あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

満井佐吉中佐の四日間 2 『 希望ノアル処ハ出來ル丈上司ニ意見ヲ申上ゲ、盡力シヨウ 』

2019年12月10日 13時25分34秒 | 赤子の微衷 3 渦中の人達 (山口一太郎、満井佐吉、小藤恵)


満井佐吉 
第一回聴取書
前頁  満井佐吉中佐の四日間 1 の 続き
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
二 ・二六事件


進退の件御伺
佐吉儀

昨年末、相澤中佐同期有志及同中佐知人ヨリ公判特別弁護人ヲ受諾セル以來、
近年國家及皇軍ノ容易ナラザル實情ニ在ルヲ憂慮シ、就中、相澤事件公判ノ取扱ニシテ一歩ヲ誤レバ、
實力行動ノ突發等容易ナラザル事態ニ陥ルコトナキヤヲ杞憂シ、殊ニ之ガ取扱ニ際シ、
必要以上ニ軍過去ノ
歴史的旧事件ヲ暴露シ、故ラニ軍内中級及靑年將校同志ノ感情ヲ激發、
再燃スルコトアラバ、皇軍靑年將校
互ニ入リ亂レテ實力行動ニ移リ、
遂ニ収拾スベカラザルノ難局ヲ展開スル禍因トナルコトナキヤヲ深慮シ、
斯ノ如キ實力行動ヲ未然ニ防止シ、該公判ヲ以テ皇軍ノ精神的一體化ノ契機タラシムルト共ニ、
公判ノ辯護ヲ通ジテ、國民ノ先達タル重臣及財界、政界ノ巨頭其他ニ、
此ノ行詰レル現下ノ情勢ヲ保守センガ爲メ、皇軍ヲ使嗾しそうシテ軍本然ノ統帥ヲ攪亂セントスルハ、
現下ノ國情ニ於テ、國家ノ安泰ヲ期スル所以ニ非ズ。
却テ祖國ヲ破滅ニ導クモノナルコトヲ理解セシメ、公判ニ對スル部外政治勢力ノ作用介入ヲ未然ニ防止シツツ、
以テ窃ひそカニ公判ノ公正ヲ念願スルト共ニ、本公判ノ進行ガ實力行動殊ニ過去ノ歴史的事件等
旧來ノ感情對立ヨリ來ル皇軍中級靑年將校同志ノ實力相撃ヲ誘發スルコトナカラシメ、
之ガ爲メニハ、一々、他方靑年將校等ヲシテ公判ニ於ケル小官ノ合法的努力ニ信頼期待シ、
以テ鬱憤ヲ實力行動ニ天下スルノヲ必要ト感ゼラシムル如ク、
現下ノ國情認識ヲ基礎トシ十分ニ辯護ヲ進メント企圖シツゝ、本公判ニ臨ミタリ。
然ル処、最近ニ於ケル國軍及國家實情ノ重大性ト、其ノ急迫トニ關シテハ小官モ亦正當適確ニ之ヲ認識スルコト能ハズ、
公判ハ誠ニ險惡重大ナル國家國軍實情ノ上ニ進行セラレ、小官ノ辯護ハ幸ニシテ、
軍過去ノ歴史的事件ノ感情ニ發スル靑年將校同志想撃ノ杞憂ハ之ヲ未然ニ防止スルノ目的ヲ達シ得タルガ如キモ、
遂ニ一部靑年將校ノ重臣其他ニ對スル實力行動就中兵員ヲ指揮シテ行ヘル武力突進ヲ見ルニ至リ、
殊ニ右一部靑年將校中ニハ小官ノ知友モ亦參加シアルハ、寔ニ恐懼ニ堪ヘズ。
相澤中佐公判ノ經過ハ極メテ順調ニ、且ツ小官最初ノ希望ノ如ク進ミアリト思惟セルニヨリ、
靑年將校等之ニ信頼期待シテ敢テ實力行動ニ出ヅルコトハ之ヲ愼ムモノト信ジアリタルニモ拘ラズ、
遂ニ小官最初ノ目的ヲ果ス能ハズ、却テ小官ノ辯護ガ實力突進ヲ誘發セルガ如キ観ヲ呈スルニ至レルハ、
誠ニ恐懼措ク処ヲ知ラズ。
若シ他人ヲ以テ之ガ特別辯護ニ當ラシメシニ於テハ、或ハ事端發生ヲ見ルニ至ラシメズシテ、
時勢ヲ善導シ得タランカトモ愚考ス。
玆ニ二月二十六日事件ノ發生ヲ見テ、小官辯護ノ跡ヲ顧ミ、只管恐懼ノ極ミニ堪ヘズ。
乃チ謹ミテ進退ヲ伺ヒ奉ル。
昭和十一年二月二十八日
陸軍大學兵學教官  陸軍歩兵中佐  満井佐吉
陸軍大臣  川島義之殿
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近ニ於ケル村中、磯部、西田、澁川トノ関係如何
村中、磯部ニハ龜川哲也ノ宅デ公判前ニ會ツタコトガアリ、
又、公判開始後ハ公判弁護人控室及私ノ自宅ニ來訪シマシタガ、磯部ハ最近來タコトハアリマセン。
澁川ハ自宅ニ一、二回及弁護人控室ニ一、二度來タコトガアリマスガ、
何レモ公判弁護ニ關スル材料ヲ持ツテ來タノデアリマス。
右ノ人々ト會ツタノハ相澤中佐ノ公判ニ關スル事許リデ、
二月十二日ノ公判非公開ノ頃ヨリハ全ク遭ツタコトハアリマセン。
西田税トハ私ガ陸軍省調査班ニ居タ頃、西田ガ私ノ家ニ一、二度訪ネテ來タコトガアリマス。
ソレハ小倉附近ノ青年ノ紹介デ來タノデアリマシテ、其後會ツタコトハアリマセンガ、
二月八日頃、私ガ風邪ニ罹リタル際、見舞ニ來テ呉レマシタガ、
其時ハ特別ノ話ハ何モアリマセンデシタ。
其後遇ツタコトハアリマセン。

