あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

君側 2 「 日本を支配したは宮廷の人々 」

2021年11月17日 09時41分01秒 | 其の他

前頁 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 の 続き

陛下
日本は天皇の独裁国であつてはなりません、
重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許せません、
明治以後の日本は、
天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、
もつと ワカリ易く申上げると、
天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、
左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁をも許しません、
然るに、今の日本は何と云ふざまでありませうか、
天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませぬか、
いやいや、よくよく観察すると、
この特権階級の独裁政治は、天皇をさへないがしろにしてゐるのでありますぞ、
天皇をローマ法王にしておりますぞ、
ロボツトにし奉つて彼等が自恣専断(ジシセンダン)を思ふままに続けておりますぞ
日本国の山々津々の民どもは、
この独裁政治の下にあえいでゐるのでありますぞ
・・・磯部浅一  獄中日記 (三)  

二十六日の朝に、
・天皇は叛乱を絶対に認めてはいけません、
・そして 叛乱をすぐ弾圧しなければなりません、
・弾圧内に新しい内閣を組織することは絶対に許してはいけません
 と 決定しました。・・・木戸幸一日記から
木戸は 湯浅宮内大臣と広幡侍従次長を通して、
天皇に強い影響を与た。
・・・リンク→ 天皇は叛乱を認めてはいけません・・・ 
・・・リンク→ ・・・こんなことをしてどうするのか

 
 
西園寺公望                 木戸幸一           原田熊雄

宮廷の人々
此処では西園寺、木戸、原田、侍従長、内大臣、宮内大臣 等を謂う
前頁 君側 1 『 大命に抗したる逆賊なり 』 
の 続き

問題の、軍部大臣は現役将官に限るという寺内陸相の提案に対し、
原田は四月二十日、広田首相を訪ね
「 どうせ陸軍大臣の言うことをきかなければならないのなら、
なるべくあっさりきいてしまった方がいいじゃないか
と、西園寺の言を伝えている。
いわゆる 『 原田日記 』 『 木戸日記 』 『 本庄日記 』 『 近衛手記 』 等々を読むと、
敗戦に至るまで、昭和の政治の実権は西園寺を中心とする華族の一派の手中に在ったようだ。
そして便宜上一部の官僚を利用した。
即ち宮内省、内大臣府、侍従職等の要点にこれ等華族を配置して側近を固め、
反対勢力の侵入を断固として抑えた。
明治維新に使われた 「 宝 」 を手にしたのだ。
只一人の元老西園寺を中心とする宮廷派の動きを大観すると、
一口にいえば軍人いじめであると私は考える。
ロンドン条約が問題になれば条約派に肩入れし、
陸軍が強いとみれば海軍を支援して対抗せしめるという方策をとった。
このため、海軍部内の分裂を深め、陸海の対立を激化せしめ、
敗戦に至るまでその亀裂は塞がらなかった。
・・・リンク→
ロンドン条約問題の頃 1 『 民間団体の反対運動 』 
この方策は、何百年という長い間、武家政権に対抗した無力無責任の公家のやり方であり、
身分意識からくる武家軍人に対する蔑視、反感からではなかろうか。
西園寺個人としては、首相時代、増師問題による陸軍の倒閣に対する反感もあったであろう。
しかしこのやり方は、天皇のもつ機能の反対の方向である。
ロンドン条約で海軍部内が二つに割れたのは、
比率問題以上の打撃であり、米国を喜ばせたであろう。
この頃私は中尉であったが、師団より中少尉に対し、軍縮問題を論ずる課題作業があった。
在職二十年間、この様な事はただ一度だけであった。
昭和動乱の根源ともいうべきロンドン条約を、冷静にもっと広く深く研究して、
当局者は対処すべきであったと思う。
斎藤内閣から岡田内閣にかけて国体明徴運動が起きた。
一面は精神的であるが他面では政治問題として取り扱われた。
当時、国内政治の革新が叫ばれ、
現実の社会と、政治の動向との間にある矛盾を克服する運動として起きたのだ。
したがってこの運動は、政治、社会の各方向に大きな影響を与えた。
その一つに美濃部博士のいわゆる天皇機関説問題がある。
・・・リンク→国体明徴と天皇機関説問題 
軍は、その精神的影響をおそれ、
三長官協議の上、
真崎教育総監の名をもって、国体明徴の訓示を全軍隊に行った。
・・・リンク→『 国体明徴 』 天皇機関説に関する真崎教育総監の訓示 
政治問題として取り扱われると、直接的には岡田内閣の倒閣、間接には重臣層の勢力の紛争にあった。
国体明徴運動の政界における中心は平沼騏一郎にあったという。
岡田は海軍の条約派で宮廷派に親近し、平沼は西園寺の最も嫌いな人物。
それでなくとも荒木、真崎と皇道派の領袖として、宮廷グループより嫌われていたのが、
この一件にて真崎敵視は決定的になったと思われる。
・・・リンク→「 武官長はどうも真崎の肩を持つようだね 」 
宮廷派は当然、北の改造法案を読んだのであろう。
最も彼らが嫌ったのは、「 国民ノ天皇 」 の項であろう。
そこには華族制度廃止がうたわれ、皇室財産の国家下附が書かれている。
彼らが二・二六事件の将校や、これと重ね合わせて真崎を敵視した理由はよくわかる。
衆議院で多数を獲得した政党の総裁が首相になるのではなく、
西園寺がこれが適任と推薦したものがなる。
「 強力内閣 」 「 挙国 」 「 挙国一致内閣 」 等の空名を掲げるが、既記の如く、
分割統治の上に成立するのであるから、
基礎薄弱で、国家国民のために何等なすところなくして終るのである。
首班指名という、最も強大な権力を握っているから西園寺詣でが行なわれ、原田、木戸らの勢威は高まる。
したがって宮中における自己勢力の維持には、周到な準備と配慮が行なわれているようだ。
昭和七年三月二十七日 『 木戸日記 』 に、
原田熊雄の 西園寺の言 として次のように記している。
「 老公の御考として、近衛公をなるべく早く議長とし、・・・・必要を生じたる場合には
 出て組閣せしむるも可ならずやとの御話あり。
又、余を矢張り早き機会に侍従次長あたりの位置に就かしめ、
将来は側近にて働かする様になすを可とせしむとの話なりし由。
老公の御胸中を推察するに、
本邦の現状は既に革命の過程に踏込みつつある様に考へ居らるるものの如く、
元老の重責を荷はれて御心労察するに余りあり 」
爾後の進展を見ると、大体その通りに配置している。
ただ革命の過程に入ったと見ながら、その対応策がなかった。
勝海舟がいなかったわけである。

