。われわれも頑張ります 」
と、区隊長か誰かの姓名をいって誘いに来た。
おれの方は心配するなといって返した。
二・二六事件の青年将校は今どうしているのか、蹶起せよという文句のある檄文が町に貼られた。
二十日、大岸を訪ねて行く途中、
京成電車の御茶屋の踏切のところで、馬車挽きが、ボロボロと涙を流しながら天に向って、
「 馬鹿野郎 」
と 怒鳴って行くのを見たが、素直な日本人の心情を吐露しているように思った。

八月二十三日、天皇に対し再び武装せる軍隊が敬礼することはあるまい、
最後のお暇乞いをしようと思い、各中隊より各階級の代表を十台のトラックに乗せ東京に向った。
二重橋前に到り隊形を整え、嚠喨たるラッパの吹奏とともに 「 捧げ銃 」 の敬礼をした。
かつて午前を歩武堂々と行進した幾万幾十万の帝国軍隊も崩壊してゆき、
これが最後の部隊の敬礼かと思うと涙がこぼれた。
敬礼を終って自動車の位置に来ると、
「 もしもし 」 と 憲兵に呼び止められた。
「 御存知の方ではありませんか 」 といいながら、ちかくの松原に連れて行かれた。
見ると十一名の壮絶な集団自決である。
陸海軍各一名、他は民間人で婦人が一人いる。
その陸軍少佐を見たが知らぬ人であった。
「 仁愛ナル陛下 冀こいねがわクハ 国民一億ヲシテ再ビ国体護持ノ征戦ニ立タシメ給ヘ 」
の 遺書を残した日比和一を中心とする明朗会の人々であった。
その見事な最期に心から合掌して冥福を祈った。

部隊を先任者に引率を命じて帰隊させ、お茶の水に大岸を訪ねた。
彼は学生を使って米軍の動きを無線傍受して探査していた。
そして 「 万一のときは新門辰五郎だ 」 といった。
それは私もかねてから考えていたので同意した。
若い連中が蚊帳もなく夜も働いているので、蚊帳と煙草と、万一の場合を考えてトラック一台と燃料を渡した。
若い連中が大いに喜んだ。
後に田村重見中尉が、大岸からといって被服をもらいに来た。
新門辰五郎と思い被服と食料を渡した。
新門辰五郎も動かずに済んだ。

佐々木二郎 著
一革新将校の半生と磯部浅一
から


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