新京在住皇道義盟西田秀雄ニ對シ、中佐ヨリ
「 近ク大事件ガ起コルカラ、君ニモ遭ヒタイガ、先方ガ大切デアルカラ、無理セヌ様ニ 」 
トノ通信ヲ為シタル理由如何
大事件ガ起コルト云フ意味デハナカツタ。
公判ノ進行ニツレテ公判ノ決戰的場面ニ入リ、承認申請等モ迫リ、公判ガ政治的影響下ニ置カレ、
種々紛糾モシ、忙シクナルコトト思ツタカラ、「 出來ルナラ上京シテ手傳ツテ貰ヒタイ
 ( 其ノ意味ハ、書類ノ整理ヤ材料ノ蒐集、辯論原稿淨書等ノ手傳ヒヲ頼ミタキ意味 )。
然シ、先方ノ事業ノ方ガ大切ト思ツタカラ、無理ニ來テ呉レナクテヨイ 」
トノ氣持ニテ手紙ヲ出シタダケノモノデ、今回ノ事件ノ如キコトヲ豫知シテ知ラシタ譯デハ絶對アリマセン。
西田秀雄ハ私ノ實兄ノ長女ノ婿デ、加勢ヲ頼ムノニハ適當ノ人物ト考ヘタカラデアリマス。