昭和十年十二月二十一日の 『 木戸日記 』に、
「 反対陣営の内閣の手にて内大臣の更迭を行はるるは極力避けたきを以て
 此際是非決行したき旨を希望す。宮内大臣も大体同感なりき 」
とある。
そして二十六日牧野の代りに斎藤実が内大臣となり、運命の日を迎えることになる。

二 ・二六事件直後の四月十日の 『 木戸日記 』 は次のように記している。
「 左の如き家族制度改革の骨子を示し高橋敏雄爵位課長に其研究を求む。
 華族制度改革要旨
適度に新陳代謝を行ひ華族の数をある程度に調整すると共に、
清新の気を加ふること
一、永代世襲の制を廃す
一、左の代数を経たる後は平民に復す
 公爵九代  侯爵八代  伯爵七代  子爵六代  男爵五代
一、特殊の家柄に就ては勅旨を以て代数の延長 又は永続を認むること 」
さらに六月二十五日の日記には、
「 高橋課長に家族制度改革の別案として、
一、既得権には変更を与へず
二、今後の華族を男爵三代  子爵四代  伯爵五代  侯爵六代  公爵七代とする案を研究以来 」
している。
今からみれば馬鹿げた考えだが、木戸ですらこの程度である。
当時の生活環境のためといえばそれまでだが、革新の困難さをよくあらわしている。

戦前世界一といわれた皇室財産。
その収支は明らかにされていない。
天皇家や皇族の家系的支出、災害等の救恤金、学習院や帝室博物館の経営等は知られているが、
いわゆる機密費、特定の人に対する給付が行なわれたようだ。
大臣経験者などに 「 前官礼遇 」 という待遇が与えられた。
これは在官当時の俸給相当額を、退職後も皇室財産から与えたことである。
戦後、『 華族 』 という本の中で木戸は、
「 明治天皇は、大変公卿というものに御関心が深く、
 これを守り立てて、・・・・堂上華族のための資金をおつくりになって、
・・・中略・・・
僕が宗秩寮総裁をしていた昭和八年ごろから十年ごろ、公爵で年間六千円の配分があった。
六千円というと当時の大臣の俸給。爵位によって金額がちがっているのです。
それくらいの配分ができる程資金が貯っていた 」
と 述べている。
また後継内閣をつくるため、重臣を集める考えの案の時、
重臣--前総理大臣で、
「 はじめは前総理大臣では多過ぎるから、総理大臣の前官礼遇を受けたものということで考えた。
 おかしなことに、海軍出身者はみな前官礼遇をもっているのに陸軍出身はいない。
カーキ色をツンボ桟敷なおいて内閣をつくったら、これは大さわぎになる。
仕方なく前総理ということになった 」
と 金沢誠氏らに答えている。

・・・挿入・・・
天皇財産の国家下附
天皇は自ら範を示して
皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す。
皇室費を年約三千万円とし、国庫より支出せしむ。
但し、時勢の必要に応じ議会の協賛を経て増額すめことを得。
註。
現時の皇室財産は徳川氏の其れを継承せることに始まりて、
天皇の原義に照すも斯かる中性的財政をとるは矛盾なり。
国民の天皇は其の経済亦悉く国家の負担たるは自明の理也。
・・・リンク→日本改造法案大綱 (5) 巻一 国民の天皇 

天皇家の財政が明らかになれば、昭和史も、否、明治以降敗戦に至る歴史も
一段と明らかになると思う。
政治的の機密費として相当なものが流れていて、宮廷グループは、権力---奥ノ院の---と共に、
物質的なものに左右していたと想像される。
彼らの掌中に軍部も政党も財界も、極端にいえば踊らされていたのではないか。

『 華族 』 という本の中で木戸は、
大正十一年十一月十一日に始めたので十一会といった会名の説明をして、
会員は近衛、原田、阿部長景、外務政務次官浅田信恒、逓信省の局長広幡、
有馬頼寧、貴族院の副議長佐々木行忠など十二、三名で、
はじめは主として華族出身で役人になった連中の集りで終戦まで続いたと、いっている。
この十一会の連中--もちろん、こればかりではないが-- の情報、話し合いの結果が西園寺を動かし、
首相を決定し、側近の重臣、枢密院の議長副議長を決定したと見て大過ないであろう。
そう考えると、敗戦までは、表面はともかく、実際は宮廷政治---貴族政治ではなかったか。
しかりすると 「 一君万民 」 の標語の意味する万民平等への志向は、彼らにとっては好ましくなかった。
守りを固めたのは当然である。
北、西田に親しい磯部は、このような貴族の動きは摑んでいたと思われる。
「 陛下、日本は天皇の独裁国ではあってはなりません。
 重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許しません。
明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君万民との一体的立憲国であります。
もっとワカリ易く申上げると、天皇を政治的中心とする近代的民主国であります 」
と言い切っている。

敗戦によって家族廃止。
貴族院も当然なくなり、皇室財産も、その主要な御料林等も国有に帰した。
農地解放等も行われた。
これらの多くは、
磯部が信奉する 「
日本改造法案大綱
」 の中にあるもので磯部の実行したく思った事だ。
これらの改革は戦争による数百万流血の上に行われたものであり、
決して無血革命ではない。
問題は、今の日本人はこれ程の血を流さねば、改革が行われない国であり人であるのかということだ。
江藤淳著 『 もう一つの戦後史 』 の農地改革の成功の項に興味ある記事がある。
戦前の農林官僚の中に、地主的土地所有の矛盾を痛感し、なんとかしなければ 「 農民がかわいそうだ 」
と 考えた多くのすぐれた官僚かいた。
中心人物は大正九年当時の農政課長の石黒忠篤である。
現実に農地制度の病根にメスを入れるような立法措置が行なわれるのは、
日華事変が勃発し、統制経済を強化する戦時立法が行なわれるようになってからだ。
昭和十三年の内調整法、次いで小作料統制令等、戦局の激化と共に進んで昭和二十年六月、
戦時緊急措置法が成立すると、この緊急立法を利用して、一挙に小作料の金納化を中心とする制度改革を、
農林省は行わんとした。
石黒農林大臣はさすがにこれにはおどろいて、「 もう少し慎重にやり給え 」 と指示して
勅令案から小作料金納化の規定を落とし、
「 国内戦場化に伴う食糧対策 」 に切り替えさせたという。
このように戦前からの準備が積み重なって戦後の農地改革は成功したということだ。
右の記事で、戦時になって初めて病根にメスを入れたことと、
小作料金納化は最後まで踏み切れなかったことは考えさせられることだ。