磯部淺一ハ、「 一大事ガ起ツタラ善処セラレ度し 」 ト中佐ニ了解ヲ求メ、
石原大佐ニ對シテハ中佐ヲ通ジ了解ヲ求メアル如ク陳述シアルガ
ソレハ間違ツテオル。
「 大事件ガ起ツタラ善処スル 」 ト云フコトヲ述ベタコトハアリマセン。
龜川氏ノ家デアツタト思フガ、磯部、村中ニ遇ツタ時、
「 公判ガ行悩ンダ様ナ時、大丈夫ヤリ抜ケラレルカ 」 ト云フ話ガ出タ時ノコトヲ、
磯部ハ多分述ベテ居ルモノト思ヒマス。
ソレハ實力行動ノ突破ノコトヲ指スノデハナク、公判ガ進ンデ、法理的問題ヨリ、
軍法會議ノ忌避等ニ依リ、遂ニ政治問題化スル等ノ場合ニ善処スルコトヲ云ツタノデアリマシテ、
石原大佐トモ懇意デアルカラ、斯ル場合、石原大佐ノ援助等ヲ仰ギ、
合法的ニ公判ヲ切リ抜ケルモノト信ズルニヨリ、思ヒツメタ考ヘヲ起サヌ様ニ、
私カラ磯部等ヲナダメルタメニ言ツタコトヲ言ツテ居ルモノト思ヒマス。
石原大佐ハ、公判開始前、
私ニ、公判ニ於テハ充分相澤事件ノ原因、動機等ヲ糾明スルコトヲ厭フ必要ナシ
トノ意見ヲ持ツテ私ニ臨マレテ居リマスシ、
公判第一、第二ノ私ノ辯論ニ對シテモ好意的ニ之ヲ見テ居ラレマシタカラ、
公判ガ行悩ンダ時ハ助ケテ呉レルモノト信ジテ居リマシタ。
此ノコトハ小林長次郎氏モ克ク承知シテ居ルコトゝ思ヒマス。
實力行動ニツイテハ、私ハ村中ヤ磯部ニハ絶對ニ之ヲ抑制シ、自重ヲ促ス態度方針ヲ執リ、
私ノ合法的辯論ニ依リ公判ヲ終始スルコトニ信頼シテ進ム様ニ、時々意見ヲ傳ヘテ居リマシタ。
私トシテハ、合法的辯論ニ依リ、充分ニ重臣財閥等ノ反省ヲ促シ、
又、軍首脳部ニ、適切ナ軍ノ収拾對策ヲ考慮シテ戴ケルモノト考ヘテ居リマシタ。
「 實力行動ヲスレバ、一切ノ動、例ヘバ公判ノ辯護迄ガ陰謀ノ様ニナツテ、
 白ガ黒ニ變ルカラ、大イニ自重セネバナラヌ 」 ト云ふ意味ノコトヲ村中、磯部ニ述ベタコトガアリマス。
私ハ、此ノ精神ハ菅原辯護士ガ充分承知シテ下サレテ居ルコトゝ存ジマス。
辯護ニ關シテハ、私ハ村中ヤ磯部等ニ全然操ラルゝコトナク、
満井ノ自主的立場カラ辯護ヲ進メツゝアツタコトハ、菅原氏ガ克ク承知シテ居ルコトト思ヒマス。
菅原氏ハ私ノ爲メ、毎日公判ヲ傍聽シテ下サイマシタ。

蹶起部隊ノ通過ヲ許スベキ者ノ人名中ニ中佐ノ姓名ガ記載シテアリ、
一部ニ於テハ、豫メ今回ノ事件ニ諒解アルヤニ解シアルモノアルガ、如何

彼等靑年將校ハ、昭和維新ノ實行方法ニ就テ、所謂皇道維新的方法ヲ從來希望シ、
所謂、皇道派ノ將校と目サレテ居ル私ニ對シテハ信頼シ、
殊ニ公判ノ辯護ノ関關係上、好意ヲ以テ居タカラ、私デアツタナラ彼等ニ好意ヲ以テ事件發生後
善処シテ呉レルト思ツテ載セテ居タコトト考ヘラレマス。
私ガ豫メ事件ノ發生ヲ知ツテ居テ彼等ト諒解ガアツタト云フコトハ絶對ニアリマセン。

二月二十五日ニ於ケル相澤中佐ノ公判ニテ、相當峻烈ナル證人申請ヲ爲シ、翌朝、今回ノ事件ガ突發シタルコトニ鑑ミレバ、
其間因果關係アリ、又事件ヲ豫見シ居タル如ク観察セラルルガ如何

因果關係ハ全クアリマセン。
證人申請ハ、私トシテハ次回ニ午前中ニ、時間ヲユツクリ戴イテ申請シ、
當日ノ夕刊ニ申請ノ理由等ヲ成ルベク詳シク掲載セラルゝコトヲ希望シテ居リマシタ所ガ、
二十五日午後裁判長ヨリ當日申請スルコトヲ要求セラレ、
鵜沢辯護人ト相談スル爲メ、裁判ヲ休憩シテ貰ヒ、約三十分間ニ申請スベキ證人ノ選定、
區分等ヲ咄嗟とっさノ間ニ話シ合ヒ、午後三時頃ヨリ午後五時頃ニ亘リ申請シタ次第デアリマシテ、
二十六日ノ事件トハ何等關係ハアリマセン。
證人申請ガ鋭キ語句ヲ以テ爲サレタコトガ刺戟セル様ニ考ヘル方モアルカモ知レマセンガ、
私トシテハ二十六日事件ニ附イテハ、何等承知シテ居リマセン。
ケレ共、靑年將校等ガ一般ニ非常ニ行詰ヲ感ジテ、昭和維新ヲ念願スルノ餘リ、
全軍的ニヤルセナイ思ヒヲシテ居ルコトハ能ク承知シテ居リマスカラ、
寧ロ、此ノ熱意ヲ私ノ辯論ニ依リ緩和シ、時勢ノ安全弁トシテ、
軍當局竝ニ裁判官共ノ他國家ノ要職ニアル方々ノ理解反省ニ資シタイト考ヘタカラデアリマス。
證人申請 ハ
別冊ノ通リ。
モノデアルコトハ、御覧ヲ戴ケレバ解ルコトト存ジマス。

今回ノ事件ニ調停ニ乗り出シタノハ、自己ノ獨斷ニ依ルモノカ、或ハ陸軍大臣等ノ意圖ヲ受ケタルモノナルカ
(一)、二十六日事件當日正午頃、官邸ニ在リシ古荘次官ト電話ニテ御話ノ際ハ、
「 今スグ來テクレナクトモ、秘書官等モ居ルカラ人手ハアル。然シ事態ハ大イニ憂慮シテ居ル 」
ト云フ意味ノ次官ノ御言葉デアリマシタノデ、
其後約一時間各方面 ( 陸軍省、參謀本部、憲兵司令部 ) ニ電話ニテ情況ヲ確メタルモ情況判明セズ、
依ツテ私ハ次官ガ獨リ官邸ニ靑年將校ヨリ閉込メラレテ、他ノ幕僚將校等官邸ニ入リ得ナイ關係ニアルモノト考ヘ、
此際多少ハ靑年將校ノ氣持チヲ理解シテ居ル私ガ急デ官邸ニ行ツタ方ガ次官閣下モ御力強イト考ヘテ、
獨断デ午後一時頃自宅ヲデマシタ。
午後三時頃官邸ニ到着シテ見ルト、次官ノ御言葉デハ、
私ガ自宅ヲ出タ直後ニ次官カラ私ヲ電話デ呼出サレタトノコトデアリマシタ。
斯様ナ譯デ行違ヒニハナリマシタガ、私ガ官邸ニ參リマシタコトハ、次官ノ意圖ニ合致シタ譯デス。
爾後二十六日夜十二時過ギ迄官邸デ次官ガ宮中カラ歸ルノヲ御待チシタノハ、次官ノ命ニヨリマス。
(二)、而シテ十二時過ギ迄次官ガ歸ラザル爲メ、獨斷デ官邸ヲ出テ万平ホテルニ行キ、
 空室ナキ爲メ帝國ホテルノ玄關ニ位置ヲ移シ、事態ノ惡化ヲ防グ爲メ、
石原大佐等ト會見セルハ獨斷ニ依ルモ、之レハ機宜きぎノ処置ヲ執ツタノデアリマシテ、
私ヲ呼出シタ次官ノ御意圖デモアルモノト考ヘマシタ。
此ノ処置ノ後、憲兵司令部ニ至り、二十七日払暁、次官及人事局長ニ會ツテ報告シテ、
自宅ニ歸リマシタ。
(三)、二月二十七日午前十一時頃、憲兵司令部及兵務課ヨリ電話ニテ呼出サレタノハ、獨斷デハアリマセン。
火急ノ場合ノ呼出シデ、陸軍大學校幹事ニ御届ケスル暇モナク、憲兵司令部ニ參リマシタ。
憲兵隊ノ要求ニ依リ靑年將校ヲ説得スルニ努メマシタ後ハ、自宅ニ歸リマシタ。
(四)、二月二十八日午前四時、戒嚴司令部公平參謀ヨリ電話デ至急ニ呼出サレ、
 戒嚴司令部ニ參リ、靑年將校ノ説得ニ努メマシタガ、之モ獨斷デハアリマセン。
此際、戒嚴司令部ヨリ陸軍大學校ニ正式ニ、私ヲ呼出スコトニ附、手續ヲ執ツテ貰ヒマシタ。

二十六日午後三時頃、陸相官邸広間ニ於テ、靑年将校ニ遇ヒタル時ノ狀況如何
官邸ニ入ルヤ次官ニ届出デ、次官ヨリ、
「 自分ハ既ニ靑年將校ノ言ヒ分ハ聞イタカラ、君モヨク聞イテクレ 」
トノ話ガアリマシタノデ、
同室ニ居タル七、八名ノ靑年將校 ( 野中大尉、磯部、村中 其他 ) ニ向ヒ、先ヅ
「 大變ナコトヲシデカシタデハナイカ。僕ガ公判デ合法的ニ叫ンデ居ルカラ、
 コンナ事ハヤラナイダラウト考へて居タノニ、トウトウヤツテシマツタネ 」
トノ意味ノコトヲ述ベマスト、多分村中デアツタト記憶シマスガ、
「 仕方ガアリマセンデシタ 」 ト答ヘマシタ。
ソレカラ、 「 言分ハ何カ 」 ト尋ネマスト、蹶起趣意書ヲ渡シマシタ
( 野中大尉カ村中カラダツタト思ヒマス。野中大尉トハ此ノ時始メテ會ヒマシタ )。
蹶起趣意書ヲ讀ンデ私ハ、
「 之ハ抽象的デ氣持ハ判ルガ、結局具體的ノ希望ハ何カ 」