宮廷派は秩父宮を如何に見ていただろう。
秩父宮は歩三で安藤が士官候補生時代からの関係で、
安藤に対する信頼が深く、刑死する時安藤は、天皇陛下万歳に続いて秩父宮万歳を唱えている。
まあ 自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれど、
木戸や近衛 ( 時の首相 ) にも注意しておいてもらいたいが、よほど皇室のことは大事である。
まさか、陛下の御兄弟にかれこれということはあるまいけれど、
しかし 取巻の如何によっては、日本の歴史にときどき繰返されるように、
弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている。
かくの如き不吉なことは無論ないと思うけれども、また、今の秩父宮とか高松宮とかいう方々に、
かれこれいうことはないけれども、或は皇族の中に変な者に担がれて、
何をしでかすか判らないような分子が出てくる情勢にも、
平素から相当に注意して見ていてもらわないと、事すこぶる重大だから、
皇室のために、また 日本のために、この点くれぐれも考えておいてもらわなければならん
 」

・・・『 西園寺公と政局 』
昭和七年六月二十一日の 『 木戸日記 』 によると
「 六月二一日宮内大臣官邸にて夕食、近衛公、原田男
 秩父宮の最近の時局に対する御考が稍々もすれば軍国的になれる点等につき意見を交換す 」
秩父宮はスポーツを御愛好になり、庶民的で、妃殿下も今までの例を破って皇族や公卿ではなく
会津の松平家より来られ、皇太后陛下は秩父宮を大変可愛がられたといわれる。
それから、これは他のことだけれど、
皇太后様を非常に偉い方のように思って、あんまり信じ過ぎて・・・・というか、
賢い方と思い過ぎておるというか、
賢い方だろうが、とにかくやはり婦人のことであるから、
よほどその点は考えて接しないと、陛下との間で或は憂慮するようなことが起こりはせんか。
自分は心配している
 」 ・・・『 西園寺公と政局 』
宮内省に永らく務めた小川晴信の口述手記 「 三代宮廷秘録 」 ・・・「 文藝春秋 」 昭和二十五年十一月号
によると、

西園寺公望の子 八郎は、ある時、天皇陛下のゴルフのお相手をしていたが、
休憩の時、八郎はねころんで、頬杖ついて陛下と話をしていた。
陛下はゴルフ棒をもって立ってお話しをしていらっしゃる。
そこへ秩父宮がお見えになって、
「 西園寺 」 と、大声で呼ばれ、
「 いかに御運動中とはいえ、陛下の御前ではないか、貴様の無作法は何事か 」
と、お叱りになった。
西園寺は平気な顔で立ち上がったが、恐縮の態には見えなかった。
と。
側近の、天皇観の一端が判る。

昭和八年四月十日の発令で西園寺八郎は職を去る。
ただしこの事のためか否かは不明だが 『 木戸日記 』 で見ると事件の性質を官紀問題としている。
西園寺八郎の進退問題は大分前から近衛、甘露寺らと相談し、
三月十五日、湯浅宮内大臣と一時間半に亙って相談。
西園寺の性格から、他人を交えず大臣が本人に説示し辞任せしむること、
まず内大臣、侍従長と十分意見の交換を希望し、
元老に及ぼす影響を十分考慮せられたし と木戸は言っている。
西園寺八郎は毛利家から西園寺の養嗣子になったもの。
木戸も湯浅も長州出身である。
もしも西園寺八郎の官紀問題が前記の秩父宮の叱責事件も含まれているのであるならば、
宮廷グループに与えた影響は無視できぬものがありそうだ。
二 ・二六事件における天皇の激怒の中に、
宮廷グループから、前まえから、秩父宮に関しての話が陛下にあったのではないか。

佐々木二郎 著  一革新将校の半生と磯部浅一 
宮廷グループの動き  から


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