ト尋ネマスト、次ノ意味ノコトヲ村中ガ言ヒマシタ。
第一、軍内相撃ハ不可。
第二、南、宇垣、小磯、建川將軍等ヲ此際辭メサセテ貰ヒタイ。
第三、幕僚フアツシヨノ中樞的人物ヲ速ニ處分シテ貰ヒタイ。例ヘバ根本大佐、片倉少佐、武藤中佐等。
第四、全國ニ散在シテ居ル同志將校、例ヘバ大岸、菅波、小川、朝山 ( 羅南ニ在リ )、大蔵、佐々木、
  江藤等ヲ東京ニ呼出シ、時局ニ對シテ活用シテ貰ヒタイ。
第五、事態ノ安定ヲ得ル迄ハ蹶起部隊ハ現ニ占領シアル位置ヲ動カヌ様ニ取計ハレタイ。
要スルニ、昭和維新ヲ實行スル如ク強力政府ノ實現シテ、維新ニ向ツテ貰ヒタイ。
ソコデ、私カラ、「 強力政府トハ結局誰ナラヨイカ 」 ト問ヒタルニ對シ、
村中カラ、
「 我々トシテハ眞崎閣下カ柳川閣下ナラバ時局ガ乗リ切レルト考ヘマス。
 荒木閣下デハ時局ハ乗リ切レナイト思ヒマス。寧ロ對ソ關係上、關東軍司令官ガ適任ト思フ 」
村中ノ此ノ言葉ハ、單ニ彼等ノ希望デアツテ、決シテ要求ガマシイ言葉デハアリマセンデシタ。
ソコデ、私ハ次官ト二人デ靑年將校ノ居ナイ別室ニ行キ、事態重大ニ就キ善処セラルゝ必要アルコトヲ申上ゲ、
次官カラ御話ヲ承ツテ居る中、鈴木大佐、山下少將、次デ馬奈木中佐等ガ御出デニナリマシタ。
次官ハ、山下少將ヲ留守番トシテ、宮中ニ參内セラレマシタ。
私ハ次官ノ命ニ依リ、官邸デ待ツテ居リマシタ間ニ、馬奈木中佐ト靑年將校ト對談シ、
私モ磯部等ト話シテ、彼等ノ氣持チヲ確メマシタ。
其際、昭和維新ニ進ンデ貰ヒタイトノ熱望ヲ聞キ
「 希望ノアル処ハ出來ル丈上司ニ意見ヲ申上ゲ、盡力シヨウ 」
トノ意味ノ返事ヲシマシタ。

小林長次郎ガ官邸ニ來タノハ、中佐ノ招致シタルモノナルヤ
二十六日夜十一時頃、外カラ小林ヨリ官邸ノ私ニ電話アリ。
私ニ變リナイカト聞キマシタカラ、私次官ガ宮中ヨリ歸ルヲ待ツテ居ルガ未ダニ歸ラナイノデ、
私ハ今カラ自宅ニ歸ラウト思ツテ居ルト答エマスト、小林カラ、
「 ソレデハ今銀座ノ板倉方ニ居ルカラ、歸リニ寄ツテクレ 」 トテ、板倉氏ノ事務所ノ位置ヲ説明シマシタ。
私ハ立寄ル約束ヲシテ、電話ヲキリマシタ。
其頃、山下少將ハ 林、荒木、眞崎、寺内、阿部、西ノ各軍事參議官を同伴、官邸ニ歸ツテ來ラレ、
其席上ニテ山下少將ヨリ私ニ、一應私ノ考ヘヲ申述ベヨトノ話ガアリマシタノデ、
軍事參議官ニ説明ヲシマシタ關係上、急ニ官邸ヲ出ラレナクナリマシタノデ、
再ビ小林ヨリ、「 早ク來テ
呉れ。待つて居る 」 との電話ガアリマシタノデ、私カラ、
「 急に官邸から出ラレナイ。出る爲メニハ警戒線を通過する爲め、時間を要し、遅クナルカラ、寄レヌカモ知レナイ 」
と申シマスト、小林より 「 ソレデハコチラカラ官邸に行かうか 」 トノコトデアリマシタノデ、
私は、「 官邸には容易に來レナイゾ。殊に地方人ダカラ通レヌカモ知レヌ。
 然し、是非遇ヒタイナラ來て呉レ。來ルニハ合言葉ガアルソウダカラ、ソレヲ言ツテ來イ 」
ト告げ、合言葉を説明シマシタ。
暫クシテ十二時頃、小林ガ參リマシタ。
コノ頃、橋本大佐モ來ラレマシタ。
十二時過ギテ次官ハ歸ラナイノデ、私ハ自宅ニ帰ル爲、官邸ヲ小林ト共ニ出マシタガ、
自動車モナク、官邸ノ前ニアツタ自動車ヲ借リ、取敢エズ万平ホテルニ行キ、次デ帝國ホテルニ行キマシタ。

村中、磯部と亀川トノ關係及帝国ホテルニ龜川ヲ招致セル理由如何
村中、磯部ト龜川トハ何時頃カラ交際ガアツタカハ存ジマセンガ、
最近相澤中佐ノ公判ヲ中心トシテ、龜川氏ト村中、磯部トハ互ニ交際シテ居ルコトハ存ジテ居リマス。
私ト龜川トノ關係ハ、私ガ陸軍省ニ居タ時代、
龜川氏ガ農道會ノ主張等ニ附キ私ニ意見ヲ述ベニ來ラレタノガ始メテデアリマス。
夫レ以來知合ヒデアリマスガ、久シク交際ハトギレテ居リマシタガ、
私ガ公判ヲ引受クルニ及ンデ、時々公判問題デ會ヒマシタ。
龜川氏ヲ帝國ホテルニ呼出シマシタ理由ハ、帝國ホテルニテ石原大佐ヨリ、
「 靑年將校等ガ強力内閣擁立其他ニ附強キ要望ヲ持シテ居ル爲、
 上司トシテ宮中ノ輔弼等、 板挟ミニナツテ困ツテ居ラレル様子ナルコト 」
ヲ聞キ、石原大佐ガ帝國ホテルヲ立チ出デタル後、
村中ヲ呼出シテナダメ様ト考ヘ、
ソレニハ公判辯護ノ關係ニテ村中ト親シイ龜川氏ヲ
わずらわシ、
村中ヲ説得スルコトガ具合ガヨイト考ヘテ、
先ヅ龜川ヲ電話ニテ呼ビ、次デ村中ヲ電話ニテ呼出シマシタノデアリマス。

二十七日午前午前十一時頃、新議事堂前、首相官邸ニ於テ、蹶起部隊將校等ヲ説得シタル狀況如何
憲兵曹長 及 同軍曹ノ兩名立會ノ上、山本少尉ト共ニ、
先ヅ議事堂ノ廣場ニ集結中ノ部隊ノ処ニ行キ、
次デ
首相官邸ニ行キ、靑年將校等ニ次ノ意味ノ説得ヲ爲シマシタ。
「 諸君ハ重臣其他諸君ノ目的ハ之ヲ達シタノダカラ、
 此ノ上ハ命令通リ從順ニ行動シテ、 大義ヲ誤ラヌ様ニシテ貰ヒタイ。
何レ法ニ照シテ、夫々御処置ガアルダラウ。
而シ 御上ニ於カセラレテハ、御慈悲モアルコトデアルト思フカラ、
思ヒ詰メタ考ヘヲ起シテ、無分別ナコトヲシナイ様ニシタ方ガヨカラウ 」
當時、靑年將校ハ別ニ昂奮ノ様子ナク、
議事堂ノ前ニハ部隊ハ集結中デ、情況ハ極メテ楽観サレタノデ、
私ハ憲兵ト共ニ直ニ憲兵隊ニ歸リマシタ。

他ニ申立ツルコトナキヤ
アリマセン。

陳述人  満井佐吉
右録取讀聞ケタル処、事實相違ナキ旨申立ツルニ依リ、署名捺印セシム
昭和十一年三月十一日

渋谷憲兵分隊
陸軍司法警察官  陸軍憲兵少佐  徳田 豊

次頁  満井佐吉中佐の四日間 3 に  続く
二・二六事件秘録 ( 一 )  から


この記事についてブログを書く
« 満井佐吉中佐の四日間 3 『... | トップ | 満井佐吉中佐の四日間 1 『... »